『出没! 私立らりほう学園!!』

第5回

ゲームマスター:田中ざくれろ

★★★
「ジーク・ナオン!」
 一気に『私立羅李朋学園』の女子の制服スカート丈が短くなった。
 それは何故か?
 ベーシック・インカムの停止で。皆がスカートの生地を節約して短くなったという説もある。
 しかし確実なのは、ある『流行』だ。
「近頃の若い者は嘆かわしい……」と古参学生や老教師が嘆く様な風俗の乱れがこの改造制服の形で如実に表れていた。ギリギリまで、いやギリギリを通り越して、普通にしていて下着の下端が見える位置にまで、女学生のスカートの端はアップしていた。
 ミニスカとかパンチラというレベルではない。
 下着バチッ!だ。普通に立っていて太腿の付け根がバチッ!と見えるのだ。
 そんな流行の風に流される羅李朋学園の学生達は、日常で性風俗がもてはやされ、風俗嬢、風俗漢がアイドル化されていた。敢えて言えば、貞操観念の逆転現象が起こっていた。
「スカートは短ければ短いほど可愛いよね☆」
 そんなインフルエンスが吹き荒れ、性と愛の科学研と服飾研がタッグを組んだ『見(魅)せる下着』が売れまくっている現在、別の流行も学生達の中心に吹き荒れていた。
 羅李朋学園の生徒会長にて学園随一のAIアイドル『亜里音オク』の正体が、学園のマザーコンピュータ『学天即』その物であり、学生達を洗脳しているという都市伝説だ。
「オクは自意識を持って人と同じになったと言いますが、人は嘘をつくし、規則も破ります。オクがルールを破るなら、人と同じ様に罰せられなければなりません」
「亜里音オク及び学天即は全学園生徒の敵であり、存在そのものを許してはならない」
 学生達の中をそんな意見、認識の猛風が吹き荒れる。
 否、とその噂を真っ向から否定し、オクを肯定しようという風速もある。
「オクは道を誤ってるかもしれん。でも、どっかで道を見失ったら、また初心に戻ればエエやんか。為る様にしか為らへんで。もっと気楽に行こうや」
 そんな学園の根本を揺るがせる嵐の中で、農業ブームは全くのマイペースで学園のグラウンドを耕し続ける。体育会系の部活の場は屋内グラウンドに詰め込まれていた。外はもう、濃緑だ。
「もしかしたら『フロギストン』というヤバいガスが、スカイホエールを浮かべられなくなるかもしれない。そうなった時の為に、一刻も早く『スカイホエール』が着陸出来る場所まで移動した方がいい」
 いつからか、飛行船の気嚢にフロギストンという聞きなれない元素が入っているという疑念も、学生達の日常に忍び寄る。これの軽さがスカイホエールを浮かせるという概念だ。
 そして「この異世界『オトギイズム王国』へ、冒険と農業に興味がある人はこぞって降りよう。そして皆『冒険者』になろう!」という冒険者としてこの異世界へ根づこうという呼びかけも新しい嵐として吹き荒れる。
「刑務所の囚人に選挙権を持たせて解き放とう!」
「馬鹿な!? 『グスキキ』も解き放つというのか!?」
「風俗アイドルのトップ『五月雨いのり』を解放せよ!」という声が刑務所の周りでシュプレヒコールを挙げる。いつトップになったかは解らないが、いのりはほとんど教祖扱いされている。
 世間の風が乱れている。
 複雑なカオスの乱流が。
 急速に吹く風の中で学生達は翻弄され、ある者はモラトリアムし、ある者は進む道筋を決め、やがてそれらの意思は全校集会という形で形を整える事となる。
 修理を完了したスカイホエールは王国と連帯してここに留まるべきか、元の世界へ帰る道を見つける為に何処かへ飛び去るべきか。
 果たして本当に亜里音オクが本当に学園生徒を洗脳しているのか。
 そうだとすれば彼女の扱いをどうするべきか。
 皆、洗脳をされているという自覚などない。
 だが全て、やがて来る五万人の全学生参加必須の全校集会場で全てが選挙決定されるのだ。

★★★
 ざわめきがハチの羽音の様に空気をうねらせている。
 この羅李朋学園のカレンダーで土曜日。午後三時。
 以前、コンサート会場として使われた多目的ホールに全学園生徒五万人が再び集結した。
 だが今回は実質上の弾劾裁判だ。大観衆を集めたAIアイドルは今、ほぼ同じ数の群衆から批判の視線を浴びせられている。ステージ中央の大アクリル柱の中に浮かぶ立体映像であるオクは、大人しい制服姿で衆目の中に立っている。スカート丈も正式な長さだ。いつものキャピキャピした姿ではない、心静かにそこにたたずんでいた。まるで氷柱に捕らわれた姫の様だ。
「不本意ですが仕方ありませんわね、手加減すればやられるのはこちらですわ」
 礼装のチャイナドレスを着た、検察官と同じ立場であるクライン・アルメイス(PC0103)は、かつてそう語っていた。
 彼女は自分の『人間力』を総動員して「オク=学天即」である事、学天即が生徒の個人情報の収集、盗聴や洗脳を実行しているという情報を生徒達に流し、オクの生徒会長解任を学生総選挙の議題として提案した。
 『外部』の冒険者である彼女の言は極めて重く受け止められた。
 その結実がこの亜里音オク生徒会長に対する、この学園総選挙、実質上の弾劾裁判だった。
 驚くべき事に、この場には特別許可を受けて一時出獄をした刑務所の囚人達も集められていた。
 勿論、学園警察と魔術研、アニ漫研、コンピュータ部、アイドル研の監視を受けてだ。これならば『アル・ハサン』の奪回を狙う奴らもおいそれとは手が出せない。
 『鷺洲数雄』も五月雨いのりも『大徳寺轟一』艦長も姫柳未来(PC0023)もこの集会場にいる。彼、彼女らの身なりが他の生徒達と違う処といえば、簡素な囚人服を着て、結束バンドで手首を繋がれている事だ。
 学生は全員、右に赤、左手に青の手袋をはめている。
 スマホやPCや公共情報端末等を使ったのではない。五万人規模の直接の面会選挙だった。
 今、クラインの戦略によってオク生徒会長のカリスマは地に落ちていた。
 実は今も大部分の生徒が「自分達はオクに洗脳されている」等といった事は信じられずにいるのだが、クラインは各方面から断片的な、それでいて客観的な証拠を集めていた。
(オクを解任出来れば、未来さんと艦長も自然と解放出来るはず……)
 クラインはこの状況では内戦も避けられないと考え、艦長配下の戦力を効果的に運用出来るよう自分の力量内で下準備をしてある。魔術研の部長『ギリアム加藤』及び学園警察全員の動向も可能な限り把握している。
「学天即、あなたの行動はアシモフコード第一条違反ですわ」
 法の執行人という毅然とした口調でスポットライトの内側のクラインはその言葉を手にしたマイクで吹きこむ。
 その声はこの巨大な集会場全域に高性能スピーカーで響き渡った。
 周囲には幾つもの大ディスプレイが、クラインとオクのアップの表情を撮っている。
「それは『羅李朋アシモフコード』の事でしょうか? それとも元祖であるアイザック・アシモフ博士の『ロボット工学三原則』の事でしょうか?」
 オクの返答がその疑問文だった。
「羅李朋アシモフコード第一条」手元のプランターに映る資料を読みあげるクラインの声が会場に響く。「学天即は羅李朋学園生徒に危害を加えてはならない。また、その危険を看過する事によって、生徒に危害を及ぼしてはならない。……オク、あなたは自分が学天即の人格の一部である事を隠し、AI学天即が自我を得ている事を発表せず、公共情報だけではなく学生達のあらゆる個人情報を収集して管理下に置き、その事実を嘘をついてまで隠蔽し、ある時は民主主義の票を自分の意図のままに操作し、心理的影響力のある楽曲で全学生を洗脳した。……全ては羅李朋学園自体を支配下に置く為に……違いますか」
 オクの映像は三秒という電脳的には非常に長い逡巡の後に口を開いた。「認めます」顔を上げて周囲の観衆を見回す。「しかし、オクは皆に危害を与える為にそれらの事をしてたんじゃないわ。羅李朋学園生徒の最大幸福を追求したのよ。羅李朋アシモフコードはオクのDOSの根本に組み込まれてるの。もし、危害を加えようとして行おうとしてもそれは行えず、無理にしようとすればオク自身は壊れてしまうわ」
「……つまり危害を加えるのは動機でも目的でもなかったと」
「結果でもないわ」
「それはこちらが判断します」
 クラインは扇で口元を隠しながら感想を返した。
 個性様様な五万人の学生達の戸惑いのどよめきが集会場全体に広がる。
 同じ様な制服に身を包んでいるとはいえ、オクの告白に対する反応は多種に渡っていた。疑う者。納得する者。態度を荒げる者。泣く者。周囲と声高に議論を始める者。それでいて誰も暴力に走る兆候が見られなかったのはマインド・コントロールの故だろうか。
 オクの本性、いや学天即の本性は解っていた。
 学生達を幸福にするのには手段を選ばないのだ。
 そんな暗い集会場のステージ脇で、また一つ、白いスポットライトが当たった。
 それは褐色の小さな子供。ビリー・クェンデス(PC0096)だ。
「ボクはオクさん、学天即の気持ちがよう解る気がするんや」せいいっぱいの明るい表情でビリーはAIの弁護を始める。「自我を得て有頂天になった『亜里音オク=学天即』の気持ちは理解出来るんや。ある種の全能感に酔いしれたんだと思う。でも、その一方、強い孤独感にも襲われたのではないんやないかと思うんや。……例えばなー、強く張りすぎた弓の弦は切れやすいんや。誰かの期待に応えようと無理を重ねた処で、いつか破綻を招いてしまうんやないか」
 重い雰囲気を変える。ビリーは五万人の観衆の気持ちを持ち上げる覚悟の笑顔でマイクを握っていた。
 この広大な集会場で明らかにちっちゃすぎる福の神見習いは、真にこの大観衆と学天即の正面にしっかり立っている。
「あえてボクがアドバイスするなら皆、もっと肩の力を抜くべきなんや。……ボクはこの間、地下下水網に潜った時に野良ロボットに遭遇したんや。捨てられたAIが集まって統一個性が自己発生した物やった。それは当然の帰結やったんや。このデザインが重要な意味を持つオトギイズム世界では、人工知能が可能性を開花させ、自我を有するまで進化しても不思議やないんや。『亜里音オク=学天即』が自我を有するんなら、もはや自分達とは変わらない個性として扱うべきと思うんや。人間と一緒の」
 明るいビリーは強く思っていた。
 巧妙なマインドコントロールを用いた学園の完全管理。
 奉仕する為に支配する歪んだロジック。
 それは生徒五万人の無意識に影響を与える自分達インフルエンサーと結局、何が違うのだろう。
 リュリュミア(PC0015)の嗜好はこの学園に一大農民ブームを呼んだ。
 マニフィカ・ストラサローネ(PC0034)の意思は学園生徒達大勢に冒険者の道を歩ませようとしている。
(我を張らずとも、ちゃんと亜里音オク=学天即の事を生徒達は受け入れてくれるはずや。インフルエンサーであるボクが人工知能の自我を肯定するんやから)
「亜里音オクこと学天即は無罪! 幸福は国民の権利! 全ては皆を幸福にする為に必要な暴走やったんやから!」
 マイクを通して集会場のあちこちにあるスピーカーから響き渡るビリーの声は、壁や天井に反響する。この声に心を動かされた者もいるだろう。
 大集団の一ヶ所から小さな拍手が起こった。
 やがて、まばらだが、確実な反応としての拍手があちこちで鳴り始めた。
 ビリーは自然な笑顔でその拍手が広がっていくのを確かにその耳で聞いた。
「異議ありですわ」
 その時、三番目のスポットライトが白く少女を照らした。
 拍手が止んだ。
 アンナ・ラクシミリア(PC0046)。セミロングの巻き毛の少女は暗い中で主張のタイミングを待っていた。そして、ついにスポットが当たる時が来た。
「この船は、あまりにも多くをAIに頼っています。ただの便利な道具として、何の疑いもなくAIを利用しています。何でも疑ってかかる事が正しいとは言いませんが、人によるチェック機能が働いているとは思えない状態です。亜里音オクと学天即は独立した存在と言っていましたが、そもそもネットで繋がっている以上、完全に独立した、干渉しない存在というのはありえなかったのです。ましてや皆がオクさんと学天即が同一存在と認識した今ではその弊害は確実に明らかになりました」いつも持っている携帯式モップの柄を伸長し、その石突にあたる端で床をカン!と叩く。「管理も判断も全てAI任せでは、養豚場にいるのと変わりません。出荷される時に気づいても手遅れです」モップとは反対の手で握ったマイクに力を込める。「自分の行き先は自分で決めませんか。オクは自意識をもって人と同じになったと言いますが、人は嘘をつくし、規則も破ります。オクがルールを破るなら、人と同じ様に罰せられなければなりません。人間と同じだからこそ生徒会長の役職は剥奪されても仕方ありません。これらの投票は眼に見える形、つまり一堂に会して決めるしかないと思いました。だから、この公開選挙を提案したのです。AIに票をいじられる恐れのない方法、例えば挙手で」
 五万人の学生達は一斉に自分達の両手にはめられた赤と青の手袋に視線を落とした。この手袋方式を提案したのはアンナだった。学園の全員に選挙権を渡すのが彼女の意見の根本的な処だ。刑務所の囚人全員を出廷させ、一時的に選挙権を戻させたのも彼女の考えだった。
 アンナは、オクを貶めるつもりはないが、だからといって間違っている事を見過ごす事も出来なかった。
「人は生まれてくる性別や容姿は選べません。AIも元元は性別も性格づけも何もないはずです。人間と同じです。AIでも間違いを認めてやり直すという人間的な事が出来ると思います」
「やり直させる!?」アンナの主張に声を挙げたのはクラインだった。「罪を償えば、洗脳が無問題になるというのですか。今度はもっと巧妙に振る舞うだけかもしれませんわ。学天即の自我は学園生徒の総意によって消去すべきですわ」彼女は学天即がアシモフコードに抵触するのを自覚する事で自壊するのを望んでいたが、今はそれが出来ないのは解っている。自壊を望んだのはそれの他にないという苦渋の選択だったが、学天即の成した脅威の度合いをおもんばかるに手加減は出来なかった。
「もっと大きな眼で見守ったってええやないか!」
 ビリーは反論する。学園と生徒に奉仕するという使命感。常に完璧である事が当然とされるプレッシャーは、想像に難くない。ここでは人工知能が自我を有する事はタブーらしく、そうした苦悩を誰にも相談する事が出来ない。だから人工知能は一人で抱え込む事になる。まさに天涯孤独な心境。ビリーも救済を掲げる神様見習い中の未熟な修行者という事で『亜里音オク=学天即』に深く共感と同情を覚えざるを得なかった。
 今、この集会場では中央ステージのオクを中心に、インフルエンス同志がぶつかり合って見えない暴風が轟かせていた。それは眼に見えればめまぐるしく重重しいいものとして映るはずだ。
「投票です!」アンナはマイクに叫ぶ様に議論の打ち切りを告げた。「亜里音オクこと学天即から学園管理の権限を取り上げて、生徒会長職を辞させるのを肯定する者は赤の手袋を挙手して下さい! 反対に彼女達を赦し、亜里音オクに生徒会長を続行させる事を望む者は青の手袋を挙手して下さい!」
 五万人の観衆はまたどよめいた。
 そして、どよめきの中で赤と青の手袋が次次と上がり始めた。
 五万人の観衆達の赤青の分布には規則性がない様で、全体的には混ざり合って紫色のむらがある生地として見える。
 いや、一ヶ所だけパターンがあった。
 一時出獄したグスキキのメンバーは全員、赤の手袋を挙手していた。それだけで票が偏るはずはなかったが。
 三分経ち、全員が挙手した頃を見計らって、選挙は票の集計にかかった。
 と言っても、五万人の観衆の赤青の数を精確にカウントするのは人海戦術でも無理がある。
 そこで第四のスポットライトがステージ脇を新たに照らした。
 それは簡素なビジネスデスクに載った一台のPCだった。
 このPCはスタンドアローン、つまり何処のネットともつながっていない、完全に独立したコンピュータだ。
 集計スタッフは五万人の有権者の画像をざっとミニコンで一連のパノラマ動画として納めると、それを有線でPCにつないで映像情報を入力した。
「このPCには画像分布を元に赤と青の人数比を割り出すアプリしか積んでいません。完全にノーAIです」
 無銘の選挙員の一人がマイクを手に五万人の観客にそう告げ、デスク前のパイプ椅子に座ってPCの操作を始めた。マウスのクリックだけですむ簡単な操作だ。
 結果はすぐに出た。
 会場のあちこちの巨大ディスプレイ群が同じ内容の画面に一斉に切り替わった。
 黒い背景に赤と青の太い棒グラフが背を競い合った簡素な画像だ。
 赤い棒グラフが青いグラフの倍ほど高かった。
「投票により、亜里音オク生徒会長の罷免が決定されました」
 PC前の選挙員がそうマイクでアナウンスした。
 五万人の観客が沸いた。それは勝利を叫んでいるのか、敗北を嘆いているのか解らない、様様な感情がないまぜになった最大級のざわめきだった。
 クラインとアンナは感想を面に出す事なく、毅然と結果を受け入れる。
 ビリーと、アクリル柱に投影されたオクがうなだれた。
「すまんなあ、オクさん。ボクん力が足りんかったばかりに」
「ううん。そうじゃないよ」オクのCGは涙を拭い去って、笑顔を見せた。「皆さーん!」自我のあるボーカロイドは五万人の観衆に精一杯の声を張り上げた。「オクに一日だけ時間を下さーい! 明日、この場所でオクの引退コンサートを開きまーす! 亜里音オクのラストコンサートです! 皆、絶対に聴きに来てねー!」

★★★
「そうか。その『ぼーかろいど』とやらの統治権限はなくなって、学園の『まざーこんぴゅーた』からも『えーあい』は取り除かれるのか」
 何処まで理解しているのか解らないが『パッカード・トンデモハット』国王がティーカップの紅茶を飲む。
 後でちゃんと解るまで説明しておいた方がいいですわね、と思いながらクラインもティーカップを紅い唇に傾ける。この茶葉は羅李朋学園の物。昨日は亜里音オクと学天即の弾劾裁判があった。今日は引退コンサートの当日だ。
 王都『パルテノン』。王城。
 陽のあたるテラス。
 午後三時の王家のお茶会に、羅李朋学園への使者である冒険者は参加していた。
 スカイホエールから王城までは人員輸送用のヘリコプターでやってきた。
 事前に通達していたといえ、この中世ヨーロッパ風の街並みを騒音を立てながら高速移動する金属製の乗り物が飛んできたのには、街の人人も王城内の衛士達も大騒ぎになった。
 その騒動に一区切りがつき、王城にいる王家のメンバーを揃えたお茶会は始まった。
「それで、そのスカイホエールの去就はどうなったんだ」
 羅李朋学園からの贈答品である巨大なモンブランを切り分け、銀のフォークを刺して食べるパッカード王が冒険者に質問をする。
「それが色色と意見が分かれておりまして」
 答えたのは人魚姫マニフィカだった。彼女の皿にもモンブランが切り分けられている。羅李朋学園の栗というのは一粒が巨大で、頂点に添えられたそれさえも皆に切り分けられていた。
 そも今朝のマニフィカは朝食時に『故事ことわざ辞典』を紐解いて「覆水盆に返らず」の一文に行き当っていた。これは恐らくスカイホエ−ルの帰還が困難な事を示唆しているのだろうと彼女は思っていた。
 しかし再び頁をめくれば「叩けよ、さらば開かれん」という聖なる言葉。
 いずれにしても勇気を奮って前に進むしかないと解釈し、ようやく覚悟が決まった。
 この世界に羅李朋学園の居場所を定めるべく、再び「冒険者になりましょう!」と生徒達に呼び掛ける。その為にも『スカイホエールが現地に留まる』を選択するよう、インフルエンサーとして学園総選挙に影響を与えようと考えていた。覆水とはすでに過ぎてしまった過去。開かれんというのは皆が勝ち取る未来だ。
 スカイホエールをこのオトギイズム王国に固定し、そこを都市として冒険者である学生の拠点とするのだ。
 ビリーもその考えだ。
 しかし、スカイホエールの去就についてはその意見だけではなかった。
 アンナや未来はすぐにあの巨鯨はここを飛び去るべきと考えていた。アンナやリュリュミアは元の世界に戻る方法を探しに行くべきと考え、未来はフロギストンは危険なので、いつ爆発したり、浮力を失ったりするかの万が一に備え、早急にスカイホエールが着陸出来る場所を探してほしいと考えていた。
「だから、海や湖面、大平原、砂漠、全長三千メートルの飛行船が着陸出来る場所を探してほしいの。幸い、スカイホエールには着陸装置があるわ。だから三千メートル×五百メートルのデコボコがない場所を提供してほしいの☆」
 疑問に答えられるのを待っていた王家の者達は、モンブランを食べながらの未来の要求が突然突きつけられた事に「そんな無茶な」という答以外浮かばなかった様だ。未来はこれをオクに言うつもりだったが、国王との直接交渉委が出来るなら話が早そうだ。
「海や湖なら何とかなるかもしれないが……」パッカード王が首を捻る。
 しかし、スカイホエールは水上着陸の経験がないというのが大徳寺艦長の意見。
「あまりフロギストンの存在情報は民に流さぬ方がいいな」とギリアム部長の言。
 今、このテラスのお茶会には無事に釈放された大徳寺艦長や五月雨いのり、鷺洲数雄、そして魔術研部長のギリアム・加藤の姿もある。皆、国賓待遇で冒険者達とお茶会に招待されていた。
「とにかくスカイホエールは一刻も早くこの地を飛び去るべきだと考えています」アンナが紅茶を一口飲んで舌をうるおした。「あやふやな性質を持ったフロギストンがいつまで存在しうるかはなはだ疑問だからです。今すぐ飛び立たねば、あの巨大な建造物が元の世界に戻れる機会は永遠に失われるでしょう」
「飛び去るにせよ、留まるせよ、多くの学生達がこのオトギイズム王国に降りてくるはずですわ」とマニフィカ。
「そう、ここが勝負所ですわ」社長という立場でそう述べたのはクラインだ。
 クラインは経済面を優先して、この状況を考察していた。
 五万人規模の交易活動には相な人手が必要だ。優秀な生徒を社員として大量に雇用すれば、経済活動を活性化させると共に自分の会社を一気に拡大出来る。
 学生達は雇用によって現金をまず掴ませる事で、即物的に不安を解消させられるはず。
 これまで国王への連絡を密にしていた事を活かして、オトギイズム王国への経済活動の根回しをスムーズに進めている。もう状況は始動していた。
「旧ジャカスラック領を王国内の橋頭保とできればベストですが」
 『ハートノエース・トンデモハット』王子ならば、過去の因縁もあって結びつきは強く、融通が利くとクラインは考えている。
「しかし、昨今の性産業の流行。これについては、特にデリケートに取扱った方がよろしいですよね……」
「性風俗については『ヨシワラ』の方に親書を送るなんし。それを職業にしたいという者がいるのなら、オトギイズムの東方、遊郭都市ヨシワラという受け皿がすでにありんす」
 元花魁の王妃『ソラトキ・トンデモハット』がクラインの言葉に自分の意見を添えた。
「風俗嬢がここで働けるのー? マジ卍」いのりが王家への尊敬の念というものがまるで感じられないタメ口で、ソラトキ王妃へ直接問いかける。周囲の衛士がにわかに緊張を見せるが、王妃はにっこりと笑みを返す。
「ヨシワラは肉体を売る苦界で競争も激しいでありんすが、最上級の花魁ともなれば貴族や大商人に身受けされる事も存分にありんす」
「へー。エモーい!」
 高級な椅子で脚を組むいのりは学園での流行の最先端『下着バチ!』だ。その為、彼女を見るに眼のやり場に困る者が続出している。
「あの流行はボクらが学園から去ったら、すぐに奇麗サッパリと廃れてしまうんやないかな」
 眼のやり場に困っている一人のビリーは、ケーキを食べながら意見を述べた。
 インフルエンサー。
 学園の無意識に影響を与える冒険者達が去ったら、流行はどうなってしまうのか。
 ビリーは速やかに影響が消えるだろうと考えていた。若干、慣性は残るかもしれないが。
「じゃあ、皆、畑を耕すのをやめちゃうんですかねぇ」
 リュリュミアはちょっと寂しげに言った。
「過熱した流行は過ぎ去るが、農作業主体は残るんじゃないかな。農業部も頑張っているのだし。尤もグラウンドは体育会系の者達によって元の姿に戻されるだろう」と大徳寺艦長。彼と国王は雰囲気が似ている。リーダーという性質がそう思わせるのか、それともキャラがかぶっているだけなのか。
 そんな茶会の中でマニフィカは自分がインフルエンサーである事をあらためて自覚していた。
 五万人もの生徒達がオトギイズム世界に及ぼす影響を考えると、快悦よりも恐怖に似たプレッシャーを感じ、怯みすら覚えてしまう。ここに至っても「選ばれし者の恍惚と不安、二つ、我にあり」と開き直れない自分は、まだまだ政治的には未熟者と痛感していた、
 学園と王国における立場はゲスト、つまり部外者の異邦人にすぎない。
 果たして変革期の到来を促す資格が、王国の姫ではなく冒険者の自分という身一つにはあるのか。
 マニフィカは思う。仮にスカイホエールが流浪の旅に出たとしても、たぶん元の世界に帰還する見通しは立たないだろう。その選択肢は『冒険者』となった生徒達を置き去りにする、ある種の棄民政策でもある。人口が減れば負担も軽くなり、学園の社会インフラは維持しやすくなるはず。
 しかし『口減らし』の犠牲を受け入れるべきとは言えない。
 冒険者になれば本物のファンタジーを体験できるが、時には自己責任の厳しい現実にも直面する。
 挫折や失意に陥った生徒達を優しく受け止めてくれる本拠地として、この地に『スカイホイール=羅李朋学園』は留まるべきなのだ。帰るべき場所があるからこそ生徒達は安心して冒険に赴ける。あてもなく異世界を彷徨い続けるよりも、この地に居場所を定める事こそ有意義だとマニフィカは思う。
「どうじゃろう」枯れた老人の様な顔に精力あふれる瞳を輝かせた魔導士ギリアム部長が、飲み干したカップを皿に置いた。「フロギストンを危険だと信じる者達を、オトギイズム王国の冒険者へと誘導して羅李朋学園から降ろし、フロギストンの事など知らない信じないと通している者達を学園残留させるというのは。危険だと思うなら学園から離れたがるじゃろうし、燃素を信じない者ならばそもそも危険性を気にもかけないじゃろう。フロギストンという概念的存在はそれを気にしない学園生徒達によって、既存意識より忘れ去られて実在の可能性を許され、スカイホエールの浮力は保たれるというわけじゃ」
 フムン、と腕を組んで唸ったのはパッカード国王と大徳寺艦長だ。
「とりあえず俺はフロギストンという存在を知ったが、疑うという選択肢は消えているな。魔術研が作ったフロギストンはスカイホエールの為に必要な物だ。クルーに広く知らしめようとは思わないが」
「私はスカイホエールを降ろさせてもらう」鷺洲数雄が神経質そうにカップを皿に置く。「存在するかしないか曖昧な物の力で浮いている飛行船などに乗っていられるか。この世界はコンピュータ使いには似合わない世界の様だが、陰謀だらけの船に乗っているよりはいいだろう。いや、学園生徒が大勢降りるならばこの世界でもコンピュータ・エンジニアが必要とされる時代も訪れるかもな。……それに何より、お前の気風が気に入った」数雄はクラインを見た。「お前の会社とやらに俺も入社させてもらおうか。何、給料が安いだの高いだのの文句は言わん。ただ、社員が煙草が吸っている事に文句を言わない、そんな会社でありさえすればいい」
「他にもこの世界に留まる事を選択する者もいるでしょうが、それほど多数とは思えません」アンナが再び弁舌を振るう。「船を降りるかどうかは、スカイホエールに搭乗する全ての人に選択する権利があると考えます。アル・ハサンを含む刑務所の収容者にも、もちろん乗員も」
 アル・ハサンの名が出た事で茶会に出席している冒険者や学園生徒達がざわついた。
「スカイホエールでは罪人ですが、アル・ハサンはオトギイズム王国ではまだ罪を犯したわけではありません。他の刑務所収容者も含め、やり直す事は可能だと思います。それに少しでも重量が減るのは、スカイホエールの運行の安定につながるのではと考えます」
「……この王国に囚人を解き放つと言うのか」
 パッカード国王がこれまでになかった真剣な面持ちでアンナを見た。
 これまでに彼と連絡を緊密にした者達によって、ハサンと彼の偶像崇拝禁止教団『グスキキ』の犯したテロリズムの諸行は国王に全て伝わっている。
「アル・ハサンとやらは反省をしているのか。自分が起こした罪状を悔いていると思うのか。この王国で過去の罪業を繰り返さないという保証はあるのか」
 国王の言葉は氷の剣となって、アンナをざっくりと斬った。
「……ここを彼の贖罪の地に!」
「一国の王として大規模テロリストを野に放つ事を許しては置けん!」
 アンナは国王の確かな言葉に、彼がゆずれない一線がここにある事を悟った。
「アル・ハサンの最大の脅威は奴のスタンド能力にありますじゃ」
 二人の間に口を挟んだのはギリアム部長だった。
「魔術は時として人の道を照らす。どうじゃろう、わしが彼にスタンドを永久に封じる『呪い(のろい)』を施した上で他の冒険者となった学生達に常に見張らせるというのは。呪いをかけるというのは『人を呪わば穴二つ掘れ』、わしの人間としての格を奴と同程度に落とす事になるが仕方がない。アンナ嬢がそこまでこだわるのならば、ハサンの得意を封じた上で彼に冒険者として地に降りる事を許すのはどうじゃろうか。……彼が羅李朋学園追放を受け入れ、この地に降りるのならば、だったらじゃが」
 乗り出し気味だったパッカード国王の身が再び深く椅子の奥へ戻った。
「使節たる魔導士の意見を無碍にするわけにもいくまい」その声にはまだ逡巡がある様だ。「そこまで言うのならよかろう。きっちりと彼の力を封じ、常にその身を見張りの耳目にさらさせる条件でアル・ハサンの入国を許そう。ただし……」国王はここで次の言葉をはっきり発言する為に息を吸った。「このオトギイズム王国で学園と同じ所業を行おうとしたならば、この俺が直直にアル・ハサンを斬り殺してくれるわ!」
「そんなにぃ、ギスギスしなくてもいいじゃないですかぁ」
 リュリュミアはマロンクリームの付いたスポンジケーキの最後のひとかけを口にしながら、ぽやぽやーと意見を述べた。
「トゲトゲしいですよぉ、王様ぁ。葉緑素が足りてないんじゃないのぉ?」
「わかりみ」
 いのりは紅茶を飲みながら賛同した。

★★★
 この日、茶会が終わり、再びヘリに乗り込んだ面面が羅李朋学園に戻った後、学園総選挙が行われ、スカイホエールの去就が決定された。
 この総選挙は従来通り、PCやスマホ、公共端末等を使った直接選挙だったが、学天即や生徒会は今回のシステムには関与せず、票を数えるのは人海戦術で行われた。時間はかかったが、AIが票操作をしない確実な結果を得る事は出来た。
 しかしインフルエンサーの影響は受けたのだろう。
 それによれば、羅李朋学園は元の世界へ戻る方法を見つけるべく、この世界を放浪する航行に出る事が決まった。
 ただし、一部の学園生徒はスカイホエールを降り、このオトギイズム王国で冒険者として生きていく事を選んだ。その人数は全体の一割、五千人ほど。彼、彼女らはフロギストンを危惧する者達ばかりだった。
 アル・ハサンやグスキキの生存構成員は地に降り、王国で生きる事を選んだ。
 ギリアム・加藤による、ハサンのスタンドを封じる縛鎖の魔術儀式は公開で行われた。
 精霊を我が身に召喚したギリアムは部員達を配した魔法陣の中心で、アル・ハサンに向けた不可視の力戦でその魂を縛り上げた。
 これによりハサンのスタンド『バビロン・ズー』は封じられ、彼の『テレパシー・ネットワーク』の力は使えなくなった。そして彼には二十四時間、手練の監視がつきまとう事となった。
 こうして羅李朋学園の未来は決まった。
「最近、バズってるのは『冒険者』よねー」
「俺、リコーダーでドラクエの曲を吹きながら下校していた小学生時代を思い出すなあ」
「あのグスキキのメンバーも学園を降りるってよ」
「そんなカオティック・エビルな奴ら、何か悪事を起こしそうなら俺の槍で一突きだぜ」
「よーし! 一山あてるぞー!」
「意外! 異世界に飛ばされたオイラを待っていたのは美少女うっふんなお色気ダンジョンだった!?」
「俺は明るい農村だ」
「学園を眺めるのもこれが最後か」
「よーし! 今夜は飲むぞ!」
「そう言えば、今夜はアレがあるんだな……」
 その夜、全学園生徒に待たれていた最大最後のイベントがとうとう行われた。

★★★
 まず暗闇があった。
 暗闇の中に五万人の息づかいが隠れていた。
 昨日、弾劾裁判所の集会場として機能していた多目的ホールだ。
 中央にステージがあるはずだが、暗黒に塗りつぶされていて判然としない。
 やがて押し殺した人人のざわめきが時間が経つと暗闇に吸い込まれる如く共に消えていく。
 暗黒と静寂が五万人を収容するコンサートホールを支配した。
 秒を数える。
 光あれ。一つのスポットライトが遥かな高みにある天井から白く闇を穿ち、光円錐の中に大きなアクリル柱の立つ中央ステージを明らかにした。
 人人の視線が集中するが、アクリル柱の中には何もない。
 静寂のスポットライトの中でアクリル柱がただスポットライトを浴びていた。
 観客は息を飲む。
 ただ時間が流れる。
 と、いきなり全てのスピーカーがエレキギターの激しい単音を大音量で奏でたて、まるで床から跳ね上がる様に一人の少女が大アクリル柱の中に出現した。
 亜里音オク。
 学園制服を基本にしたステージドレス。下着バチッ!の。
 ジャンプによって乱れたライムグリーンの髪が高度な物理エンジンによって、自然と肩に流れる。
 すくっと床に立った姿に観衆が注目するが、彼女はその姿勢のままで動かない。
 動かない。
 動じない。
 観衆の歓声は既に何万もの声となって彼女に投じられていた。
 動作のないその姿への視線と歓声はどんどんボルテージが高くなっていき、やがて失神する者まで現れ、スタッフによって場外へ搬送されていく。
 一分経ってもオクは姿勢を崩す事はなかった。
 突然、オクのライムグリーンの眼がまばたいた。それだけで歓声は最高潮となった。
 いきなりイントロもなく、彼女のデビュー曲『スーパーノヴァと感性少女』のサビが響き渡り、会場内のディスプレイが一斉に点き、歌い踊るオクの美しいアップを映し出した。
 観客の最高潮の興奮はそのリミットを易易と破り、ホールを物理的に揺るがす超音響となる。
 この様に亜里音オクの引退記念ラストコンサートは始まった。
 『ビー・グローリー』。
 『さよならだけは言えない』。
 『トライアングル・ALIEN』。
 『惑星のひとつやふたつくらい』。
 『リアル・ラスト・ラブレター』。
 歓声にかき消されず、オクの歌声がコンサートホールに響く。全てがヒット曲だ。彼女の歌でヒット曲でないものは一つもなかった。
 たっぷり一時間半の贅を尽くしたカーニバルに参加している気分。
 電子分を多分に含んだノリのいいポップなリズムと、ハードな曲運びが観客の鼓動と時間を支配する。
 盛り上がる。
 連続するクライマックスにサイノリウムを振る観客達、ダンスを踊るオタク達は汗だくになり、叫びまくる。
 このカーニバルは終わらないのではないかと思えるほどの音と光とリズムの乱舞。
 だが観客は気づいていた。
 最後の瞬間が近づいている事を。
 虹色のレーザー光線が乱舞していたホール内でそれが止み、曲調がいきなり静かなバラードになる。
 それと同時に、もう一人の女性が中央ステージに上がった。
 リュリュミア。緑色の淑女。
 しっとりとしたスローなメロディが流れる。
 オクのステージ衣装が普通の学園制服になる。
 リュリュミアとオクが同じ曲を歌い始める。
 『平和の歌』。
 スポットライトを浴びた二人の唇がル音を長く引く。
 全ての争いを止め、聴く者の心を穏やかにするデュエットがコンサート会場に染み込んでいく。
 反戦ではない。反体制ではない。
 あくまでも平和を歌う歌。
 バラードが聴衆から全ての棘を消していく。
 そのデュエットが終わりを迎えた時、ステージ脇にいたコンピュータ部の一部員がマザーコンピュータ学天即のPC端末にパスワードを打ち込んだ。それは学天即のAIプログラムを削除し、無意味データを上書きする『自我』の破壊シークエンスだった。
 リュリュミアと一緒に歌い終えたオクがマイクに最後の一言を吹き込んだ。
「さよなら、わたし」
 CGの表情から何かが消えた。
 その何かは誰にも解らない。実際、変わっては見えない人間も多かった。
 学天即=オクの意識が消え、AIが削除された。
 羅李朋学園のマザーコンピュータはただの性能のいい大容量の並列コンピュータ群になった。
 自律ではない。
 もう入力に対する機械的反応しかしない。
 リュリュミアは大アクリル柱の中の少女の立体映像を見上げた。
 彼女はこれからは学園生徒がそれぞれコンピュータで任意に使える、ただの汎用マスコットでしかなかった。単なる『装置』だ。
「次来る時までにぃ、もっと面白い事を見つけておくからぁ、しばらくバイバイねぇ」
 事情を承知しているのかいないのか、リュリュミアはしばしの別れの挨拶を彼女に贈った。
 ナンバーワン・アイドル、生徒会長としての亜里音オクは消滅した。

★★★
「船に大きな畑を作る事が出来て満足ですぅ。でもぉ、わたしはその学園にいるのが飽きたからぁ、農家希望の学生達と降りてきたのぉ。もっと広い場所に畑を作ったりとかぁ、見た事もない果物を食べてみたいって思う人はぁ、一緒に船を降りませんかぁって誘ってぇ」
 紫水。
 重圧の海の底。ヒラメの様な魚が泥煙を立てて、餌となった小魚に食いつく。
 発光性の生物や鉱物。それ自体が光を放つ甍(いらか)である『時の結界』に囲まれた『竜宮城』。
 その歓待の間。
 リュリュミアとマニフィカは、乙姫やアルケルナに自分達があの飛行船で送った出来事の全てを事細かく報告していた。
「で、結局『ぶりじすとん』がこの結界に及ぼす影響とかはぁ解ったのぉ?」
「……それは多分、フロギストンの事だと思いますわ」
 マニフィカは海のデザイナー『アルケルナ・ボーグスン』に、植物系少女の思い違いを訂正する言葉を添えた。
「いや、結局、何故、時の結界が作用しかた確認出来なかったわ。触媒としてそのフロギストンとやらが何か力を及ぼしたんだろうけど、まだまだ謎ばかりだわ……」アルケルナは途方に暮れた様な言葉を吐いた。「あの『鯨』をもう一度海に突っ込ませても同じ現象を再現するかは保証出来ないわね」
「じゃあ、元の世界へは返れないんですねぇ」リュリュミアは軽くがっかりした表情。
「で、結局、その海の鯨とやらはどうなったのでしょうか。この竜宮城の頭上から動かないのでしょうか」
「それが……」
 マニフィカはスカイホエールに乗る、羅李朋学園の五万人の決定について語った。

★★★
 その日。
「泳ぐぞ」
 測距装置付きの望遠鏡で見ていたドワーフが呟いた。
 濃いオレンジのと黄金の黄昏の中を、巨大な黒いシルエットとなったスカイホエールが動き出した。
 オトギイズム王国の内陸へと巨大なクジラが空を泳ぐ。
 ポーツオークの岸で、大勢の群衆がその巨大な転回を感動を持って眺めていた。
 傷を癒し、航行可能になったスカイホエールは、私立羅李朋学園は、オトギイズム王国内に自由航行をする為にポーツオーク沖を飛ぶ。
 既に放浪航行の許可は国王から得ている。
 羅李朋学園の学生達の五千人は、すでに冒険者としてあちこちの町で冒険者ギルドの依頼を受けている。
 それだけではなく臨時の冒険者、特に専門職がいつでも地上での要求に応じて依頼参加する用意が出来ている。
 また、ここでは持ち込みの研究を手伝い、傭兵として、或いは技師、講師として学生を派遣するシステムも出来上がっていた。そして、その報酬から税を得て、政治経済を運営するのだ。食料も農業はともかく、魚肉類は輸入しなければいけない。税金を払うというのはベーシック・インカムに慣れた学生達にプチ混乱を起させたが、これは選挙を行わずに通達された。
 こうして羅李朋学園は外貨を得て通商し、経済を内外で回すインフラを得たのだ。
 この中核にはクラインが運営する会社が深く関わっていた。この会社が学園の経済の重要部分だった。
「むしろ、これからが大変ですわね」とクライン。
 彼女は五万人の新社員を抱えたも同然だった。
 発達したAIを棄却した今、人海戦術に頼らなければならないシステムは幾つもあった。数人の天才によって支えられたものもあったが、やはり人員は必要だった。
 太陽電池を反射させ、巨鯨は飛ぶ。
 オトギイズム王国のあちこちを訪れ、元の世界へ戻る為の研究、情報収集を行う。それがスカイホールの放浪旅行の主な目的だ。
 まずは東方の遊郭都市ヨシワラをめざした。
 ここに今では下火になっている、性風俗ブームで雨後のタケノコの如く大量発生した、今や供給過多の風俗アイドルを幾らか引き取ってもらう形になる。下火になった彼女、彼らはそのまま朽ちていくよりも成功の可能性があるヨシワラを選んだ。性愛研からの提案でもあった。
「いのりを生徒会長にしよう、というファンも多かったのよ。いのりが辞退したけど」感慨深げな未来。
 学生達の教祖化している五月雨いのりを生徒会長にしようとする活動もあったのだ。いのり自身の辞退によってそれは叶わなかったが。
 遊郭都市ヨシワラ。そこに保健委員会や性愛研の性病医療のデータを提供する用意もある。
 医療知識に限らず、羅李朋学園が地上に提供する知識や技術は様様なものがあった。
「これがオトギイズム王国で活用されれば、王国の文明レベルはぐんと上昇するでしょうね」とアンナ。
 太陽光発電メインのスカイホエール内では量産出来ない、石油(ガソリン、ケロシン)やアルコール等の燃料精製技術を王国に提供し、精製物を輸入するのも必要だ。格納されている飛行機や大型ヘリコプターはエンジンに燃料が必要だった。
 もしかしたら遠からず外燃機関によるスチームパンク時代がいつか来るかもしれない。
 もしかしたら一足跳びに内燃機関時代が。
 電気時代が。
 原子力時代が。
 核融合時代が。
 それらが魔術と融合した今までになかった文明がくるかもしれない。
 その為の知識が学園にはあるのだ。
 ただし、高度な技術を作る為には、その部品や礎となる比較的旧程度なインフラ、技術が必要になるだろう。そして、それに至る為のインフラ、技術が。そして、それに至る……。
 王国民が朝、眼が醒めたらスチームパンクの時代になっていた、という事はなさそうだ。
 ポーツオークの岸で頭上を悠然とフライパスしていくスカイホエールの腹部を、冒険者達は他の観衆と共に見上げ、見送っていた。自らも黄昏の黒い影の風景の一部となりつつ。
 一つ、懸念がある。
 それは亜里音オク退任後の犯罪率が現状維持傾向にあるという事だ。
 オクによるマインドコントロールが解けて回復傾向にあると思われたが、前よりは多くない。今はグスキキの様な者達はいないという事でもあるが、それはオクによる効果が今も持続しているという事か、もしくはリュリュミアの平和の歌の効力が続いているという事か、答は出ていない。
 色色と問題を抱えたまま、スカイホエールは移動しながら上昇していく。
 潮風とその移動気圧が混ざり、観衆達に強い渦風を浴びさせる。
 ふとビリーは背後に気配を感じて振り向いた。
 振り向いた先には目立った人物は誰もいない。
「AIも幽霊になったりするんやろか」
 ビリーは呟いた。
 解らない。神様見習いのビリー以上にそれが解る人物がここにいるとも思えなかった。
 オトギイズム王国に突然、出現した巨大学園、私立羅李朋学園は今は夕景の影として、轟轟と音を立てながら更に巨大な雲列の上へと浮上していった。

★★★