「心いろいろ〜夢みる未来〜」

−第2回−

ゲームマスター:高村志生子

 母親とその上司との仲睦まじい姿にショックを受けて思わず駆け去ってしまったエレインは、息が続かなくなってからようやく立ち止まった。ただの仕事帰りの姿には見えなかった。明らかに女の顔をしていた母と、初めて見るケスの男としての優しいまなざし。母と同じように伴侶と死別していて子供がいなかったというケスは、エレインを実の子供のように可愛がってくれていて、いつも優しい笑顔を見せてくれていたが、先ほど見た笑顔はまったく種類の違うものだと本能的に理解していた。
「まさか……まさか、お母さんとケスさんって……」
 何がそんなにショックだったのかもわからないまま痛む胸を押さえていたエレインは、自分の姿を見かけて近づいてきたジニアス・ギルツに気が付かなかった。
「エレイン、会えてよかった。合流場所をうっかり忘れちゃって参ったよ。って、どうしたの?」
「きゃあ!」
 考え込んでいたエレインはジニアスに肩をポンとたたかれて飛び上がってしまった。その反応にジニアスも驚いてしまった。
「な、なに。どうしたの?俺だよ、ジニアスだって。怪しくないから」
「あ、ご、ごめん。考え事していたから気が付かなかったの。驚かせちゃったわね」
「いやあ、俺のことは別にいいんだけど。なに、どうしたの?酔っ払いにでもからまれた?」
 いかにも気の良さそうなジニアスの顔を見ていて、エレインの心の箍が外れてしまった。わっとその胸に飛び込んでしゃくりあげながら、つっかえつっかえ先ほどの状況を話した。ジニアスは頭をなでてなだめながら脱線しがちなエレインの話を聞いていて、おおまかな事情を把握した。
「母親のデートを目撃かぁ。それは複雑な心境になっても仕方がないよね。親の知らない姿を見ちゃったわけだし」
 と、ちゃっかりエレインにくっついてきていたテオドール・レンツが、ぽふぽふと柔らかな手の平(?)でエレインの頬を撫でてきた。
「ねえ、さっきの女の人ってエレインちゃんのママなんだよね?」
「テオ……うん、そうよ。あたしのお母さん」
「それで、相手も知っている人なんだろ?嫌いな人?」
 ジニアスの問いにエレインはすすりあげながら小さくかぶりを振った。
「嫌い……じゃないけど」
 くちごもるエレインを撫でながらテオが素直な言葉で言った。
「ママ……お母さんって、「こども」のことを一番大切にしていると思うの。エレインちゃんのママはどうなの?エレインちゃんとケスさんと、どっちが大切だと思ってるのかな。両方って答えもあると思うのだけど。それともケスさんってお父さんなの?」
 ストレートすぎる言葉にジニアスが頭を抱えた。
「う~んとね、なんかエレインちゃんがケスさんを好きに見えるのだけど、どうしてぎこちないのかなぁ。親子なら仲がいいはずでしょ?」
「テ~オ~。お前はちょっと黙ってろって。相手のやつとは親子じゃないんだと。でも、エレイン。嫌いなわけじゃないんだよな?」
 エレインが大きくため息をついた。
「うん。ただ、男としてみるのが、なんか……。うまく、言えないんだけど」
 追いかけてきたエルンスト・ハウアーが見透かしたように声をかけてきた。
「で、君はいったいどうしたいのかな?」
「ハウアー先生……どうって……」
「ショックを受けたのは分かるが、2人の仲をどう思うんじゃ。祝福したいか、それとも父を裏切るなとののしりたいかのう」
「わかりません。なんか混乱してしまって、どう思っていいのか。別に不倫なわけじゃないし、お母さんが幸せなのはとてもステキって思うんだけど。あんまり、恋愛とか考えたくない」
 肩を落としているエレインにエルンストがさらに言葉を募った。
「耳目をふさいだところでなにも解決せんのじゃぞ。問題を先送りにして、もやもやした気持ちを抱え続けるくらいなら、素直に母親に問いただしてみてはどうじゃ。個人的な感情の整理には確かに少し時間がかかるかもしれんが、答えはある程度簡単に出るんじゃないのかな」
「男なんだって意識したくない……。それに、今はやることがあるし!」
「悩みを抱えたままほかの問題にあたっても、良い結果はでんと思うのじゃが」
 エルンストの指摘に、直面した問題から逃げようとしていたエレインがぎくりとなった。
「それに気になることがあるんだよね、俺」
 ジニアスがうーんと顔をしかめた。
「例の犯人が逃げた先にエレインの母親たちがいたってことは、そのケスって人が次の標的になる可能性が高いってことじゃないのかな。条件があっていそうだし。だとしたら、助けたくはない?」
「あ!」
 その可能性には気づいていなかったエレインがうろたえる。確かにこれまでの被害者の条件とケスは合致している。偶然ではなく、ケスを狙って犯人があの場所に行ったのだとしたら。エレインはすっと胸が冷えるのを感じた。
「ハウアー先生のおっしゃる通りですね。冷静にならないと。ケスさんが襲われたりしたら、お母さん、きっとすごくショックを受けると思う。あたしもそれは嫌だわ。恋仲であるにしろないにしろ、親しくて大切な存在であることに変わりはないんだもの」
「そうこなくちゃ」
 ジニアスが軽くウインクした。
 それから家に帰ると、少しして母親のラーネイも帰ってきた。今まではあまり気にしていなかったので気づかなかったのだが、改めてみてみると醸し出す雰囲気が随分と華やかになっていて、恋をしているというのは明らかだった。なぜ今まで気が付かなかったのか、自分で自分をののしりたいような気持になったエレインだったが、とにかく実際どういう関係なのか問いただしてみようと、さりげなく今の調査の話から2人のデートを目撃したことに話をこぎつけた。さすがにラーネイがぎくりとした顔になった。
「デ、デート?」
「ごまかしはなしよ、お母さん。あたしだってもう子供じゃない。特別なんだってことくらいわかるわよ。どこまで行ったの!?」
「なによ、ボーイフレンドの1人も家に連れてこれないで、どこが子供じゃないっていうの。ディス君とでも良い仲になったんならともかく」
 ラーネイは陽気なディスがお気に入りだったのでつい引き合いに出してしまったのだが、天敵の名前を持ち出されたエレインは逆にかっとなってしまった。
「だ・れ・が、あんな奴と良い仲になんかー!ごまかさないでって言ったでしょ!どうなのよっ」
 怒髪天を衝く勢いで詰め寄られたラーネイは、しばらく沈黙していたが、恐る恐る口を開いた。
「あの……ね。あの人がお父さんになっても、いいかしら?」
「はぁ?」
「だから、その……この間ね、その……プロポーズ、されたの」
「……」
 そこまで話が進んでいたとは思っていなかったエレインは、頭が真っ白になってしまった。呆然としている娘に、ラーネイが困った顔で呼びかけてきた。
「エレイン?」
「勝手になによー!あたしは絶対に嫌だからねっ」
 冷静の言葉はもはやかけらもないエレインは、発作的に叫ぶと自室にこもってしまった。

 ケスが一連の吸血事件の次のターゲットになるかもしれないことを話しそびれたことにエレインが気が付いたのは翌日のことだった。しかし胸のもやもやは消えるどころか大きくなっていて、話す気になれないでいた。
 学校ではあたふたしているアルヴァート・シルバーフェーダの姿を見かけて、梨須野ちとせがくつくつ笑っていた。
「アルヴァートさん、昨日は失敗されたそうですわね」
「えっ?え、何の話だい」
 物陰から恋人のアリューシャ・カプラートに話しかけるタイミングを計っていたアルヴァートは、緊張しきっているところに耳元でちとせにささやかれて、文字通り飛び上がってしまった。ちとせはアルヴァートの肩に坐りながら腹を抱えて笑っていた。
「なんでもアリューシャさんを押し倒そうとしたそうですわね。あの公園には、友達のリスが住んでいましてね、偶然目撃して私に話してくださったんですよ。でも眠らされてしまったそうですわね。ご愁傷様」
「う~~~~~~~~~~」
 からかわれているのは分かっていたが、アリューシャの気持ちのほうが気になってしまったアルヴァートは、ちとせに言い返すこともできずに赤くなったり青くなったりしていた。
「謝るのでしたら早いほうがよろしいのでは?ほら、行ってしまわれますわよ」
「あ、やばい!アリューシャ!!」
 ダッシュして柱の陰から飛び出したアルヴァートの肩から飛び降りながらちとせはなおも笑っていた。
 教室に移動しようとしていたアリューシャは、大声で呼びかけられて足を止め、ふっと振り返った。声の主がアルヴァートだとわかっていたので笑いかけようとしたのだが、走ってきたアルヴァートが足元にスライディング土下座をしたので、驚きに笑顔がこわばってしまった。それを怒っているのだと勘違いしたアルヴァートは、必死の形相でぺこぺこと頭を上下させた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。心を入れ替えて不埒なことは考えないでまじめに捜査するから、だから嫌わないでおくれよ」
 突然の出来事に驚きはしたものの、別に怒ってはいなかったアリューシャは、アルヴァートがあまりに必死なのですっかり落ち着いてしまった。真っ赤になってはいつくばっているアルヴァートの肩にそっと手を触れ、顔を上げさせた。
「もういいですわ。これからきちんとエレインさんたちに協力すると約束してくださるのならば。約束、してくださいますわね?」
「もちろんするさ!だから怒らないでおくれよ」
「約束してくださるのなら」
 土下座までされては怒りようもない。アリューシャの優しい笑顔に、アルヴァートもほっと胸をなでおろした。
 なんとか仲直りできてほっとしたアルヴァートは、その日の授業が終わるとさっそく寮に戻って私服に着替え、アリューシャと合流して街に再び繰り出した。アリューシャは珍しくタートルネックのセーターを重ね着していて、ちょっと新鮮な雰囲気を漂わせていた。
「アリューシャにしてはスポーティな格好だけど、そういうのも似合うね。かわいいよ」
「ありがとうございます」
 にこやかに答えたアリューシャだったが、この格好の理由がアルヴァートを警戒してのものだったので、内心では頭を下げていた。
「これまでにわかっている被害者の共通点は、若く見られる壮年の男性ということでしたわよね。他に何か共通点はないのでしょうか。その辺をもう少し調べてみたいですわ」
「昨日襲われたのは、確か学園出入りの業者だったよね。壮年まではいかないけど、やっぱりそれなりに年上で体力自慢の人だったよな。他の共通点かぁ。なんだろう」
「私としては、初めから標的を決めているのか、それとも行きずりの犯行なのか、もし行きずりならどうやって標的を定めているのかが気にかかるのですわ。その辺の情報収集から始めてみたいですわね」
「んじゃ、これまでの被害者のところへ行ってみる?それともエレインのお母さんの上司とかいう人のところに行ってみる?もしかしたら次の標的かもって言われているらしいけれど」
「アルバさんはどうされたいですか?」
「うーん、ケスって人のことはとりあえずおいておいてもいいかなって思うんだよね。襲われる確証があるわけじゃないし、これだけ話が広まっているんだからきっとほかに護衛についているやつがいるだろうしさ。街にはほかにもターゲットになりそうな男が大勢いるだろうし、アリューシャの言うような共通点を見つけ出したら、むしろそっちを警戒したほうがと思うんだけど。せっかく下見してきたんだし、今日は店に潜入してみようよ」
「ではまず開店時間までお話を伺ってまいりましょう」
「そうだね」
 二人が被害者宅に向かっているころ、武神鈴が先回りして情報収集に励んでいた。大した変化がなかった人物ではなく、性格が変わったと言われる被害者宅を訪れ、学園教師の身分を明らかにして調査への協力を求めていた。どうやらその男性は、近所でも妻激ラブで有名な人物だったらしい。性格が変わったというのは、妻はもとより近所でも評判になっていた。
『ふうん?配偶者への態度が変わったということか。まあ、単なる倦怠期ということも考えられるが』
 愛を一身に受けていた妻は冷たくなった夫に嘆いており、鈴の申し出に泣きながら飛びついてきた。当人は自分が変わったとはあまり感じていないようだったが、周りの目は気になるらしく素直に応じてくれた。鈴がさっそくあれこれ頭に何やら機械を装着し始めた。
「あの、これは何の機械なんですか」
「犯人の姿は記憶に残っていないそうだが、脳には記録されているはずだからな。こいつは脳内の記録を映像化する機械なんだ。襲われた時期も新しいし、取り出しやすいはずだ。犯人には変身・消失といった能力があるようだが、襲う時は人間形に実体化しているはずだから、こいつで正体を暴いてやろう。なに、痛くはないから案ずるな」
 案ずるなという鈴の目が軽くいっちゃってるようなのがそこはかとなく不安を感じさせたが、学園教師に逆らうのも怖かったので、夫婦はおとなしくうなずいた。実際、脳内モニターは静かに稼働し、映像を録画している機械のランプの明滅がむしろ眠気を誘うかのようだった。映像を取り出している間、鈴はてきぱきと手から血液と体表面のサンプルを採取して調べ始めていた。
「そのサンプルは何に使うのでしょうか」
「ん?これか?性格の変化が霊的な異常なら霊子に、魔術的異常なら魔力構造に痕跡が残されているはずだからな。薬物なら科学的データに出るし」
「それだけの量でわかるものなのでしょうか」
 夫人の不安そうな声に鈴が不敵な笑みを見せた。
「へっぽこ魔術師やただの学者なら見逃すかもしれんがな。俺ならば絶対に見抜ける!犯人にとっては運がなかったということさ、ふははははは」
「あ、はあ」
 自信満々な鈴に、とりあえず任せることにした夫婦だった。
 各種の検査の結果、薬物や霊的な異常は見つからなかったが、魔法による変化は見つけられた。どうやらある種の催眠状態に陥らされたらしい。映像からは血を吸われる直前の犯人の顔がはっきりと見つけられた。魔法防御能力がそれなりにある鈴には影響がなかったが、映像の中の犯人と目が合った瞬間に、またも被害者の男性が夢誘状態に陥ったのだ。検査器具に入れておいたサンプルも、その瞬間に大きな反応を示した。
「催眠能力も持っているのか。だから記憶が残らないんだな。吸い取られたのは……恋愛感情!?なるほど。恋するパワーは強いというからな。大人の男なら感情も安定しているだろうし。悪趣味な吸血鬼だと思っていたんだが、案外グルメなのかもしれんな」
 吸血鬼の顔はまだ若く見えた。波打つ黒髪に赤い瞳。恍惚とした表情は、被害者の恋愛感情に同調していたためだろうか。性別はやはり人間でいえば男に見える。その点だけは気色悪いと思わないでもなかったが、若く感情が未熟な吸血鬼が同性の強くて甘い感情に影響されるというのはわからないではなかった。
「あなた!しっかりして!」
 映像によってふたたび催眠状態に陥ってしまった男性を、鈴が軽い電気ショックを与えて正気づかせる。そして夫人に告げた。
「いわば暗示にかけられているようなものだな。催眠効果を解いてもらえば元に戻るはずだ。あと、気というより感情を吸い取られているらしい。根こそぎではないからこちらは放っておいても自然に治るだろう。あんたたちの愛情が本物ならな」
「あ、ありがとうございます!」
 夫人が瞳を潤ませながら鈴に感謝のお辞儀をする。鈴はそういったものはあまり気にしないほうだったので、さっさと片付けを終わらせて学園に戻ることにした。
 鈴の持ち帰った情報は、エレインに衝撃を与えた。これでケスがターゲットになる確率が高くなったのだから。しかし複雑な心境はエレインの動きを鈍らせていた。そこへやってきたのはアンナ・ラクシミリアだ。アンナはディスから得た情報をもとに、次なるターゲットはエレインの身近な男性、父親か歳の離れた兄ではないかと疑っていた。
「うちは母子家庭よ。お父さんはあたしが小さい頃に死んじゃったの。兄もいないわ」
「あら、そうでしたの!ご、ごめんなさいませ。ディスさんが、エレインさんの身近に標的になりそうな人がいるとおっしゃっておりましたので、てっきり。申し訳ありませんでしたわ」
「ううん、気にしないで。でもなによ、あいつ。気づいていたのね、お母さんたちのこと。いっつもそうなんだから」
「本当に、中途半端な情報など出さないでほしいですわねえ。あら、でもお心当たりはございますの?」
「あ……うん。その人物って、どうやらお母さんの会社の上司のことらしいのよ。あたしのことを娘みたいに思ってくれている人で、ね」
 本当に親子になるかもしれないとまでは口に出せなかったエレインだったが、人の話にはあまり興味のないアンナはエレインが口ごもったことは気にしなかった。
「お母様の上司の方ですか。変なことに詳しいんですのね、ディスさんって。それにしても知り合いに近い方が狙われているかもしれないのに、危険性が低いからと放置するなんて、わたくしには信じがたい所業ですわ。エレインさん、ならばお勤め先に行って護衛いたしましょう」
「……う、ん。どうしようかな」
 あまり乗り気には見えないエレインに、アンナがいぶかしげな顔になった。
「お仕事場を訪ねるのはおいやですか?口実などいくらでも作れますわよ。今は被害者をこれ以上出さないことが大切ですわ」
「そう……ね」
 同意を得ると、アンナは早速エレインの手を引っ張って歩き始めた。
 肩をすくめながら見送っていたのはディスだった。アルトゥール・ロッシュが力強くその肩を揺さぶった。
「一緒にが嫌なら、昨日みたいに離れて行動すればいいじゃないか。ケスとかって奴が次のターゲットになるのは確定っぽいだろう。どうもエレインはあまり乗り気じゃないようだし、捕まえるのは難しいって。僕としては惜しくも逃してしまったのが悔しいんだよ。今度はリベンジしてやる!だから協力してくれって」
 熱く語るアルトゥールに体を揺さぶられながら、ディスは相変わらずとぼけた調子でぼやいていた。
「エレインの母親の恋愛事情は察していた、というか、僕はあの人のお気に入りで、以前、相談を持ちかけられたことがあるんだ。プロポーズされたけれど、エレインに何て話を切り出したらいいんだろうって。エレインもケスさんとは親しいけど、親子になれるか否かは別問題だろ。思春期の女の子なんだし。だからどう告げたらいいかって悩んでいたんだよね。なんだかんだ言いながら仲のいい母娘なんだから、素直に打ち明ければ祝福してもらえるだろうとは言っておいたんだけど。似た者親子っていうか、妙に生真面目なところがそっくりなんだよな、あの2人。しかし、エレインの様子からして話していないんだろうとは思っていたけど、見事にそれが仇になっちゃったみたいだね。うーん、それにしても恋する男が好みな吸血鬼ってのは、さすがにちょっと意外だったなあ」
「ディスでもぉ、意外に思うことってあるんだねぇ」
 アメリア・イシアーファがぼやきを聞いて目を丸くする。ディスが明るく笑った。
「吸血鬼の個性ってのも興味深い対象だよね。つつくのも悪くはないかも。それにエレインが不機嫌だと八つ当たりはこっちに回ってくるし、そうしたらレイミーも普段の意趣返しに尻馬に乗るだろうからな。ついでにあの家族の問題も解決してやるか」
「よーし、そうと決まったらさっそく行こう。この時間だったらまだ仕事終わっていないよね。会社に先回りできるかな」
「あ、そうだ。鈴先生の調査結果をルシエラ先生に話したら、自分がおとりになるって言って出て行ったよ。だから今行っても、会社にいるのは変装したルシエラ先生じゃないかな」
「じゃあ、本物のケスさんは?」
「さっきエレインのお母さんから連絡があったんだ。昨夜エレインにプロポーズのことを話したけれど、拒絶されたんとかで、ケスさんと今後のことを話し合うんだって。店の場所は聞いておいたから、そっちに行ってみようか」
「会社の方には行かないのぉ?」
「うん。昨日の今日でエレインとケスさんたちを会わせるのもなんだしね。ルシエラ先生がどう対応するか分からないけど、エレインのことは任せておこうかなと思う。こっちはこっちで動こうか」
 ディスの言葉にアルトゥールとアメリアはうなずき、告げられた店に向かって歩き出した。

 ルシエラ・アクティアはディスが言ったように、ケスに変装して会社で働いていた。他人に成りすますのは得意中の得意だ。部下たちは誰もそれがルシエラだとは気づいていなかった。唯一、マフラーを巻いているのが珍しがられたことだったが、これは万が一の吸血を防ぐためのルシエラの策だった。
 ケスを呼び出して、昨今、巷で噂になっている吸血事件の標的にされているらしい話を聞かせると、ケスはたいそう驚いていたが、学園の教師であるルシエラの言葉を疑うこともしなかった。ちょうどラーネイと話し合わなくてはと言っていたところだったので、代わりにおとりになる話を聞かされて取引に乗ったのだ。
「所長、今日はもうお帰りですか」
 ケスの部下が聞いてくると、ルシエラはマフラーを巻きなおしながら答えた。
「どうも風邪をひいたみたいだしな。今日は先に上がらせてもらうよ」
「わかりました。お大事に」
「ああ、ありがとう」
 片手をあげ挨拶を済ませると、すっと会社から出る。ケスとラーネイが話し合うといっていた店の場所は聞いていたので、鉢合わせないように店とは反対の方向に向かって歩き出した。それは繁華街とは逆の道筋だったが、敵をおびき出すには都合がよいとルシエラは内心でほくそえんでいた。
 会社から出てきたルシエラを見つけたのはアンナだった。すかさず走り出そうとしたのだが、エレインに止められてしまった。
「どうかなさいました?」
「あ、と。今日はお母さんが一緒じゃないんだなと思って」
「1人ではなおさら危ないですわ。さあ、行きましょう!」
「ア、アンナ!」
 エレインの本音は顔を合わせるのが気まずかったからだったが、そんな感情に気が付くアンナではない。否応なしに引きずられてルシエラの下に連れていかれてしまった。ルシエラは2人を見て軽く眉をひそめたが、このままケスのふりを続けることにした。ケスが吸血事件の標的にされているらしいという話にもさも初めて聞いたかのようにふるまう。そして娘のようにかわいがっていたというエレインが、自分を心配してきてくれたのだと感激までして見せた。エレインもアンナも、そんなルシエラの行動にすっかり騙されてしまった。おかげでエレインはプロポーズの一件を切り出せなくなってしまった。
 3人の後をつけているものもいた。リシェル・アーキスだ。
「母親はいない、か。まあいつもいつも一緒とは限らねぇもんな。エレインとアンナは護衛か?アンナはともかく、エレインは戦闘向きじゃねぇよな。放っては置けないか」
 そして速足で3人に追いつき、護衛を申し出た。ルシエラが承諾すると、エレインも否は言えない。そして一行はケスの自宅へと向かった。ルートはケスからあらかじめ聞いていた日ごろ使っている通勤路だ。昨日とは違う住宅街だが、いかにも金持ちが住んでいそうな豪邸が立ち並んでいた。エレインを除く3人は家に着くまでの間、常にそれぞれの能力を駆使して周囲を警戒していたが、異常は何も起きなかった。
『気づかれている……?』
 すんなり家についてしまったことで、ルシエラが状況を不審に思い、ほかの面々に正体を明かしてケスがラーネイとあっていることを伝えた。
「また面倒な事態に……。今から店に行ったんじゃ、間に合うか分からないぞ」
 リシェルが頭をかいてぼやく。ルシエラは、どうせほかのメンバーが見つけているだろうと予測していたので、肩をすくめただけだった。

 リオル・イグリードは作戦を説明し終わると、兄であるアスリェイ・イグリードの胸にとんとこぶしを当てて言った。
「アス兄さん。僕の魔力、遠慮なく使いなよ。僕なら大丈夫だから。普段あれだけ僕のことをからかっているんだ、こんな時に限って躊躇したらそれこそ軽蔑するからね」
「わかっている。任せろ」
 アスリェイは最初こそ弟にかかる負担を思ったが、リオルの固い決意に応えなくては兄としての面目にかかわると気づき、笑みを消ししっかりとうなずいた。リオルの隣ではミルル・エクステリアが泣き出しそうなのを必死にこらえながらきゅっと唇をかみしめていた。
「やつを捕まえるのに、ミルルにも頑張ってもらわなきゃだから。よろしくね」
 リオルがミルルの頭を撫でながらささやくと、ミルルはぎゅっとこぶしを握った。
「一番大変なのはリオルだもんね。あたしも頑張るから!悔しいけど、魔力はあたしにはないから、リオルにはすっごく負担掛けちゃうと思うけど、その分、捕縛を頑張るから!ね、アスリェイさん」
「そうだな。援護、期待しているぜ」
 日暮れて事件が起こるのには程よい頃合いだ。あらかじめディスからケスの通りそうな道などを聞いておいた3人は、いつもと違って静かに闇に紛れていった。
 もちろん犯人を追いかけているのはリオル達だけではない。ふつふつと雪辱に燃えているのはグラハム・アスティレイドだった。前日の事件を受けて、今日の仕事は強制的に休みにさせられていたのだが、体力が取り柄のグラハムにとって、多少、生き血を奪われたぐらいでは動きに支障が出るはずもなかった。
「できればもう少し休んでいていただきたいものですけれど」
 グラハムにしかわからないようなくらいに心配の色を顔ににじませているのはテネシー・ドーラーだ。グラハムの丈夫さ加減はもちろんテネシーが一番よく知っていたが、そのグラハムが崩れ落ちるさまを目の当たりにして、まだ少し動揺が残っているのだ。
「探索でしたらまずわたしが上空から広範囲をカバーします。エリナ」
「ええ、グラハム様の周辺範囲は私が請け負いますわ」
 グラハムにいつも付き添っている精霊のエリナは、普段はけん制しあっているテネシーと、今回ばかりは全面的に協力体制にあった。グラハムの身を守りつつ、彼を襲った犯人を倒すことで利害が一致していたからだ。
「ではグラハム様、くれぐれもお気をつけて。エリナ、敵を見つけたら意志の実で連絡をいたします!」
「ええ、わかっていますわ。この道はケス様が普段使われているそうですから、昨日の怪物があらわれる可能性は高いはずです。必ずや仕留めて差し上げましょう」
「面倒だが、街には被害を出すなと言われている。それは注意してくれ。あとは捕らえるなんて面倒はしねぇ。八つ裂きにしてやろうぜ」
 やはり一番怒っていたのは襲われた当人だったようだ。ケスが対象になるなら、一度襲われた自分も、もう一度、襲われるかもしれない予感があったが、迎え撃つ覚悟は十分にあった。今回はテネシーとエリナの協力もある。学園に突き出すことより、ぶっ殺す意識で満々だった。
 すぅっと音もなくテネシーが上空に飛んでいく。エリナは雷撃のナックルをはめて戦闘態勢で歩いているグラハムの周囲に気を配っていた。
「瞬間移動で逃げるのならば、襲って来る時も移動してくる可能性がありますわね」
 360度の視界をカバーできる魔眼の持ち主とはいえ、瞬間移動で襲ってこられたら多少のタイムラグは阻めない。テネシーもまた、今回ばかりはエリナに瞬時の近接戦は任せることにして、とりあえず腕輪に氷と火のアーツの珠をセットして警戒していた。
 とっぷりと暮れた住宅街は、取りすがる人もまばらで静まり返っていた。グラハムが上空にいるテネシーを思って空を見上げた時だ。エリナの鋭い声が闇を裂いた。
「逃げてくださいませ!」
「どうした!?ちっ」
 その直前、夜空を羽ばたいていた蝙蝠がグラハムめがけて急降下してきたことにエリナが気が付いていた。普通の蝙蝠らしからぬ動きに異常を感じたエリナがとっさにグラハムに警告を発したのだ。神経を研ぎ澄ませていたグラハムもその声にすぐさま反応して臨戦態勢をとりながら振り返る。蝙蝠は舞い降りる途中で人間形に姿を変えた。
「やはりあいつですわね!テネシー様!!」
「見えています!」
 変身を察知してテネシーが同じように急降下しながら氷の矢を降り注がせた。グラハムに向かっていた謎の蝙蝠男が慌てて身を翻して路地に逃げ込もうとする。そこにエリナの炎が追ってきた。エリナは攻撃を続けながら蝙蝠男を追いかけ始めた。グラハムがそれに続く。降下してきたテネシーは、蝙蝠男の行く手を遮るように地上に降り立つと、エリナとはさみうちの状態で火炎攻撃を仕掛け始めた。
「その調子だ!焼き尽くしてしまえっ」
 街に被害が出ないようにとは言われていたのだが、そもそもが倒すことが目的だったため、追いついたグラハムも喜々として慌てふためく蝙蝠男を笑いながらにらみつけていた。
「おいおい、このままじゃ町中が火事になっちまうぞ。それはやばいだろ」
 そこにやってきたのはアスリェイだった。アスリェイとしては通行人を装って犯人の意識を自分に向けさせるつもりだったのだが、予想以上の状態に口を挟まないわけにもいかなくなってしまったのだ。はっと我に返ったグラハムがテネシーとエリナを止める。個人的にはばれなければ街の被害などどうでもよかったのだが、さすがにテネシーの風紀委員としての立場を考えると、目撃者を始末するわけにもいかなかった。
 炎にあぶられていた蝙蝠男は慌てきっていたせいか、得意の瞬間移動すらできない様子だった。緩やかなウェーブを描く黒髪に、赤い瞳。変身能力が守ったのか、体にやけどは見られなかったが、ショック状態にあるのかどこかうつろな目つきだった。グラハムを押しのけ前に出たアスリェイがわざとのど元をさらけ出しながら挑発するように言った。
「だいぶん消耗しているようだな。わかるか?餌ならここにあるぞ」
 蝙蝠男はふらふらとアスリェイに向かって足を踏み出したが……ふいに向きを変えた。
「え!?」
「きゃああ、リオル!」
 男がダッシュした先にいたのは、物陰に隠れていたリオルだった。アスリェイに向かっていた男を捕らえようとしていたミルルが悲鳴を上げる。そして反射的に足技を繰り出していた。きれいに決まったそれが男の体を吹き飛ばす。恋愛感情を持った男が好みであることを知らなかったリオルが、なぜ目の前にいた兄ではなく自分に向かってきたのか謎に思いながらも飛び出してくる。それに抱き着いて引き留めたのがミルルだった。
「やだー!あいつ、絶対にリオルを狙った!だからいっちゃやだ!」
「ミルル……アス兄さん!」
「おうよ!」
 倒れた蝙蝠男を捕まえようとアスリェイが手を伸ばす。グラハムとテネシーも攻めよってきた。
「ここで手前を捕まえなかったら、兄の面目が丸つぶれだからな。逃がさねぇぞ」
 と、蝙蝠男がぼろぼろと泣き出した。
「あ?」
「はぁ?」
「え?」
 蝙蝠男は童顔だった。というか、全体的に、少年まではいかないもののどこか危うい幼さを持っていた。それがいきなり号泣したものだから、瞬間的にその場にいた誰もが気をくじかれてしまった。唯一、冷静だったのはテネシーくらいだ。泣き声に動じることなく蝙蝠男に向かってウィップソードをしならせた。
「帰りたいんだ!僕はただ帰りたいんだよ~!」
「帰るだとぉ?てめ、人を襲っておいて都合のいいこと言ってんじゃねぇよ!」
 テネシーの鞭にしばかれながらころころ転がっている蝙蝠男に向かってグラハムが怒鳴る。ミルルもリオルに抱き着いたままこくこくとうなづいた。リオルはそんなミルルの頭を撫でながらアスリェイにちらりと視線を投げた。アスリェイは肩をすくめると、蝙蝠男に向かって言った。
「あんたのしたことは、悪気のあるなしとは無関係にそう簡単に許せることじゃないんだぞ。死人こそ出ていないとはいえ、街を混乱に陥れていることには変わりないんだからな。今回、うちの弟は命がけでこの作戦に臨んでいた。それくらい大変なことなんだとわかってもらわなくちゃな。でも、事情があるなら聞いてやらんこともない。どうしてここで親父狩りみたいなことをしていたんだ?帰るって、そもそも何処から来たんだ、あんたは」
「何処から……?この力のある世界へ……?僕……」
 蝙蝠男は茫然とつぶやいた。自分でもよく分かっていないらしいその様子に、アスリェイやリオルが眉を顰める。と、突然、蝙蝠男が救いを見出した顔で叫んだ。
「迷いのある……強い感情!この力があればきっと帰れる!」
 そしてその姿はみんなの前からかき失せるように消えた。

 ケスがラーネイと店へと向かっていたころ、猫間隆紋は式を当座の護衛にケスにつけておきながら、せっせと犯人捕獲の罠の準備をしていた。何処か深刻そうな表情の二人のことはちらりと見ただけで深くは気にしていなかった。
「遠くて近きは男女の仲というしな。あれこれ詮索するのも野暮というものだろう。先決なのはあの物の怪を捕らえることだ。捕えて、研究材料にするもよし……善し。襲われるとしたら食事帰りだろうな。人気のある所では手出しせぬようだし。ならば準備の時間は……1時間半くらいか?それだけあれば充分だ」
 猫先生が作っていたのは力宿る己の髪をからめこんだ「からめ捕りの魔力(命名猫先生)」を帯びた、捕縛用の網だった。これまでの事件から、蝙蝠男が小柄であることは分かっていた。念のため予測以上の大きさには仕上げたが、逆に小さい場合にも対応できるよう伸縮に富んでいることも確認していた。その間、落ち着いた雰囲気の店に入ったケスたちは、エレインのことを話し合っていた。ラーネイはエレインの拒絶に深く落ち込んでいて、食欲もあまりないようだった。ケスはラーネイを深く愛していたが、エレインをないがしろにするつもりはなく、身を引くべきか悩んでいた。
「エレインの学校のお友達に、プロポーズのことを素直に話せばきっと祝福してもらえると言われていたの。でもダメな母親ね、私は」
「ラーネイ、あまり自分を責めるんじゃない。話せなかったのは僕も同じだからね。もう少しショックの少ない形で伝えられただろうに、君に受け入れてもらえて浮かれてしまい、エレインの気持ちに気が回らなかったのはむしろ僕に責任がある。とりあえず、これからでもきちんとエレインと話をしてみよう」
「エレインは……許してくれるかしら。私たちのこと」
「無理強いはしたくない……けれど、君をあきらめるのも辛い。努力だけでもしてみよう。君も僕をあきらめないでくれるかい?」
「ケス……愛しているわ」
「僕もだ」
 軽くあおったアルコールのせいで、2人はほんのり赤くなっていた。そのまま手を握り合う。指を絡ませ、ラーネイがケスの方に頭を乗せた。そんな2人の様子を、後をつけてきたアメリアが真っ赤になりながら見つめていた。アルトゥールがそんなアメリアを見てくすりと笑った。アメリアは笑い声に益々赤くなりながらアルトゥールに言った。
「大人の人はやっぱり雰囲気が違うねぇ」
「そうだね」
「まあ、いきなりあんな雰囲気をみたら、直情径行のエレインは確かにショックを受けるかな。あいつもまだまだ子供だからな」
 口笛でも吹きそうなのはディスだ。しばらく少し離れた席で様子をうかがっていたが、深刻な様子はあまり変わらないようだった。ただお互いを大事に思う様子は十分に伝わってきた。やはり後をつけてきていたエレインは、話しかけようとするアンナを押しとどめながらジュースをやけくそのようにあおっていた。
 不快とも違う、もやもやした感情はいまだにエレインの中でくすぶっていた。けれど今の2人の深刻な様子は、自分のせいだともわかっていたので、どこかう後ろめたい気持ちも持っていた。
「エレインさん?顔色が良くないですわ。大丈夫ですか?」
「私が認めたら……きっとみんな幸せになれるのよね。わかってはいるんだけどな」
 やがて食事を終えたケスたちが立ち上がった。アメリアたち、アンナたちはそれぞれに、護衛対象に見つからないように席を立った。
 エレインが落ち着いたころを見計らって改めて話をすることで、ケスたちは合意していた。別れることも頭をかすめないわけではなかったが、離れがたい気持ちの方が勝ったのだ。それに自分が原因で母親の幸せを奪ったとわかったら、エレインはきっと深く傷つくだろう。口は多少悪いが、母親想いの優しい娘だという事は2人にもわかっていたのだ。
「送っていくよ」
「ありがとう。じゃあ、途中までね。エレインと鉢合わせるのも気まずいでしょう」
「そうだね」
 繁華街を抜け、人通りの少ない住宅街へと向かう。なんとなく世間話をしていた2人は、話の流れでくだんの事件の話題に触れていった。と、ケスが思い出したように言った。
「ああ、そういえばあれ、次の標的に僕がなるかもしれないらしいんだけど」
「ええ!それは本当なの?こんなところにきて大丈夫?」
 ラーネイが驚いていうと、ケスのスーツのポケットから首を出したちとせが朗らかに宣言した。
「そのことならご心配なくですわ!」
「えっ!?あ、あなたは?いつの間に?」
「あら、つい飛び出してしまいました。どうかおかまいなく。ただの護衛ですから。こう見えても戦えるんですのよ」
「ええと……」
 恥ずかしい話題も聞かれていたのかと反射的に2人が落ち込む。そんな2人にちとせが明るく笑いかけた。
「今のわたくしの最優先事項は、例の事件のこれ以上の被害を出さないことですの。家族の問題には興味がありませんわ。でも差し出口を出しても良いのでしたら一つだけ、エレインさんは驚いてしまっただけですから、あまり気に病まないでくださいませね。では」
 ちとせはそれだけぱぱっと言ってしまうと、またポケットの奥底に隠れてしまった。
 微妙な雰囲気のままケスとラーネイは再び歩き出した。しかしちとせの存在が気になって会話はあまり弾んではいなかった。そのまま分かれ道に来る。お休みのキスをして別れようとしたその時だった。瞬時にケスの背後に現れたやつがケスの首筋に噛みついたのだ。
「うっ」
「きゃああ!」
 よほど飢えていたのだろう。常ならば目撃者のいない場所を選ぶのだが、今回ばかりはラーネイの存在も目に入らないようだった。あるいは不安定なケスの心と同調してしまったのだろうか。吸血鬼はまさにケスの血と感情を貪っていた。
「現れましたわね、チュパカブラさん!今宵が年貢の納め時でしてよ」
 すかさずポケットから飛び出し人間形になったちとせが宣言する。後についてきていたアメリアは、眩ましの指輪で姿を消すと、アルトゥールとはさみうちになるように素早く陣取った。猫先生も忍ばせた網をいつでも投げつけられるように身構えた。
 ディスがみんなの攻撃の邪魔にならないようにラーネイを引きはがす。そしてやはりつけていたエレインに引き渡した。
「ディス!」
「あとはみんなに任せよう。エレインはおばさんを」
「ケ、ケス!きゃああ」
 先日のグラハムと違い、若々しいとは言っても普通の人間であるケスは、一気に精気を奪われて真っ青になってぐったりと身体を傾げた。ラーネイが慌てて駆け寄ろうとする。エレインが泣き出しそうになりながらそれを背後から抱えて押しとどめた。
「お母さん、ダメ。仲間が来ているから、任せて」
「あ、あ……」
「チュパカブラさん、よくもやってくださいましたわね」
「チュパカブラだと!あんなけだものと一緒にするな!」
 反射的に吸血鬼が叫びかえしながらちとせと戦い始めた。そこへ突風が襲ってきた。アルトゥールが動きを止めようと攻撃に加わってきたのだ。反対側からもアメリアのはなった強力な風が吹いてきて、吸血鬼の動きが鈍った。エレインとラーネイをかばうように立っていたディスが、念動力で近くの家の庭先にあった飾り石を吸血鬼の腹にたたきつけた。吸血鬼の顔がゆがむ。
「仕上げは任せろ!」
 猫先生がすかさず網を吸血鬼に絡ませた。吸血鬼は魔力を使って周囲を混乱させ逃れようとしていたが、さすがにそれを上回る魔力のこもった網に捕縛されて身動きを封じられてしまった。猫先生が絶対に逃れられないようきつく網で縛り上げる。吸血鬼は泣きながらじたばたともがいていた。
「ケス!あなたぁー!!!」
 一度に大量の生気を失ったケスが、地面に倒れこむ。ラーネイがそれに縋り付いた。エレインは最悪の事態になす総べもなく立ち尽くしていた。 

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