「心いろいろ〜絆つむいで〜」

−第4回−

ゲームマスター:高村志生子

 2日目の夜はそのまま何事もなく終わるかと思われた。大会の興奮冷めやらぬ夕飯が終わり、生徒たちは就寝時間までの自由行動時間にお土産を買ったり大浴場で汗を流したりしていた。
 ばっしゃーんとお湯を流す音が浴場に響き渡る。いちおう日焼け止めを塗っていたミズキ・シャモンだったが、大会で監視役をしていた間に、白い肌はだいぶん赤くなってしまっていた。日焼けはお湯がしみるほどではなかったし、己の外見にあまり頓着するタイプではなかったが、くっきりついてしまった水着の跡にミズキがいつも以上にむすっとしていると、リリア・シャモンが楽しげに話しかけてきた。
「わー、ミズキ叔母様とお風呂に入るのなんて久しぶりですわね。今日は楽しかったですわ」
 久しぶりも何も、この世界のミズキはリリアと一緒に風呂に入った経験などなかったのだが、リリアにとっては懐かしい出来事なのだろう。だからミズキはあえて訂正はしないで、体を洗い終わったリリアと一緒に湯船に身を沈めた。透明なお湯に2人の豊かな胸がゆらゆら揺れる。動き回って疲れた体がゆるやかにほぐれていくようだった。母親と瓜二つの外見を持つリリアは、ミズキにその両親の馴れ初めとなった事件を思い出させていた。懐かしむような表情に、リリアが嬉しそうに口を開いた。
「ねえ、ミズキ叔母様。お父様の小さい頃ってどんな感じだったのですか」
「兄さんの小さい頃ですか?そうですわねぇ……わたしや姉、つまりあなたの叔母ですわね、の誰かが泣かされたりしたら、必ず報復してくれたものですわよ。それがたとえ刃を持った任侠であろうと、決して臆することなく立ち向かっていったものです。わたしたちを本当に可愛がって下さって、大切にしてくれましたわ。遊び相手も良くしてくださいました」
「そうなんですの。例えばどんな風に?」
 ミズキがその様子を思い浮かべてかすかに顔をほころばせた。
「甘いと言うかなんと言うか、力で負けるはずもないのに、誰かが投げ飛ばすとわざと転がされたりして。ほらうちは戦士の家系でしょう?その次期党首たる人間が負けてへらへらしているなんてとわたしは良く怒ったものですわ。そのたびにお前たちが可愛いからだよなんて言って、兄ばかもいいところですわね」
「あはは。兄ばかなのは私の時代になっても変わっておりませんわ。叔母様方にちょっかいを出そうとされる殿方はたくさんいらっしゃいますが、しょっちゅうそういう方々と喧嘩されていらっしゃいますもの。可愛くて仕方がないっていう感じですわね」
 ミズキが少し顔をしかめた。
「確か代替わりしていたはずですわよね……それなのに喧嘩を?ちゃんと当主の責を果たしているのでしょうか」
「ええ。おじい様も名だたる名将ですけれど、お父様も智勇兼備の名将として名を馳せていらっしゃいますわ。お母様ともいつも仲睦まじくて、妹弟もたくさんできました」
「ああ、お義姉さまは確か今3人目を宿されていらっしゃいましたね。他にも?」
「はい。私の下に妹が5人できまして、その次にやっと弟ができたのですわ。女の子は女の子で可愛がってくださいましたが、やはり男の子は格別なようで。生まれたときの喜びようは見ているほうも楽しくなるくらいでしたわ」
「リリアでも跡は充分に務められますでしょうけれど、やはり男子の跡取りがいるといないでは大きいのかもしれませんわね。これは聞いた話ですが、兄は初陣のときに見事敵将を討ち取ったそうですわ。その男の子、わたしには甥になるのでしょうか、その子の才能はいかがなものですの」
「もちろんシャモン家の名に恥じぬだけのものは持っております。ご安心くださいませ。父も甘やかすだけでなくしつけもしっかりしていらっしゃいますから」
「それは良かった。由緒あるシャモン家の名を汚すことがあってはいけませんからね。あまりの兄ばかぶりにときどき心配になったりもしましたが、安心して良さそうですわね」
「はい。決して甘いだけの父ではありません。大丈夫ですわ、っと、こう言わなくてもいずれおわかりになることではありますが」
「それは楽しみですわね。さて、そろそろ上がりましょうか。夜はこれからですわよ」
「は?」
 ざばっと立ち上がったミズキの肢体を水滴が輝かせている。それ以上に輝いている瞳にリリアが首をかしげた。ミズキはリリアに不敵な笑みを見せた。
「せっかくの旅行にあれをやらない法はありませんわ。全員が入れる大広間がありましたわよね。リリア、皆をそこに集めてくださいませ」
「あれって……あ、もしかしてあれですか」
「そうですわ」
「わかりました。ではさっそく」
 あれだけで意味が通じてしまったリリアも、楽しそうに立ち上がった。形の良い胸が期待にプルンと震えた。
 小一時間後。就寝時間まであとわずかといった時間に大広間に集められた面々は、床の間の前に仁王立ちしているミズキの指示の元、布団で防波堤を作り枕を散らばしていた。呼ばれたからなんとなくやってきたテオドール・レンツは、ミズキの言葉にきょとんとしていた。
「マクマ投げ?なあに、それ」
「いざ!尋常に勝負!」
「ボクは普通のクマ……わ〜」
 ミズキの号令とともに、防波堤を境に分かれた面々が一斉に枕を投げ始めた。不思議そうに立っていたテオドールも手近な人間にむんずと掴まれて放り投げられてしまった。
「ああ!マクマじゃなくてマクラ……わ〜ん、ボクを枕と間違えないで〜うわ〜ん、あ〜れ〜」
 悲鳴もむなしくぽんぽん投げられてしまうテオドールだった。はしゃいでいる面子はそれに気付かない。マクマ、ではなく枕投げは、就寝時間を過ぎ一般客も寝静まったあとも続いたが、決着が着く前に怒鳴り込んできたテネシー・ドーラーの鶴の一声でようやく終息した。
「こういうのは無心に受け入れるしかないね……しくしく」
 結局最後まで気付いてもらえず投げ続けられたテオドールが女子部屋でぐったりとしている脇で、キリエが隣りのアンナ・ラクシミリアに笑いながら話しかけた。
「楽しかったねぇ、枕投げ」
「あれは紅白戦、結局決着一体どういうことに……」
 アンナはぶつぶつ呟いていた。代わりに周りの人間が忍び声で笑っていた。枕投げのおかげで全員、眠気が吹っ飛んでしまったらしい。テネシーが見回っているのはわかっていたので小声でだったが、それからしばらくわいわいと雑談が続けられていた。話題は主に翌日のイベントについてだったが、なにしろ女の子ばかりの部屋だ。出てくるのは恋の話が断然多く、キリエの胸をざわつかせた。まったく無関係のカップルやカップル未満の話題だったのが、誰かがキリエがおぼれたときのローランドの勇姿を持ち出してきて、きゃーっと場を沸かせたからだ。キリエにとってもローランドがトラウマを克服して助けに来てくれたのは嬉しいし、そのあとの泳いでいる姿をまぶしく思っていたが、よもや他の女生徒にこんなに受けているとは思わなかったのだ。頼りないと言われ続けた兄の人気が急上昇したことは誇らしかったが、なんとなくむっとする部分もあった。
『なに!?なんなの、この気持ちは!あたし、本当にお兄ちゃんのことが……?』
 キリエだって年頃の娘だ。これまでにいいと思った男の子がいなかったわけではないし、友達の恋の話だっていくつか聞いている。ローランドに浮いた噂がないことを腹立たしくも思ったりしていたはずだ。それがいざ目の前で同世代のお女の子たちの話の種にされているのを聞いてみると、なぜか胸がもやもやするのだ。
 しかしそれは本当のところ、今に始まったことではなかった。小さい頃から兄べったりだったキリエは、たまたまローランドにあまり浮いた噂がなかったから自覚がなかっただけで、母親にですら嫉妬は感じていたのだ。多少頼りない面さえ愛しかったのは、ローランドが過ぎるほどに自分に優しく甘かったからだということに気付いていなかった。突然知ってしまった真実を受け止め切れていないゆえに、感情の整理がまだついていないのだろう。混乱している感情を恋と指摘されて、自分でももしかしたらと思い始めていた。隠し事の苦手なキリエは思い切ってアンナに問いかけてみた。
「あたし……やっぱりお兄ちゃんのことが好きなのかな!?」
 がしっと腕をつかまれて叫ばれたアンナは、問いの意味を掴まないまま真面目な顔で答えた。
「さあ?ちなみにわたくしはパパとママが大好きですが。うんと小さい頃など、大きくなったらパパのお嫁さんになると言っていたそうですし。さすがに覚えておりませんが」
 一瞬きょとんとしたキリエが吹き出した。
「あ、それあたしも言ったことあるらしいよ。お兄ちゃんのお嫁さんになるーって」
「まあ幼い頃の結婚には、好きな人とずっと一緒にいられる以上の意味などありませんが。もちろん今でもパパのこととは大好きですけれども、それとは別に、どなたか素敵な殿方がいらしたら一緒になりたいと思いますわ」
「一緒にって、結婚したいってこと?」
「ええ。だって、旦那様は結婚して初めて旦那様になりますけれど、パパはわたくしが誰と結婚しても、ずーっと変わらずにわたくしのパパですもの。いつまでもなにがあってもわたくしの大好きなパパですわ。この気持ちは変わりません。キリエさんはエクセル先生にべったりですけれど、お父様のことはどう思っていらっしゃいます?」
「お父さん?んー、普通に好き?いや、なにを根拠に普通と言うかわからないけど、うちはわりと一般的ななかよし家族じゃないかなって思うな。お兄ちゃんべったりなのは否定しないけど、だからってお父さんやお母さんを嫌いだって思ったことなかったし。別にお兄ちゃん子だったことをとがめられたって記憶もないからなぁ。さっきのお嫁さんになる発言だって笑い話の種にされてたもんね。そういえばお母さんがアンナみたいなこと言ってたっけな。結婚してもお前たちが兄妹であることにかわりはないのにって」
「当然ですわ」
 きっぱりと肯定されてキリエの心が少しだけ落ち着いた。本当の兄妹であろうとなかろうと、両親はこれまで分け隔てなく育ててくれた。深いトラウマを抱えてしまうほどの心の傷を負った子供を、暖かく受け入れ、他人に愛情を注げる人間にしてくれていた。ローランドはキリエが支えだったといったが、決してエクセル夫妻の存在も軽くはなかっただろう。兄が自分に優しく接することが出来たのは2人が兄に優しかったからではないだろうか。血は繋がらなくとも、実の子供と変わらぬ愛情を注いできたからではないだろうか。それがあったからこそ、ローランドは自分に優しかったし、自分はその優しさに安心して甘えていられたのではないだろうか。
「そう、そうだよね。別の人と結婚したからって、お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃなくなるわけないもんね」
 嫉妬なら本当の兄ではないとわかる前からしていた。遠い存在になってしまうような気がして。けれどそんなことはありえないならば?感情が変わることなどあるだろうか。好きが恋とは限らない。
「ありがと。なんかちょっと落ち着いた……って、寝ちゃってる」
 キリエが考え込んでいる間にアンナは健やかな眠りに落ちていた。その安らかな寝顔を見ながら、キリエは心の中でそっと礼を言った。そして自分も眠りに落ちていった。
 だが反対側の布団ではマニフィカ・ストラサローネがもれ聞こえた声に心をざわめかせていた。アンナとの会話はあまり聞き取れなかったのだが、最初のキリエの叫びだけはしっかり聞こえていたのだ。
『キリエさんがエクセル先生を好きですって?それって妹としてじゃなく!?そりゃ、血が繋がっているわけではありませんもの、恋に障害はありませんけれど。けれど、そんな……。それに昨日の残り香……あれは絶対に女性のものですが、キリエさんのものではなかった。ということは他にもエクセル先生に接近している女性がいるということですわね!しかも残り香が移るほど密接な関係に、すでに発展している!?2人も強力なライバルがあらわれるなんて、もうどきどきするほど大ピンチですわ!』
 マニフィカも思い悩みながらいつしか眠りに落ちていた。そして夢の中で考え事の続きをしていた。
『どなたかわかりませんが、魅力的な方であることは間違いありませんわ。キリエさんも素敵な方。しかもローランド……きゃー名前をお呼びしてしまいましたわ!彼はキリエさんを愛してらっしゃる。こんな手ごわい方々がライバルだなんて、って、あら?わたくしったらいつの間にライバルなどと。なんのライバルなんですの!?このもやもやした気持ちは一体なんなんですの。どうしてわたくし、こんなにどきどきしているんですの。ローランドのことを思うとなぜだか妙に気持ちが高まってしまいますわ。いやあ。なんだかわからないですけれど、考えると恥ずかしく……』
「マニフィカ様!何の夢を見てらっしゃるか知りませんが、そう暴れないでくださいませ。まだみなさん寝ていらっしゃるのですよ」
 テネシーの怒鳴り声にはたとマニフィカが目覚めた。いつの間にか朝になっていたらしい。室内には夏の日差しが差し込んでいた。まだ早い時間であるのか、他の人の声は聞こえない。おそらくテネシーだけが見回りのために早起きして、マニフィカが暴れているのを見つけたのだろう。人魚姫であるマニフィカは就寝中は下半身が本来の魚の姿になっている。尾びれが布団の先からのぞいていたが、どうやら寝ながら身悶えていたらしい。ぴちぴちとはねていた尾びれは布団を捲り上げていた。テネシーの冷え込むような視線を感じて、マニフィカは思わず両手で顔を覆ってしまった。触れた手がやけに熱く感じられるから、きっと顔は真っ赤になっているのだろう。指の隙間からテネシーの様子を伺うと、テネシーはすでに着替えを済ませていた。そして冷たい表情でびしっとマニフィカを指差していた。そこに静かな怒りを感じ取って、マニフィカがこそこそと布団の中にもぐりこむと、キリエの寝ぼけたような声が聞こえてきた。
「どうしたのー」
「大したことではありません。起床にはまだ早いですわ。もう少し寝ていても結構ですわよ」
「んー」
 キリエはそのまま素直にまた寝入ってしまったらしい。すーと穏やかな寝息が聞こえてきた。それを布団の中で聞きながら、マニフィカは夢を反芻していた。そしてようやく己の気持ちを自覚した。
『そうでしたの……わたくしは、ローランドに好意を。だからライバルだなどと。生徒と教師の恋などご法度と思っておりましたけれど……恋など理屈でするものではありませんでしたわね。もっと自分に正直にならなくては。偽っても苦しいだけですわ。ライバルは強力ですけれど、思い切ってこの気持ちを伝えてみましょう。信頼が恋愛になるかはわかりませんけれども……勝負は今晩ですわ!』
 そして布団の中でぐっと拳を握ったマニフィカだった。

                    ○

 そして思惑の交錯した3日目が始まった。2日目同様レイスたちに叩き起こされた生徒たちは、教師陣と一緒に三々五々食堂で朝食をとっていた。アメリア・イシアーファはアルトゥール・ロッシュの姿を見つけると、とててと近寄って人の輪から少し離れた場所に引っ張っていった。
「おはよう、アメリア。どうしたんだい」
「あのねぇ、キリエのことなんだけどぉ」
 そこでちらっとローランドにまとわりついて笑っているキリエを見た。つられてアルトゥールも視線を向ける。キリエは相変わらずのブラコンぶりで屈託のない表情をしていた。
「キリエ、元気になったみたいだね。良かった」
「んー、それなんだけどぉ。昨日、キリエがおぼれかけたでしょぉ?」
「エクセル先生が助けた奴だろ。泳ぎの達者なキリエにしては珍しいこともあるもんだね」
 アメリアがはぁとため息をついた。
「あれねぇ、実はちょっとした事情があったのぉ。その前にキリエを動揺させることを言っちゃってねぇ」
「動揺?何を言ったんだい」
「うん……ほら、夕べ、キリエは先生に恋しているんじゃないかって話したでしょぉ?あの疑問をぶつけていたのぉ」
「でも、はっきりはしてないんだろ。それとも認めた?」
「ううん、キリエは否定したよぉ。でもすっごく動揺しちゃって、結果があれ。だから多分、間違いないと思うのぉ。今はなんでもない風に笑っているけどぉ、それって自覚しちゃったからじゃないかなぁ。あのね、寝る前にみんなで雑談していたんだけどぉ、そのときにエクセル先生がキリエを助けた姿が格好よかったって話になって盛り上がったのねぇ。そのとき複雑そうな顔をしていたから」
「そうだったんだ」
「恋するのは悪いことじゃないけどぉ。ただそれで悩んじゃうのは良くないもんねぇ。あんなに仲がいいんだものぉ。だから、オリエンテーリングのときに様子を見計らってエクセル先生に告白するよう、キリエに言おうと思っているのぉ。でね、告白の場を作るためにアルトゥールにも協力してもらえないかなぁって」
「2人っきりになれる場を作るってことだね。いいよ、もちろん協力するよ。タイミングとしては、やっぱりオリエンテーリングのあとかな。バーベキューとか夜だから、それまで少し時間あるだろうし。そうだ、その前にエクセル先生にキリエの気持ちを伝えておこう」
「え?どぉして?」
「きっとエクセル先生はキリエに告白されたらびっくりすると思うんだ。先生の方は妹としか見ていないだろうからね。キリエの気持ちは真剣なものだろ?先生にはその気持ちを男らしく受け止めてもらいたいんだ。これまで支えになってくれたキリエの気持ちに、ちゃんと応えてあげてもらいたい。そしてキリエを幸せにしてあげて欲しいんだ。それが出来るのは先生だけだろうからね。そのために心構えをしておいてもらおうかなと。下手うって気まずくなったりしないように」
「ああ、そぉいうこと……うん、じゃあそれはアルトゥールにまかせるねぇ」
 少々微妙な顔でアメリアがうなずく。アルトゥールはそれには気付かず、明るい顔でアメリアに手を振ってローランドの元に向かった。
 その頃キリエたちのところには梨須野ちとせがいた。リスの姿では他の生徒たちと一緒に食事はしにくいので人間形になっていたちとせは、キリエの隣の席に座ると、ローランドが他の教師と会話をしているのを確認してからキリエに小さく頭を下げた。
「昨日はすみません。私があんなことを言ったせいでおぼれさせてしまって」
 悩みが解決してすっきりしていたキリエは、意地を張ることもなく笑って見せた。
「うん、ちょっとびっくりしたけどねー。大事にも至らなかったし、なによりおかげでお兄ちゃんが泳げるようになったじゃない?だからむしろ感謝している。ありがと。もう気にしないでね」
 意外にさばさばした反応にちょっと拍子抜けしたちとせは、少し探りを入れて見ることにした。
「あれには驚きましたわ。頼りないと思われてらっしゃいましたけれど、あの一件で皆さんの印象がだいぶん変わられたようですわね。まあ私ですら素敵と思ったくらいですから。きっとその前から先生に好意を持ってらした方には、もっと好感度が上がられたことでしょうね」
「ちとせもそう思う?あたしなんか泳いでいるお兄ちゃんを見てすっごくまぶしく感じちゃった。やっぱりお兄ちゃんは素敵なんだなって改めて思ったよ」
「キリエさん、やっぱり……」
「あ、ごめん。恋かって話ならパスね。自分の気持ちはわかったの。ちゃんと納得した。確かにお兄ちゃんのことは好きよ?でもそれは恋じゃない。家族として好きなの。そりゃ、お兄ちゃんに恋人が出来たら意地悪とかしちゃうかもしれないけど、それはあれよ、小姑根性って奴?だってそうなったら、あたしが一番の存在じゃなくなっちゃうでしょ。それってやっぱり寂しいと思うし」
 照れ笑いを浮かべるキリエに、ちとせが確認した。
「ではこれからも、妹として先生に接されるということですか」
「そうだよー。あたしね、思ったんだ。恋人になるより妹でいたいって。だって、血なんか繋がっていなくたって、お兄ちゃんにとってあたしは大切な家族。それはお父さんたちも含めて、あたしたちが15年かけて紡いできた絆なの。それはむしろ、血が繋がってないからこそ得られた絆なんじゃないかな。あたしはそれを失いたくない。少なくとも、今はね」
「ふむ、いわゆる『妹萌え』と言う奴かの」
 ぼそっと会話に加わってきたのはエルンスト・ハウアーだ。キリエが笑顔のまま固まった。
「は?」
 エルンストはわざとらしく遠い目をしながら言葉を続けた。
「ワシにはようわからんが、擬似的な禁断の関係が背徳的でたまらんとか、そういうのがあるそうじゃな」
「え、ええと。そうなんですか?あたしにも良くわかりませんが」
 困惑しながら答えるキリエ。何を言い出しているのかとちとせが頭を抱えた。エルンストは含み笑いを浮かべてこそっとささやいてきた。
「そうらしいのぅ。じゃから、タオル一枚の姿で胸でも押し付けて誘ってローランド君の理性を飛ばし、言い逃れの出来ん既成事実をつくってしまってはどうかね」
「はいぃ〜!?」
 キリエがぼっと赤くなった。してやったりとエルンストがからから笑った。
「というジョークはさておき」
「ジョークなんですか!?」
 突込みをさらりと無視して話を続けるエルンスト。今度は真面目らしく表情が変わっていた。
「異性としてにせよ家族としてにせよ、キリエ君がローランド君を『好き』ということに変わりはあるまい?じゃから試しにローランド君にただ好きとだけ伝えてみてはどうかな。どちらともとれるような言い方でな。先刻、今は、と言っておったじゃろう。それはまだ迷いがあるからじゃないのかね。本人の前で口にすれば、はっきりした気持ちがわかると思うぞ。わかったらその場でなくてもいいから、早いうちに「異性として好き」なのか「兄として好き」なのか改めて伝えるが良い」
「告白ですかーそうですねぇ……」
 おのれの気持ちははっきりしたと思っていたキリエだったが、エルンストにそう言われると自信がなくなってくる。キリエが口ごもってしまうと、エルンストがぼそっと言葉を追加してきた。
「でないとローランド君のほうが勘違いするリスクがあるしの」
 それには首をかしげざるを得ないキリエだった。そんなキリエを見てさらにエルンストが言った。
「自覚がないようじゃから言っておくが、キリエ君は充分に魅力的な女性なんじゃぞ。ローランド君が女性として好意を持ってもおかしくないくらいにな」
「うーん、ありえるのかなぁ」
「それこそ今は家族としてしか見てはおらんようじゃがの。可能性がまったくないとは思わんぞ。キリエ君、もし君が異性としてローランド君を好きなら急いだ方が良い。ワシのときのような昔の時代ならともかく、今の時代、ローランド君のような有望株は早めにお手つきされそうじゃからのぅ」
「ありえますね」
 ちとせが何気なく追従する。
「ありえるの!?」
 キリエが叫ぶと、ローランドが振り返った。
「こら、キリエ。食事中は静かにしなさい」
「う〜、あたしのせいじゃないぃ〜」
 キリエがいじけた声で反論するのを聞きながら、エルンストとちとせは笑いをこらえていた。ローランドが不思議そうな顔になる。ちとせが吹き出さないようにしながらローランドに言った。
「先生、昨日は素晴らしかったですわね。トラウマの克服、おめでとうございます。喜ばしいことですわ。けれど喜んでばかりいてもいけませんわよ。キリエさんのことも気にかけて差し上げなさいませ」
「わ〜ちとせってば」
「え?キリエがどうかしたのかい」
「にぶちんさんには教えて差し上げません。ご自分でお考えくださいませ。では」
 なにげにあおるような台詞を残してちとせはさっさと去っていった。残されたキリエが気まずそうにローランドを伺っていると、アルトゥールがローランドを誘い出した。その意図に気付かなかったキリエが、ほっと肩の力を抜いた。

 ローランドが離れて安堵したキリエが友人たちとまた他愛ない会話を始めた頃、ローランドはアルトゥールに裏庭に連れ出されていた。まだ朝食時間中ということもあってそこに人気はなかった。さすがに他人に聞かれるのを警戒していたアルトゥールは気配を確認すると、怪訝そうにしているローランドに向かって直球の言葉を吐き出した。
「先生はお気づきではないようですが、キリエは先生に恋をしているんです」
「は!?」
 とっさに言葉の意味を掴み損ねたローランドが目を丸くする。それから苦笑した。
「そりゃ僕たちはシスコンやブラコンって言われるほどに仲が良いけれどね。それはあくまでも兄妹としてだよ。恋なわけないじゃないか」
 笑い出そうとしたローランドは、アルトゥールの真剣なまなざしに今度は困惑の表情を浮かべた。
「昨日のキリエがおぼれかけた一件なんですが、アメリアたちに恋心を指摘されて動揺してしまったためなんだそうです。元々兄として以上に思っていたところに、実の兄ではないとわかって思いが育ってしまっても何の不思議があるでしょう。それで、先生にお願いがあるんです」
「お願い?」
「オリエンテーリングが終わった後、僕とアメリアで2人っきりになれるチャンスを作ります。そのときキリエが告白してくると思うんです。先生には男らしくその気持ちを受け止めてあげて欲しいんです」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。まだ告白があると決まったわけじゃないだろ」
 あたふたとローランドが手を振る。アルトゥールは真剣な表情を崩さないままさらに言葉をつのった。
「想いを溜め込んでしまうのは辛いものです。特にキリエみたいにまっすぐな女の子にはね。だから先生に告白するよう、アメリアがキリエを説得するそうです。キリエだったらきっと納得して思いをぶつけてくるはず。先生、今までキリエは、家族を失った先生の支えになってくれていた存在なのでしょう。だったら今度は先生がキリエの気持ちに応えてあげてもいいんじゃないですか。キリエを幸せに出来るのは先生だけだと思うんです。友達として僕らはキリエが幸せになってくれることを願っています。ずっと先生の支えだったキリエを、今度は先生が幸せにしてあげてください」
「キリエが僕を……?そんな、まさか」
 突然の話になおも困惑するローランド。動揺しているローランドを励ますように、アルトゥールがその手を握った。
「キリエの想いが真剣なものなら、逃げ出さずに受け止めてあげてください。男ならそれくらいできなくては」
 そう言いきったアルトゥールは、自分よりずっと年下なのにはるかに男らしく見えた。やはりれっきとした彼女がいると違うものなのだろうかと一種の逃避感情に走ったローランドが思っていると、頭上からちとせの声が降ってきた。
「随分男らしいことをおっしゃってますけれど、そういうあなたはアメリアさんとキスくらいはしてらっしゃいますの?」
「ちとせちゃん!?いつからそこに」
「最初からいましたわ」
 食事が終わったので本来の姿に戻ったちとせは木の上で食休みをしていた。そこへたまたまアルトゥールたちがやってきて、ちとせに気付かないまま話を始めてしまったのだ。ちとせの突っ込みにアルトゥールが真っ赤になった。
「キスはした。キスくらいはしたけれど、ええと、その」
 それもやっとできたとは言えない。優男のアルトゥールも本命には弱かった。弱点を思いっきり突かれてアルトゥールはもごもごと呟きながら走り去っていった。取り残されたローランドは木の上で呆れた顔をしているちとせに問いかけた。
「ちとせは……その、どう思っているのかな」
「キリエさんの気持ちですか?さきほども申し上げたはずですわよ。にぶちんさんには教えて差し上げませんと」
「うっ」
 それを肯定ととったローランドが頭を抱えてしまった。
 これまでローランドはキリエと色恋沙汰を結び付けて考えたことなどなかった。15年間時を止めていたローランドにとって、キリエは小さな妹でしかなかったのだから。思っていた以上に大人になっていたというだけでも驚きだったのに、自分に恋しているなんていうのは想像の範囲を軽く越えていた。もちろんキリエの幸せはローランドとて願わないわけではない。だが、アルトゥールにはキリエの想いを受け止めろといわれたが、自分の方にキリエを恋愛対象として見る自信がなかった。支えであったことも、これからも支えであることも疑いようはなかったが、己の心をどうつつきまわしても家族として以上には思えなかったのだ。
 赤くなったり青くなったりしながらうろうろ悩んでいたローランドを見て、ちとせがため息をついた。
「仕方ありませんわね。それではこれだけ教えて差し上げますわ。キリエさんも悩んでいらっしゃいますが、絆を大切にしたいとおっしゃっていましたわ」
「絆?」
「まあ、告白くらいは覚悟なさいませ。大切なのはその後のことなのですから」
「あ、ちとせ」
 言うだけ言ってちとせもさっさと去っていった。1人っきりになったローランドは深い深いため息をついた。
 そして悩める兄妹の想いを乗せてオリエンテーリングは始まった。
「みんな、ちゃんと弁当は受け取ってきたかい。ルートは簡単だ。この海岸を出発して洞窟を通過、抜けたところに林があるからそこを通ってそのあと海に入ってもらう。そしてまたここに戻ればゴールがあるから。時間制限は特にないけれど、日が暮れる前にはゴールするようにね。お昼は各自適当なところで済ませてくれ。チェックポイントは洞窟内の地底湖と海の……っと、これは猫間先生に説明してもらった方が良いか」
 悩みから今ひとつ浮かない顔をしながらローランドがオリエンテーリングの説明をする。話を振られた猫間隆紋が前に進み出て海を指し示した。
「夜はバーベキューだそうだが、働かざるもの食うべからずだ!いいか、みんな。あそこに空気の層で作った海水プールがある。あの中から海産物を獲得してくるのだ!獲物は何でも良いぞ。かに、海老、あわびにサザエ、元気な魚でもかまわぬ。おお!見てみろ、カツオ鳥が飛んでおるぞ。我と思わんものはカツオの3、4本も獲ってこい!マグロでも構わんぞ。夕食が美味くなるか否かは諸君の働き次第だ。健闘するように。以上!」
 指し示された先ではばしゃーんばしゃーんと魚が跳ねるのが見えた。そんなに多様な種類の生き物が限られた一箇所に自然にいるはずはない。わざわざ集めてきたのだろう。だがそれだけにクリアは一見簡単そうに思えた。新鮮な食材でやるバーベキューはさぞ美味しいことだろう。生徒たちはごくりと生唾を飲み込んだ。隆紋が低く笑った。
「生きたまま焼く残酷焼きも諸行無常の風情があって良いもんだ。はたらけ、若人!ふふふ、腐腐腐」
 笑い声が奇妙にくぐもってせっかくの雰囲気を台無しにし、ローランドが肩をすくめた。
 わくわくと胸を躍らせていたのはジニアス・ギルツだった。はいと勢い良く手を上げた。
「障害って他にもあるんですよね?」
「あ?ああ。洞窟内にも仕掛けがあるから気をつけるんだよ。他にも……とにかく。ゴールするまでは気を抜かないように。怪我するほどのものはないはずだけどね」
 今頃せっせと洞窟内で障害を仕掛けているであろうアクア・エクステリアを思い浮かべながらローランドが答えた。ジニアスが楽しそうに手を振り回した。
「ま、レースなわけじゃないから、みんなでペースをあわせてクリアしていこうな」
 側ではアルヴァート・シルバーフェーダが手をかざしながら空を見上げ、隣に立っていたアリューシャ・カプラートにささやきかけていた。
「今日もいい天気だね。空気も美味しいし、食材には期待できるね。海の幸は確保必然みたいだけど、林で野草も取っていこう。揚げると美味しいと思うんだ」
「食材集めですか。いいですわね。わたしもお手伝いいたします」
「林のことは何にも言ってなかったから、そこには障害はないと思うんだ。ゆっくり集めてまわろう」
「ええ、そうですわね」
 2人ともキリエのことが気にならないわけではなかったが、へたにつつきまわして本当は恋ではないのに恋していると思い込ませてはいけないと考えていた。いつもと違う環境に突然明らかになった真実が、気持ちをおかしな方向に流してしまう可能性だってある。それでは旅行が終わって日常に戻ったとき、余計に苦しむことになる。だからそっと見守ることにしていた。アメリアたちがたくらんでいることには気付いていなかった。
「キ〜リエ、一緒に回ろうねぇ」
 アメリアが無邪気にキリエに声をかける。ほけっとしていたキリエがはっとしたようにぎこちない笑みでアメリアを振り返った。
「うん。仕掛けがあるって言っても、まさか肝試しのときのようなのじゃないだろうし。今回は安心だね」
「そうだねぇ」
 応じながらキリエの視線を追いかけると、その先にいたのはローランドと、ローランドにまとわりつくように立っているアリス・イブだった。アリスはやたらなれなれしくローランドにしなだれかかっていた。ペットのリスがローランドの肩に乗って頬に擦り寄っている。アリスはリズをくすぐりながらローランドにあれこれ話しかけていた。浮かべている笑みはあからさまにローランドに好意を抱いていると感じさせるものだった。その様子を見てキリエがそっとため息をつく。アメリアは「やっぱり……」と思っていた。
 しかしそんなローランドたちを見て愕然としていたのはマニフィカもだった。
『あの残り香はイブ先生のだったんですのー!?いやですわ、なにあの雰囲気。ローランドも嫌がっている様子はありませんし。まずい、まずいですわ。負けてはだめよ、マニフィカ!』
 思わず内心で気合を込めてしまったマニフィカだった。もっともちとせににぶちんと評されたローランドは、アリスには弱みを見せた気安さもあって、互いの行動が周りの目にどう映るかということはまったく気がついていなかったのだが。
 ともあれ時間が来てオリエンテーリングは開始された。
 キリエがアメリアと去ってしまうと、アリスはその反応を確かめながらローランドからさりげなく離れていった。入れ替わりにやってきたのはアスリェイ・イグリードだった。監視役の教師陣は生徒たちが戻ってくるまで取り立ててすることがない。洞窟ではアクアがいろいろ仕掛けをしているはずだが、事前に危険なものはないと教えられていたので心配はしていなかった。全員が出発し海岸が静かになると、暇になってしまったのでローランドはアスリェイと一緒に浜辺に座り込んだ。
「ほい、どうぞ」
 アスリェイがきんきんに冷えたノンアルコールビールの缶をローランドに差し出した。緊張していたローランドはさすがに喉が渇いていたのでありがたくそれを受け取った。つまみも差し出しつつ、アスリェイは自分もふたを開けてそれをローランドが持っていた缶に軽くぶつけた。
「ま、なにはともあれトラウマ克服おめでとう」
「ありがとうございます」
「泳げた気分はどうだったかい」
 のほほんとした問いに緊張もほぐれて、ローランドは喉を湿しながら明るく言った。
「気持ちよかったですよ。なんか、水が怖かったって言うのが不思議なくらいです。人間って案外単純ですね」
「そりゃ良かった。キリエちゃんもほっとしただろうね」
「……そうですね」
 キリエの名前を出されてローランドがかすかに顔を曇らせる。アスリェイはそんな微妙な変化を見逃さなかったが、表面はあくまでも平然と会話を続けた。
「いや〜若い子が頑張っている姿は、やっぱりいいねぇ。見ていて楽しいよ」
「若いって、そりゃイグリード先生より年下ですけれどね。僕だってもう大人ですよ」
「おじさんからみたらまだまだ青二才さ。青春真っ盛りのね」
「青春って」
 さすがにローランドが苦笑すると、アスリェイはちっちと指を振った。
「おんや〜気がついてないのかね。自分にモテ期が到来しているってことにさ」
「モテ期ですか?まさか」
 自分には一生縁のないような言葉にローランドが笑った。アスリェイが本気にしていないローランドの肩を叩いた。
「例えばキリエちゃんとか」
「え……」
 悩みの種だった名前を持ち出されてローランドの顔が引きつった。アスリェイはそ知らぬ顔でビールをくぴくぴ飲みながらあっさり言った。
「ん〜まあこれはおじさんの勝手な想像なんだけどね〜。もしかしたらキリエちゃん、ローランド先生を異性として意識し始めてるのかもしれないよ?」
「……キリエはまだ子供ですよ」
「おやおや。女の子の成長は早いって知ったばかりだろうに。15歳なんていったらそれこそ思春期真っ盛りじゃないのかねぇ。大好きなお兄ちゃんが実は赤の他人だったってことで、恋する障害はなくなったんだ、可能性は充分にあると思うんだけどねぇ」
「しかし、今まで家族としか思ってなかったのに、そういうのってありなんですかね」
「だから可能性としてってこと。キリエちゃんは素直な子だから、あんがい自覚したら突撃してくるかもしれないよ」
「はあ……」
「それに今は日常とは離れた環境だからねぇ。他にもチャンスと思ってアタックしてくる娘がいるかもしれないね」
「ええっ!?」
 声がひっくり返ってしまったローランドに、さすがにアスリェイが爆笑した。
「だからモテ期が来ているって言ったじゃないか。本当に気付いてないのかな?やっぱり若いねぇ」
「いいですよ、単に鈍いだけだとはっきり言ってくださっても」
 すねてしまったような口調に、アスリェイは存外真面目な顔でさとした。
「いやいや、好意に気がつかないのが悪いと言っているわけじゃないよぉ。大切なのは、思いをぶつけられたら、その気持ちをまっすぐに受け止めて、まっすぐに返してやることなんだからさ。自分の気持ちに偽りなく答えてやることが相手への礼儀だ。ごまかしや嘘は相手を傷つけるだけだからね。それだけは忘れちゃいけないよぉ」
「まあ、それはわかっているつもりですが。隠し事をしていたせいでキリエに悲しい思いをさせたばかりですからね。恋も同じようなものでしょう」
「そうそう。別に告白されたからって無理に相手を好きになる必要はないんだからさ。誠実に、正直に向き合ってあげればいいんだよ。その結果、相手の娘が泣くことになってもね、その涙は決して無駄になるものじゃないさね。きっと成長の糧になるよ。おじさんの見てきた子の中にそういう子がいたんだ。だから保障するよ」
 離れていたアリスが戻ってくるのを見てアスリェイが腰を上げた。アリスの好意は見え見えだったので、告白タイムかと思ったのだ。気を利かせる代わりに、去り際に付け加えた。
「焦りは禁物だけど、あんまりのんびりしているとおじさんみたいに嫁き遅れになっちゃうよぉ」
「先生だってまだまだこれからでしょう」
「あはは、おじさんは惚れたら一途だからね。心配ご無用だよん」
 そしてすたすたと去っていく。アリスにはすれ違いざま励ましの声をかけた。
 アリスは、確かにローランドに好意を持ってはいたが、それは決して恋ではないと承知していた。キリエの存在があったからだ。前日の相談でキリエの悩みにうすうす気付いていたアリスは、先刻もわざと見せ付けるような行動をとってキリエの反応を確かめていたのだ。それ以外の人間にも誤解されるのも計算の上でだった。だからアスリェイに励まされたときも、不敵に笑っただけだった。
 取り残されたローランドはビールをあおりながらぽつねんと考え事をしていた。そして馨しい香りにはっとなった。視線を向けるとアリスが隣に座るところだった。魅惑的な笑みを向けられて、ローランドがアスリェイの言葉を思い出しどきりとなった。妹と同じように素直な反応に、アリスがつい微笑ましくなって軽やかに笑い出してしまった。
「何を身構えていらっしゃるの。とって食ったりしないのに」
「あ、す、すみません。ちょっと考え事をしていたものですから」
「キリエのこと?」
 ずばり切り込まれて、ローランドが真っ赤になった。アリスは笑みを浮かべたまま率直に問いただしてきた。
「ねえ、ちょっと聞きたいのだけど、あなたはキリエのことをどう思っているの」
「どうって……」
「つまり、妹としてではなく、1人の女性としてどう思っているのか知りたいのだけど?」
 言葉は率直だったが、アリスは別に答えを期待しているわけではなかった。ローランドがキリエを妹としか思ってないことなどわかりきった話なのだから。ただ、15年前の事故から時を止めてしまっていたであろうローランドに、悩んで成長してもらいたかった。同じ苦しみを知る者として、それを見てみたかったのだ。
「僕は……そりゃキリエのことは可愛いですよ。大事にしたい存在だし、これまで支えになってくれた分、幸せになってもらいたい存在ですけど……女性としてみるのは難しいなぁ。キリエは僕にとって守ることで守ってくれた存在だから。うまくは言えませんけれど、男とか女とかってのは関係ないって思えるんですよね。ただ、大切な人間……じゃだめなんですかね」
「だめってことはないわよ。大切なのはお互いをどう思っているかってことなんですもの。それこそ血のつながり以上にね」
「そうですよね!」
 ほっとしたように顔をほころばせるローランド。どうやらまわりにたきつけられていたらしいことを悟って、アリスがちょんちょんとローランドの頬をつついた。
「でもそれがキリエに通じるかはわからないわよ。妹以上に思えなくてもそれは仕方ないわ。ただ、なにがあっても逃げ出したりだけはしちゃだめよ。精一杯の気持ちを伝えて上げなさい」
「はあ……」
 そしてまた悩みの中に落ちていくローランドだった。
 一方のキリエはといえば。洞窟内でアクアの仕掛けにひっかかっていた。
「あいた!なに〜足元に何か……」
 張られていたワイヤーにつまずいて転んだキリエを助け起こそうとしていたアメリアは、不気味な振動に嫌な予感を覚えた。手を引っ張りながら視線を前方に向ける。振動の原因は通路一杯の巨石が転がってくる音だった。それも1つではない。ごろごろといくつも転がってくるのが見えた。自分ひとりなら力を使って切り抜けることも出来るだろうが、キリエを危険に晒すわけには行かない。アメリアは慌ててキリエの手を掴んだまま反対方向に走り始めた。
「なにあれー!」
「危険はないっていったのにぃ。やっぱりちょっと甘かったかなぁ」
 だがやがて音が少し違うことにアメリアが気づいた。大量に転がってくる割には、音も振動も小さい感じがしたのだ。そこで思い切って立ち止まり、振り返りざま一番前の石を蹴り飛ばしてみた。
 ぼすん!軽い音がして岩に穴が開いた。
「アメリア!大丈夫……って、なにこれ」
「うん、本物じゃなくて張りぼてみたい。ああ、びっくりしたぁ」
 暗がりが余計に本物らしく見せていたが、間近で見るといかにも作り物だということがわかった。はーっと息を吐いて2人は再び歩き始めた。といっても先程進んできた道は偽の巨石で塞がれてしまっている。壊しながら進むには少しばかり量が多いようだった。そこでアメリアは風の流れを探って別の道にキリエを誘った。
「地図に寄ればこの道でも地底湖に出られるはずだよぉ」
 チェックシートの裏に印刷された地図を確認しつつアメリアが言う。覗き込んだキリエが口をへの字にした。
「けっこう遠回りになっちゃうね。ごめんね、アメリア。あたしが罠に引っかかったりしたから」
「気にしないでぇ。競争ってわけじゃないんだしぃ、のんびり行こうよぉ。ちょうどキリエに話したいこともあったしねぇ」
「話?」
 また罠に引っかかるといけないので慎重に歩を進めながらキリエが何気なく聞き返した。アメリアも女の子同士の内緒話ののりでささやいた。
「あのね。はっきり言っちゃうけどぉ、エクセル先生が好きなら、ちゃんと気持ちを伝えたほうがいいよぉ」
「えっ」
 ぎょっとしてキリエが振り返る。アメリアはその手をぎゅっと握り締めて励ました。
「好きな人に想いを伝えないままでいたら、後で絶対に後悔するものぉ。オリエンテーリングが終わったらチャンスを作ってあげるからぁ、打ち明けてすっきりしよぉ?ね」
「ね、ったって、あたしはやっぱり自分の気持ちは違うと思うんだけどなぁ」
「またそんなこと言ってぇ。イブ先生と仲良くしているのを見てため息ついていたじゃない。それって好きだから、でしょぉ?」
「う〜」
 聞かれていたかとキリエがしかめっ面になる。アメリアはここぞとばかりに言葉を続けた。
「エクセル先生にははっきり言わないと通じないだろうからねぇ。きちんと言った方がいいと思うのぉ。そう例えばこんな風に」
 いったん言葉を区切って、頬を赤らめながらアメリアが空中に向かって言った。
「いままでは妹としてお兄ちゃんのことが好きだったけど……今は1人の女の子としてお兄ちゃんが好き。だからもう、妹や家族じゃいや……あれ?キリエ?」
「あ〜り〜え〜な〜い〜っ!」
 冗談めいた告白ならエルンストの言うとおりやってみてもいいかと思っていたキリエだったが、アメリアの台詞はキリエの予想以上にインパクトのあるものだった。というか、妹でいたいというキリエの気持ちを否定するものでしかなかった。自分がローランドにそう言っている光景を想像して、キリエは頭がくらくらするのを感じてしまった。叫んでよろよろと走り出したが、その姿が不意に掻き消えた。
「きゃあ!?」
「キリエ!?」
 アメリアが駆け寄ると、落とし穴にはまったキリエがぶはっと水面から顔を出した。どうやら底に水が張られていたらしい。穴はかなり深かったが、精霊の助けを借りてなんとかキリエの救助に成功した。
「水着でよかった……」
 後で海に入るからと水着を着ていたのが幸いといえば幸いだった。水に濡れたせいで瞬間パニックになった頭も冷えてくれたようだ。キリエは心配そうにこちらを見ているアメリアの肩に手を置いて、きっぱりと言った。
「チャンスを作ってくれるって言うんなら、告白はしてもいいよ。けど、ああいう言い方は絶対にしない。あたしらしい言葉で言わせて」
「うん、それはいいけどぉ……」
 自分の台詞の破壊力にも気付かずに、それでもとりあえず前向きになったようだと思って、アメリアもうなずいた。
「わ〜水だ〜落っこちなくて良かったぁ」
 と、そこへとテオドールの声が響き渡った。どうやらキリエたちの後を追いかけてきていたらしい。気がついたときには穴の中を覗き込んでいた。
「テオ、他にも落とし穴があるかもしれないから抱えていてあげる」
「ありがとう。一緒に行ってもいいの?」
「もちろんだよ。ね、いいよね、アメリア」
「うん。行こぉ、テオ」
 そして3人になったグループは、罠に気をつけつつまた進み始めた。キリエに抱きかかえられたテオドールは、しばらく足をぶらぶらさせて大人しくしていたが、女の子組が先刻の話題を忘れるかのようにきゃいきゃいはしゃいでいたので、ぽつりと呟いた。
「ねえねえ、キリエちゃん。さっきはどうして急に走り出しちゃったの?ボク、声をかけようと思っていたのに」
 キリエがぴくっと体を震わせた。あの台詞を思い出し、たちまち赤くなる。立ち止まってしまったキリエをアメリアが不思議そうに見た。テオドールは無邪気にキリエを見つめていた。キリエはぎこちない表情で見つめ返した。
「あ〜ちょっとね。驚くことがあったの」
「驚くこと?そういえばキリエちゃん、なんか自分でも制御できない感情?に悩まされているみたいだね〜。嵐の中にいるみたい。ボクね、昨日の水球で悟ったんだけど、そういうときは心を無にして状況に身をゆだねるしかないんじゃないかな。あたって砕けたりするのも、いい経験になるんじゃないかなぁ」
「あたって、砕ける……」
「うん!もやもやしたもの、抱えているよりずっといいよ。思うとおりに動いてみたら?もしかしたらそれで傷ついちゃうかもだけど、傷ついたら縫い縫いして治せばいいんだもの!そうしたら新しい一歩をまた踏み出せるものね〜」
「テオ、優しいねぇ」
 アメリアがしみじみという。テオドールは抱えられたままキリエの頬を優しく撫でた。
「なんでかな、悲しそうな女の子を見ていると、ハートがきゅんっていたくなっちゃうの。ボクにハートなんてないのに。いたいってこともよくわからないのに。でもね、体の中で綿がしぼんじゃうみたいな感じがするの」
「ありがと……テオは自分に心がないって言うけれど、ちゃんとあるよ。このふわふわの毛みたいに、柔らかくて触っているとこっちも暖かくなるような……そんな優しい心が。そうだね、はっきりさせなきゃいけないね。自分の気持ち。本当に大切なのが何かを」
 テオドールをぎゅっと抱きしめながら、キリエは決意を秘めた目で前方を見すえた。
 チェックポイントである地底湖では、一足先にたどり着いていたジニアスが、浮かべてあった小船を見ながらなにやら考え込んでいた。巨石やら落とし穴やらの罠は得意の軽業で回避していたのだが、この湖でどういう行動を取るか迷っていたのだ。
「あのポイントまでたいした距離じゃないし、泳いで行ってもいいんだけど。わざわざ船があるってことは、これに乗っていけって言うことだよな」
 湖の中央には岩が突き出していて、松明が煌々とあたりを照らし出していた。ちょうど松明のすぐ側にスタンプが置いてあるのが見える。あれを押してこいということなのだろう。小船はいかにも罠ですといった雰囲気だったが、逆にそれがジニアスの好奇心をうずかせていた。
「よし。ここは乗るべきだよね」
 罠だとしても回避する術はあるだろう。それこそいざとなったら泳げばいいのだ。小船とはいえ、数人は乗れそうだ。ジニアスは一緒に来ていた仲間とともに船に乗り込み、ゆっくりとこぎ始めた。
 ぱしゃり。
 少し進んだとき、船の後方で軽い水音がした。乗っていた1人が振り返ると、水中から腕が突き出していて、持っていた柄杓で船に水を注ぎ込んでいるところだった。ほのかな灯りに浮かび上がる白い腕が水を汲みいれている光景は此の世ならざる世界に迷い込んだようで、目撃してしまった生徒がひっと息を呑んだ。とたんにぐらりと船が揺れる。ジニアスはこぐ手を止めてその生徒のほうを見た。
「どうしたんだい?」
「手……」
「手?」
 おびえている生徒があわあわと湖面を指差しながら叫んだ。
「白い腕が船に水を注ぎ込んでいたんだー!」
 それはちょっと考えればわかるネタだった。ぴんときたジニアスが、すらりとサンダーソードを抜いて水に電流を流した。
「いた、いたたた。それはあんまりですわ〜」
 水の中に潜んでいたアクアが、感電してざばりと浮き上がってきた。ジニアスがあははと笑った。
「やっぱりアクアだった。この船、罠だろうなーとは思っていたけど、まさか水を汲みいれるとはね。沈没させるつもりだった?」
「そこまでしませんよぉ。適当におびえてくださればと思っていただけですもの。まさか電流で反撃されるとは思いませんでしたわ。もういいです。さっさと行ってくださいませ。まだ後続はいらっしゃるのでしょう。私はその方々の相手をしなくてはなりませんから」
「ま、やりすぎないようにね」
「あなたに言われたくありません」
 アクアがむくれると、ジニアスの笑いが大きくなった。
 洞窟を抜けるとそこは広大な林だった。とはいっても道はちゃんとあった。ちょうど頃合良くお昼になったので、狭い洞窟を抜けた生徒たちは新鮮な空気を吸いながら思い思いの場所で弁当を広げていた。暑い日差しも木の葉が程よくさえぎってくれて、吹き抜ける風も爽やかだった。アクアの仕掛けを事前に知らされていたのだろう。弁当は濡れても困らないよう真空パックになっていた。ひと時の休息を楽しみながらおのおの食事を済ませる。ぶつくさ文句を言っていたのは率先してごみの回収を行っていたアンナだった。
「そこ!ポイ捨てをしてはいけません!はい、これに入れてくださいませ。まったく仕方のない」
 各自きちんと持ち帰るようゴミ袋を持たされてはいたのだが、ついちょっとしたものを投げ捨ててしまう生徒は後を絶たず、アンナは使命感に燃えて持参した大きなゴミ袋にごみを放り込んでいた。アリューシャがアルヴァートの分のごみも持ってアンナのところにやってきた。それを受け取りながら姿の見えないパートナーのことを尋ねてきた。アルヴァートが側にいないのは、さすがのアンナも珍しいと思ったのだ。アリューシャは微笑みながら林の奥のほうを指差した。そこではアルヴァートが山菜取りに夢中になっていた。
「バーベキューの食材にするのですって」
「ごみは出していませんでしょうね」
 アンナが見当はずれのことを言う。それもいつものことなので、アリューシャは気にせず話をあわせた。
「大丈夫ですわ。ごみならこうしてちゃんと持ってまいりましたでしょう。では私もアルバさんのお手伝いをいたしますのでこれで」
 そしてアンナは再びゴミ回収にいそしみ、アリューシャとアルヴァートは仲良く品定めをしながらゴミ袋に収穫した山菜を詰め込んでいった。
 一時の休息で元気を回復した一行は、次なる障害である海へと向かった。浜辺では隆紋が待ち構えていた。
「獲物を捕らえたら申告するように。引き換えにスタンプを押してやるからな。押してもらったら向こうのゴールに行け」
「あ、これバーベキュー用の食材なんで、預かっていていただけませんか」
 アルヴァートが山菜の入った袋を隆紋に手渡す。と、隣りにいたアリューシャが無言でつんつんとアルヴァートの背中をつついてきた。
「どうかしたかい、アリューシャ」
「ゴール……なのですが」
「ゴールがどう……うっ」
 遠方の浜辺で水着の上に白衣といういでたちで武神鈴が高笑いしていた。かたわらでは巨大タコ型ロボット(ただし全身真っ黒)が8本足をうねうねうねらせていた。全長50mはあろうか。凶悪面は前日の蘇生ロボットに勝るとも劣らなかった。
「元々オリエンテーリングは軍隊の行軍を競技化したもの。ならば最後に倒すべき敵がいても不思議ではあるまい。ここまでたどり着いた尖鋭たちよ、心置きなくかかってくるがよい!こいつを倒さねばゴールは出来んぞ。ま、素手の生徒には無理があるだろうから、銃と剣も用意してやった。安心しろ」
 見れば確かに手前になにやら大きな引き出し棚が置いてあった。その中に武器が入っているのだろう。いかにマッドサイエンティストの鈴といえど、まったく歯が立たないようなロボットは作りはすまい。と無理やり信じ込んで生徒たちはまずは海に入っていった。
 隆紋特製の海水プールは海の幸の宝庫だった。泳ぎがそれほど得意でない生徒は手近なところで貝類を捕獲してスタンプをもらっていた。ジニアスは青の元素水晶を使って衝撃を与え、みごとカツオやらマグロやらを捕まえていた。さすがにこの障害は免除してもらったテオドールを浜辺に待たせ、アルトゥールと合流したアメリアとキリエは楽しそうに魚を追いかけていた。
「かにも美味いぞー!誰かとってくるのはいないのか」
 生徒たちから海産物を受け取りながら隆紋が発破をかける。またもやさらしに褌といったスタイルのリリアが意気揚々とかにを獲りに行った。
 集まった品々はバーベキューに使うべく隆紋が手早く下ごしらえをしていた。さすがに鈴の側によるのは恐かったのだろう。ローランドがそれを手伝っていた。アリスとアスリェイは戦いにそなえてゴール付近で待機をしていた。
 ごくり。そして海から上がった生徒は、息を飲んでロボットと対峙した。
「あー、念のため言っておくが」
 鈴が言いかけたとき、1人の生徒が回り道をしてゴールに向かおうとした。ちゅどーんと景気のいい音がしてその生徒は黒焦げ&アフロヘアになってその場にばたりと倒れこんだ。鈴はやれやれと肩を竦めた。
「このようにずるはできないよう周囲にはアフロ地雷を仕掛けてある。地道に戦うんだな。なに、一対一でなくてもいいんだぞ」
「うえ〜」
 回避不能な仕掛けに悲鳴が上がる。アメリアがキリエに銃を取るように言った。ジルフェスを構えたアルトゥールが中距離戦を告げてきて、キリエはうなずきながら棚に向かった。
「ふむ、剣の方が攻撃力は高いんだがな。まあ好きにやりたまえ」
「ロボットなら雷には弱いはず」
 サンダーソードを構えたジニアスが切りかかっていく。だが思ったほどの効果は出せなかった。
「簡単に壊されても面白くないからな。異次元にダメージを受け流すダメージキャンセラーを搭載させてもらった。せいぜい頑張れよ」
「あーそういうこと。ま、なんとかなるだろ」
 しばし怪訝そうだったジニアスも、鈴の説明に納得して攻撃を再開した。ダメージを受け流すと行っても、すべてではないらしい。少しずつではあるが傷がついて行った。口から吐き出される墨を身軽にかわしながらジニアスは攻撃を続けた。
「あれ、なんか仕掛けになっている」
 その間に棚をあさっていたキリエは、2段目から「ハズレ」と書かれた紙を見つけて地団駄踏んでいた。
「なに、これー!きゃん!」
「キリエぇ!」
「アメリア、前に出るな。僕が行くから援護を頼む」
 触手が意外な速さでキリエの胴に巻きついた。うねうねとエロティックな動きで肌を這い回る。気色の悪さにキリエがじたばたと暴れた。アメリアが小さめの竜巻を起こしてタコの動きを封じる。その隙にジニアスとアルトゥールが2人がかりで触手を引っぺがしキリエを救出した。どうやらタコは男には興味がないらしい。触手は素直に退いていった。代わりに8匹の小型タコがわらわら群がってきて、2人の顔に筆を走らせた。
「お正月の羽根突きじゃあるまいに」
 墨で顔に落書きされた男性陣が顔を見合わせて頭を抱えた。
「気持ち悪かったよ〜」
 泣きべそをかきながらキリエがへたりこんだ。キリエは全身に鳥肌を立てていた。鈴がふむとあごに手をやった。
「やはりイメージが春画だったせいだろうな。この反応も仕方あるまい。まあしゃれにならん事態になるまで放っておくか」
 そのしゃれにならない事態はすぐさまやってきた。タコは恐ろしく女好きであるようで、男には墨攻撃なのに対し、女は触手で絡めとろうとするのだ。精神的ダメージを受けたキリエはテオドールを抱きしめて戦線離脱をしていたし、リリアやアメリアのように攻撃可能な生徒はなんとか触手を退けていたが、アルヴァートにかばわれていたアリューシャがつかまってしまったのだ。完全に暴走状態に陥ったタコは、図体に似合わぬすばやさでそこいら中に墨を吐きながら、触手でアリューシャの水着を脱がせにかかった。
「いやああ、アルバさーん!助けてー!」
「アリューシャを離せーっ」
 激怒したアルヴァートが剣でタコに切りかかっていく。体中墨まみれになるのもいとわず攻撃していったが、ダメージキャンセラーが働いてアリューシャをつかんでいる触手の力を弱めることは出来なかった。ジニアスやアルトゥールも応援したが、触手はその間もアリューシャの肌の上を蠢きまわって、ついには先端がするりと胸元に忍び込んでしまった。片側の肩から紐がずり落ち、つつましやかな胸が今にも露になりそうになった。吸盤に吸い付かれる感触がおぞましく、アリューシャは泣きながら身もだえ、他の女性陣はその悲痛な叫びに思わず目をそむけてしまった。タコは他の触手も哀れな犠牲者の腕や足に絡みつかせていった。高々と持ち上げられて攻撃が届きにくくなる。また相手が動いているため、うかつに遠距離攻撃を仕掛けると、アリューシャにも被害が及びそうだった。
「いや、いやああ」
「アリューシャ!!」
 触手は存分にアリューシャの肌を堪能しつつ、彼女の素肌を太陽の下にさらそうとしていた。アルヴァートが絶望に満ちた声を上げながら果敢に立ち向かっていった。その様子を見守っていた鈴は、アリューシャの胸がさらけ出される寸前に手元のコントローラーのスイッチをぽちっと押した。と、ずんと鈍い音がしてタコの動きが止まり、アリューシャの体が落下してきた。アルヴァートが慌てて受け止め、その体を抱きしめた。アリューシャは泣きじゃくりながらアルヴァートの名前を呼び続けていた。
 なにが起こったものかとジニアスがタコを見ると、頭の部分からぷすぷすと黒い煙が出ていた。鈴が悪気のない声で説明した。
「いや、なに。こういう可能性もあると思ってな、自爆装置もつけておいたのだよ」
「だったらなんでもっと早く止めてくれなかったんですかーっ」
 殺気立った声でアルヴァートが怒鳴る。鈴はすまし顔で口笛を吹いていた。
「ちょっとくらいトラブルがあったほうが人生楽しいってものだからな」
 ぷつっとアルヴァートが切れて、鈴を切りつけようと立ち上がりかけたが、アリューシャがすがりついてきたためそちらを優先させることにした。アリューシャはまだかたかた震えながらアルヴァートにしがみついた。吸盤に吸い付かれた痕が痛々しい。
「アリューシャ、もう大丈夫だから。安心して」
「ふええん、アルバさん〜」
 キリエやアメリアも駆け寄っててんでにアリューシャを慰める。ローランドが頭を抱えながらオリエンテーリングの終了を告げた。

 粗大ごみと化したタコをアンナの指示の元、生徒たちが(鈴は行方をくらました)片付けている間に、アルヴァートはようやく落ち着いたアリューシャを着替えさせるため宿に連れて行った。タコが片付けられると、今度はキャンプファイヤーの準備だ。とんだハプニングで締めくくられたオリエンテーリングだったが、ローランドが気を取り直して道具を運ぶための指示を出しに行こうとしたときだった。アルトゥールがその腕をぐいっと引っ張った。
「アルトゥール?キャンプファイアーの準備を始めないと。どこに連れて行く気だい」
「準備はみんなに任せて、先生はちょっとこちらに来てください。そんなにお時間は取らせませんから。朝言ったこと、忘れちゃったんですか。キリエが待ってますよ」
「あ」
 忘れようとしていたことを思い出させられて、ローランドが硬直した。見ればアメリアがキリエを連れてくるところだった。キリエは覚悟を決めているのだろう。いつになく真剣な表情だった。困惑しているローランドをアルトゥールがぐいぐいと引っ張る。そして人気のない岩場まで来ると手を離し、その背中を軽く叩いた。アメリアも励ますようにキリエの背中を押した。
「皆がこちらに来ないよう見張ってますからごゆっくり」
「キリエ、頑張ってねぇ」
 そして2人きりになると、キリエがローランドの腕に手をかけてきた。ローランドが困ったように、けれど忠告を守ってまっすぐにキリエの視線を受け止めた。ローランドのその態度にキリエは花がほころぶように笑うと、はっきりした声で言った。
「あたしね、お兄ちゃんのことが大好きだよ」
 この旅行ですっかり印象が変わったように見えるキリエは、確かにローランドが思うよりはるかに大人びていた。しかしそれでも、ローランドには女性として見ることはできなかった。いとしさはある。失いたくない気持ちもある。確かに女の子なんだなとも気付かされもした。その上で、兄妹という絆を捨て去ることがローランドには出来なかった。
「僕もキリエが大好きだよ……大切な妹だ。なにがあっても、その絆はなくしたくない」
 ローランドの台詞に、キリエが目を見張った。失いたくない家族としての絆。それはキリエの気持ちとぴったり一致した。
「ああ、良かった……。お兄ちゃんが同じ思いでいてくれて」
「え?」
 ちょっと拍子抜けしたようなローランドに、キリエがそっと寄り添った。
「あたしがあんまりお兄ちゃんの周りの人たちにやきもち焼くから、みんなに変な誤解させちゃったみたい。あたしもね、『兄』としてお兄ちゃんが好きだよ。血が繋がっていなくても、あたしたちが兄妹だってことは変わらないよね。15年間紡いできたこの絆、なくさなくていいんだよね」
「キリエ……。それでいいのかい」
「恋が悪いとは思わないけど、あたしはお兄ちゃんにはこれからもお兄ちゃんでいてもらいたいよ。だって、家族はどんなに離れても家族だもの。それって、切り離せない強い絆でしょ。あたしもそれを失いたくない。大切にしたい……の」
 ぽろっとキリエの瞳から涙がこぼれた。それは安堵の涙だったが、驚いたキリエが慌てふためいてしまった。
「あ、あれ?何で涙なんか……お兄ちゃんと同じ思いでいられて嬉しかったのに」
 うつむいて目をごしごしこすっていると、ローランドがキリエを抱きしめてきた。そしてキリエが落ち着くまで黙って頭を撫でてくれた。しばらくしてキリエがほっと肩の力を抜いた。そしてローランドにぎゅっと抱きついた。
「あのね、お兄ちゃん」
「ん?なんだい」
「あたしのお兄ちゃんになってくれてありがとう。これからもずっとお兄ちゃんでいてね。もうお兄ちゃんの一番の存在でいたいなんて思わないから、お兄ちゃんじゃなくなることだけはしないでね」
「キリエも……妹になってくれてありがとう。頼りない兄だけど、願わくばこれからもこうやって甘えておくれ」
 キリエがぱっと顔を上げて微笑んだ。
「頼りなくなんてない。お兄ちゃんはあたしが支えだったって言ったでしょ。あたしにとってもお兄ちゃんは支えとなる人だよ。大好き。本当に、本当に、あたしにとっては最高のお兄ちゃんだよ」
「そうか。お前も最高の妹だよ」
 どちらからともなく笑い声がもれてくる。2人はそうやってしばらく互いの温もりを分かち合っていた。

                    ○

 グラハム・アスティレイドは久しぶりの休日を海で楽しんでいた。生まれ育った環境は決して裕福ではなかったのだが、最近所属するようになった秘密結社のおかげで収入が格段に増え、仕事が忙しくなった代わりにこうして休日をグラハムなりに優雅に過ごせるようになったのだ。
「俺がこんなのんびりした時間を過ごすようになるとはな。結社を紹介してくれたテネシーには感謝だぜ」
 幼い頃からいわゆる裏稼業に身を落としていたグラハムは、昼間はなにやらのどかに騒がしい旅行者たちを避け遠泳などしていた。闇の世界などとはおよそ縁のなさそうなのんきな集団は、グラハムの苦手とするところだったからだ。その中に見知った顔がいたような気もしたが、気のせいだと簡単に片付けていた。日が暮れると、ようやく静かになったであろう浜辺を散策しようと足を運んだ。
 浜辺ではキャンプファイアーの炎が赤々と燃え上がり、周りに用意されたバーベキューセットではオリエンテーリングで得た海の幸が美味しそうに焼けていた。
 宿に戻ったアルヴァートとアリューシャもやってきて、人の輪に溶け込んでいた。アリューシャは何とか落ち着いたものの、怒り収まらぬアルヴァートは、不機嫌な顔でぶつぶつ言いながら林で収穫してきた山菜を熱した油の中にどぼどぼ放り込んでいた。
「この野草はてんぷらにすると美味しい……このきのこは油で揚げると美味しい……この魚はフライにすると……」
「あの……アルバさん?それは揚げるより焼いたほうがきっと美味しいですわよ?」
 びちびちと尾をはねさせている魚まで無雑作に油の中に放り込もうとしたので、アリューシャが思わず止めてしまった。そもそも獲ってきた山菜やキノコが安全なものであるのかいささか怪しいところもあったのでそう問いかけると、ぶすーっとした声で返事された。
「あのマッドサイエンティストに毒性チェッカーを作ってもらっていたからな。食べられるものだというのはわかっているよ。ほら、食べてごらんよ。絶対に美味しいから」
 勧められたキノコは一見普通のキノコに見えた。からっと揚がった状態はほかほかで、確かに美味しそうだった。アリューシャが思い切って口にすると、口の中になんともいえない香気が広がって、まだどこかダメージを負っていた精神が高揚して来るのを感じた。
「ね?美味しいだろ?」
「……てめえも食いやがれ」
 ボソッとした言葉にアルヴァートが首をかしげる。アリューシャは熱さをものともせずかたわらの皿に積みあがっていたてんぷらを掴むと、無理やりアルヴァートに食べさせた。口移しで。
 勢いに押されてアルヴァートがアリューシャごと後ろにひっくり返る。アリューシャはそれでも口を離そうとはしなかった。大胆なディープキスに周囲から歓声が上がる。普段はどちらかというと控えめで純情なアリューシャの思いがけない行動に目を白黒させていたアルヴァートは、またがったままの状態で口を離したアリューシャの舌がぺろりと己の唇を舐めるのを見て、「美しい……」と思った瞬間、笑いの発作に襲われた。
 料理をしていたときは近づくのも恐かったくらいのアルヴァートがいきなりげらげらと笑い出したので、今度は周囲もさすがにドン引きしてしまった。が、笑っているアルヴァートはそれどころではなかった。笑いたくて笑っているのではなく、心のどこかは冷静なのに笑い声だけが止まらないのだ。
『し、しまった!これはよもやワライダケなんじゃ……じゃあアリューシャが食べたのも何らかの作用があるキノコなのか!?』
 でなくてはこの大胆な行動は説明がつかない。女王様的な態度から一転して無邪気な笑顔を浮かべながら皿を持ち上げ、なおも食べ物を勧めてくるアリューシャ。笑いが止まらないアルヴァートは、笑いすぎてひきつれそうな腹を抱えながらなんと下半身を起こすと、笑いの合間に必死にアリューシャに呼びかけた。
「あははは、アリューシャ、あっははは、大丈夫かい、わっはっは、くそういい加減に、ぐふふふ、止まりやがれ、うわっはっはっ」
「はい、あーん♪」
「ちょっと、あはは、待ってアリューシャ、わはは、気を確かに」
「いやぁん、食べてよぅ」
 すねた顔で軽くキスを送ると、アリューシャは大口開けているアルヴァートに無理やり料理を押し込んだ。どうやらそれは解毒作用のある野菜だったようだ。ようやく発作がおさまると、アリューシャにも効くだろうかと慌ててそのてんぷらを探した。が、どれだかわからない。迷っているアルヴァートの首に手を回してアリューシャは機嫌よさそうになつき始めた。
『こ、この体勢は嬉しい、嬉しいけれど、人目にさらすのはちょっと……』
 まだアルヴァートにまたがったままなので、スカートの裾が乱れて白い足が無防備にさらけ出されている。ちょっと風でも吹けば下着まで見えてしまいそうだ。実際命知らずの生徒が写メを撮りはじめていた。
「ええい、ままよ!」
 とりあえず自分が食べたっぽいてんぷらを掴んで食べさせようとする。アリューシャは素直に口を開けてそれをごっくんと飲み込んだ。
 どうやらビンゴだったようだ。とろんと潤んでいた瞳に正気の輝きが戻ってくる。アルヴァートがほっとしていると、アリューシャがずざっととびずさった。どうやら己の行動は覚えているらしい。真っ赤になってうろたえている。アルヴァートが優しく笑いながらその体を抱きしめた。アリューシャは恥ずかしさのあまりかちんこちんに固まっていた。落ち込んでしまったらしい様子に、笑みを浮かべたままアルヴァートが宣言した。
「オリエンテーリングといい毒性チェッカーといい、アリューシャを苦しめた報いは必ずあのマッドサイエンティストに与えてやるから、そんなに落ち込まないで」
 優しい声のそこに潜む氷のような怒りに、アリューシャがさすがに鈴の身が心配になって恐る恐る顔を上げて笑って見せた。
「ありがとうございます。武神先生も悪気があってしたことではないのですから、そんなに怒らないでくださいませ。それより料理は終わったのでしょう。みんなが踊れるように演奏してくださいませ。わたしも歌いますから。さあ、みなさんも集まってくださいな」
 アリューシャが立ち上がりセイレーンの竪琴を奏でながら歌いだす。癒しの効果がある歌声はアルヴァートの怒りも鎮めてくれて、アルヴァートも笛で魔曲を演奏し始めた。
「わぁ、精霊が踊っているよぉ、アルトゥール」
 アメリアがはしゃいだ声でアルトゥールを見上げた。指差した先では炎の中で楽しげに踊っている精霊の姿があった。
「あ、いたいた。アメリア」
 と、キリエが後ろからぽすんと抱き付いてきた。アメリアが驚いて振り返ると、キリエが嬉しそうに笑って立っていた。
「キリエ!……首尾はどうだった?」
 問われてキリエがVサインを出す。アメリアとアルトゥールはぱぁっと顔を明るくしたが、次の言葉を聞いてきょとんとしてしまった。
「ちゃんと兄妹の絆を確かめてきたよ!」
「え?」
「ええと、それって?」
 不思議そうな2人にキリエがすっきりした顔でおおきく伸びをしながら答えた。
「あたしもお兄ちゃんも同じ思いだったの。なによりも家族としての絆が大切だって。あたし、お兄ちゃんのその言葉がとても嬉しかった。それで自分の気持ちにも自信がついた。この気持ちは間違ってないって。恋じゃない。妹としてお兄ちゃんが大好きなんだって、そう思っていていいんだって。いろいろと心配かけてごめんね?」
「それがあなたの答えなのね」
 いつの間にか側にやってきたアリスがキリエの肩に手を置いた。キリエはくすぐったそうに笑いながらアリスを促した。
「はい。やきもちは……やっぱり焼いちゃうかもしれないけど、先生がお兄ちゃんを好きなら頑張って応援します。告白の大切さがわかった気がするんです。だから先生も、思い切って告白してみませんか」
 アリスがそれを聞いて苦笑した。
「わたしは別にいいのよ。そもそも誤解を招くような行動は、キリエ、あなたの気持ちをはっきりさせたかったからなんだもの。そりゃ、別にローランド先生を嫌いなわけじゃないけれど、恋愛感情となるとねぇ。そこまで踏み込むつもりはないから。だから応援するならあちらにしておきなさい」
「あちら?」
 アリスがくいっとあごで示した先では、ローランドの側で顔を赤らめながらあれこれ手伝っているマニフィカの姿があった。これまでキリエが散々やきもちを焼いていた相手だ。微笑はまさしく恋する乙女のものだ。対するローランドはそれに気付いているのかいないのかわからなかったが、まんざらではなさそうなことだけは見て取れた。
「あの様子なら……応援するまでもないかな。お兄ちゃんが気付くかは謎だけど」
「ま、少なくとも逃げ出したりはしないわよ。本人にそう言ってあるし」
「おんや、イブ先生も言ったんですか」
 アスリェイも会話に加わってきた。
「イヴ先生もって?」
「よしよし、キリエちゃんはすっきりしたみたいだねぇ。いやなに、みんながオリエンテーリングをやっているときに、ローランド先生に大切なのは相手の気持ちを正面から受け止めて、返してあげることだって話してたんだよぉ。モテ期が来ているみたいだったからね」
 わしわしといつものようにキリエの頭を撫でながらアスリェイが明るく言った。キリエが楽しげに遠くのローランドたちを見つめた。
「それであたしが告白したときも、お兄ちゃんまっすぐにあたしを見ていたんだ。だからお兄ちゃんの気持ちに嘘がないって信じられた。それなら大丈夫だね。頑張れ、マニフィカ」
 花火柄の浴衣でしゃれこんだルシエラ・アクティアが花火の束を持ってやってきた。
「まったくひやひやさせられたわよ。ずっとレイスに様子を探らせていたのだけど。もう大丈夫ね」
「えーっ。見てたんですか!?」
 さすがにキリエが顔を赤くする。ルシエラは軽く微笑んだ。
「これでも心配していたのよ。旅行中は離れていられても、日常に戻ったらまたずっと顔をあわせていなきゃならないじゃない。不安定なまま戻ったら、もっと辛い思いをするもの。あなたみたいな子が元気がないのは辛いわ。元に戻ってくれてよかった」
 心の底からそう思っているらしい言葉に、キリエが赤い顔のまま嬉しそうにうなずいた。ルシエラは手早く花火を配りながらキリエらしい笑顔に満足そうにしていた。
 いつの間にか集団の中に戻っていた鈴を見かけてアルヴァートが顔をしかめたが、アリューシャが歌いながら寄り添ってきたので大人しく演奏を続けた。鈴はホウユウ・シャモンになにやら大きなへらを渡していた。
「鉄板は向こうにセットしてあるぞ」
「いやあ、ありがとう。材料はそろっているし、いっちょやるか」
 鉄製の巨大へらを軽々と振り回しながらホウユウが歩いていく。鈴は今度はグラント・ウィンクラックのほうに向かった。
「ほら、頼まれていた無限徳利と無限タッパーだ。まったく、どいつもこいつも俺を何でも屋と勘違いしてないか」
「そんなことはないぞ。それに先生だって嬉しそうじゃないか」
「ふむ、そうか?」
 わかっていて空とぼける鈴に手を振ってグラントが去っていく。ホウユウの声が浜辺に響いてきた。
「さあ、巨大お好み焼きに挑戦だ!見事出来上がったら拍手してくれ。さあさあ、お立会いお立会い〜っと!」
 熱せられた鉄板にじゅわーっと粉をといたものを広げていく。直径10mはあるだろうか。その上に適度な大きさに切ったタコや皮をむいた海老、ざくぎりのきゃべつを一見無雑作にその実ひっくり返しやすい形を計算した配置で並べていく。もうもうと湯気が上がる中、ぽぽぽんと手際よく卵をさらに乗せていく。ホウユウが手伝いをしていた生徒に怒鳴った。
「次!そば!」
「はいっ」
 なにしろ直径10mのお好み焼きだ。具材の量も半端ではない。だがホウユウは重たげに渡されたボウルからゆでた中華麺を危なげのない手つきでばらまいていった。
 頃合を計って巨大へらを種の下に滑り込ませる。周囲がごくりと固唾を飲んで見守る中、ホウユウは気合一閃、くるりと器用にお好み焼きを宙に舞わせて見事にひっくり返した。おおーっと周囲から歓声が沸く。ふうとホウユウが額の汗を腕でぬぐった。
「もうじき焼きあがるぞー。みんな皿を持って来い」
 火加減を確認しながら周りの面々に叫ぶ。わいわい騒ぎながら皆が紙皿を持ってやってきた。適度な大きさに切り分けながらホウユウはその皿にお好み焼きを取り分けてやった。
 美味しい料理に歌と踊りで盛り上がったところに、ルシエラが配った花火を適当なグループに分かれて楽しみ始める。キリエは少し迷ったものの、なにやら決意を秘めた目でローランドを見つめているマニフィカを見て、あっさりローランドに背を向けてアメリアたちと花火を楽しみ始めた。迷いが吹っ切れたおかげで心の底から明るく笑っているキリエに、ルシエラも目を細めた。そこへローランドの声が響き渡った。
「打ち上げ花火をやるぞー!」
 さすがに特大のとはいかなかったが、学校の研究室で開発された安全性の高い打ち上げ花火に火がつけられる。ぽーんと小気味良い音がして夜空にカラフルな華が咲いた。
「わー、きれいですわね。これが花火というものですか」
「マニフィカは花火を見るのは初めてなのかい」
 火を使うと聞いて消火役としてローランドの側で待機していたマニフィカは、生まれてはじめて見る花火に興奮していた。はしゃいでいるマニフィカに微笑みかけながら、ローランドが話しかけた。マニフィカはぶんぶんと首を振りながら瞳をきらきらさせて笑顔を返した。
「ええ、そうなんですの。わたくしの故郷は世界のほとんどが海でしたから、火がこんなに美しく輝くなんて知りませんでしたわ。皆さんが持ってらっしゃるのも花火なんですか?あれはあれで綺麗ですけれど、この打ち上げ花火はまた格別ですわね」
「学園の研究グループが臨海学校用に開発してくれた奴だからね。街でやる花火大会などではもっと大きな花火が上がるんだよ」
「まあ、もっと大きな?それは素敵ですわね」
 できたらローランドとそれを見に行きたいという言葉は、周囲に人がいたためかろうじて飲み込んだマニフィカだった。ローランドは次々に花火を打ち上げていき、空にはたくさんの花が咲いた。手持ち花火をやっていた面々もしばらくそれに見入っていた。
 ちょうどそのころ、やはり花火を珍しく思っていたグラハムが浜辺に近づいていった。そして鈴にもらった徳利とタッパーに品物をつめ終えたグラントがリリアに誘いをかけていた。
「花火見物にうってつけの島があるんだ。そこで酒盛りしないか。にぎやかなのもいいが、どうせならお前と2人っきりで夜を過ごしたいんだ」
「ええ、結構ですわよ」
 リリアもすんなりうなずいてグラントのエアバイクの後ろにまたがった。さっそく飛び上がろうとしたグラントだったが、テネシーの鋭い声に呼び止められてしまった。
「そこ!なに、勝手な行動をとっていらっしゃるのですか」
「っと、さすが鬼の風紀委員。めざといな」
 呟きながら、こんな絶好のチャンスを逃す手はないと強引に出発しようとしてテネシーの魔眼に体の自由を奪われてしまった。
「団体行動の輪を乱すなど言語道断。大人しくしていらっしゃい」
「くっ」
 いかにてだれのグラントといえど、テネシーの魔眼をまともにくらってはどうにもならない。なんとか自由を取り戻そうとするが、麻痺した体は意のままにはならなかった。そのままお説教モードにテネシーが入ろうとするのをルシエラが遠くで笑いながら見ていたが、その視線が近づいてくるグラハムを捕らえて面白そうな色を帯び始めた。テネシーの方はグラントたちに意識が集中していてグラハムが近寄ってくることに気がついていなかった。
「テネシー?やっぱりテネシーじゃないか。しばらく姿を見ないと思ったら、こんなところにいたのか」
「えっ?あ、あら。グラハム様……」
 冷たい目つきでグラントに説教していたテネシーは、突然かけられた声に珍しく動揺を露にした。そんなテネシーの様子には気づかないグラハムが、なにをやっているのか素朴に尋ねてきた。テネシーはしどろもどろに事情を説明した。
「学校?へえ、そりゃまた面白いところにいるな。で、こいつらが無断外出しようとしていたんで叱っていたのか。だったらちゃんと許可を取ればいいんじゃないのか?学校だったら先生がいるんだろう」
 グラハムが優しくテネシーの頭を撫でる。テネシーに対してやけに親密な行動をする大男にグラントはぎょっとしたが、もっと驚いたことにそれでテネシーが頬を赤らめたのだ。
「しかし……それでは規律が……」
 赤くなりながらももごもごとテネシーが反論する。グラハムがおおらかに笑った。
「そういう融通の聞かないところも好きだがな。ま、外出したところで誰かに迷惑かけるような奴らじゃないんだろ。だったらいいんじゃないのか」
「う……仕方ありませんわね」
 ちょうどそこへ騒ぎを聞きつけたローランドがやってきた。テネシーはしぶしぶローランドに報告して許可を求めた。グラントたちが婚約していることを知っているローランドは、門限までに宿に戻ることを約束させて解放してやった。珍しいテネシーの姿に驚きながらも、公に出歩きを許可されてグラントはさっさと飛び立っていった。
「彼は?」
 知り合いらしい様子を悟ってローランドが問いかけてくる。グラハムの手はテネシーの頭に置かれたままだった。テネシーはその感触にもじもじしていた。ルシエラが機転を利かせて口を挟んできた。
「わたしたちの知り合いなのよ。悪い奴じゃないから安心して」
 さすがに裏稼業の知り合いだとは言えなかったが、もじもじしながらもテネシーが大人しくしているのでローランドはうなずいて離れていった。ルシエラもぱちんとウインクして離れていく。グラハムは2人が遠ざかってから、テネシーに問いかけた。
「その門限って奴までまだ時間があるのか?それならせっかくだから俺たちも散歩しないか」
「付き合って差し上げてもよろしいですわよ」
 見張りをレイスとルシエラに任せて、再び上がり始めた花火の音を背に聞きながらテネシーがグラハムの隣を歩く。と、急にグラハムがテネシーの肩を抱き寄せてきた。テネシーがどきっとして目線を上げた。夜のせいかグラハムは愛用のサングラスを今はしていなかった。テネシーに絶大な信頼を寄せている素直な青い色の瞳がまっすぐにテネシーの視線とぶつかり、柔らかな雰囲気がテネシーを包み込んだ。
「会いたかったぜ」
 次の言葉は予想通り素直なものだった。テネシーはただ黙って、言葉の代わりに自分も手を回し頭をグラハムの胸に押し付けた。
 リリアを後ろに乗せたグラントは、目的地である小島に到着するとのんびり花火見物をしながら酒を酌み交わし始めた。用意したのはグラントの故郷の酒と、ホウユウに教えてもらったリリアが好む味の酒だった。リリアの健啖ぶりは相変わらずで、グラントがほろ酔い加減になっても、涼しい顔でなおも杯を重ねていた。門限までには帰ることを約束させられていたので、グラントは適当なところで飲むのをやめ、正座しているリリアの足に頭を乗せた。リリアは丈の短い浴衣を着ていたので、素肌の太ももにじかに頭が乗る形になった。たわわな胸は今にもはだけそうだ。無防備なその姿に見とれながら、リリアがつまんで口に運んでくれた菓子を食べる。そして空っぽのコップをぶらぶらさせながら懐かしむような表情になった。
「いろんな世界を回って、いろんな酒を飲んできたが……やっぱり故郷の酒が一番馴染むな。そんな歳をとったつもりもないんだが」
「わかります。私が飲んでいるこのお酒は、私の故郷のものでしょう?やはり舌が馴染んでいるのでしょうね。この世界や母の故郷の世界の味が嫌いなわけではありませんが、一番美味しく感じられますもの」
「気に入ってくれたんなら良かった。わざわざホウユウに聞いた甲斐があったぜ」
「お父様なら私の好みを熟知していてもおかしくありませんものね」
 リリアがはんなり頬をピンクに染めていたのは決して酒のせいではなかった。愛しい男と2人っきりという状況に胸が高鳴っていたのだ。そしてどきどきしていたのはグラントも同じだった。
「グラントは私の知らない世界をたくさん知っていらっしゃるのですね」
「ああ。そしていろんな奴に出会った。心を持った機械、精霊、革命家……良い奴もいれば悪い奴もいて、どうしようもない奴も見所のある奴もいた。けどな、リリア」
「はい」
「今まで旅してきた中での一番の収穫は、お前と出会えたことだ。……愛している」
「あっ」
 ぐいっと腕を引っ張られてリリアが杯を取り落とす。グラントはそのままリリアを押し倒して唇を重ねた。柔らかくてしなやかな肢体の感触と酔いがグラントを大胆にさせていた。リリアが大人しくキスを受け入れているのを了解の証だと思って、すらりと伸びた足に片手を這わせる。もう片方の手はリリアの胸をもみしだこうとして……。
「ぐえっ」
 足を這っていた手が閉ざされた太ももを開かせようと試みた瞬間だった。どかっとリリアの膝蹴りがグラントのみぞおちに命中した。手加減なしの攻撃にさしものグラントが身を二つに折って横に転がった。グラントの手の中から抜け出したリリアは、赤い顔で生真面目に言った。
「婚前交渉はいけません。嫁に行くときは清い体でと、両親にきつく言われておりますので」
「りょう……かい……。さすがにいい攻撃だったぜ」
 さすがのグラントも、リリア相手に強引に事に及べなかった。能力的にもあれだが、無理強いして嫌われることのほうが怖かったのだ。 立ち直ると、リリアは身だしなみを整えているところだった。キスは許容範囲だと気付いて、砂にまみれた髪にそっと口付けた。やはり多少怯えがあったのだろう。軽い感触にリリアがぴくりと体を固くした。それすら愛しくて、グラントはそっと耳元でささやいてやった。
「心配するな。嫌がることはしないと誓う」
「はい……その、申し訳ありません」
 小さな声に、グラントが笑いながらリリアを立ち上がらせた。
 浜辺でのキャンプファイアーも終わりに近づいていた。料理があらかた片付き、花火も使い尽くされた。組み上げられて赤々と燃えていた薪も炎が小さくなって、アンナが片づけを指示し始めた。マニフィカが火の後始末をし、手分けして手際よくいろいろと片付けられていった。そしてすっかり綺麗になると、ローランドが宿に戻るよう告げた。テネシーやグラントたちも戻ってきて、みんなぞろぞろと連れ立って歩き始めた。同じ宿に止まっていることが判明したグラハムもちゃっかり仲間に加わって、テネシーと手をつないで歩いていた。珍しい光景に周囲から好奇の目が寄せられ、テネシーにじろりとにらまれたが、手をつないだままだったのでその効果はいつもほどではなかった。
 門限にはまだ少し時間があったので、宿に戻ってからも買い物に出かけたりするものが数名いた。マニフィカはロビーでくつろいでいたローランドに思い切って声をかけた。
「あのっ。よろしかったら散歩に出かけませんか。星空が綺麗でしたので、星座のことなど教えていただきたいのですけれど」
 ローランドは星座のことと聞いて笑いながら申し出を承諾した。並んで宿を出て行く2人を、キリエたちがこっそり影から応援していたのには気づかなかった。
 再び浜辺にやってきたマニフィカは、空を指差しながらあれこれローランドに質問していた。ローランドはその質問に丁寧に答えていた。しばらくそんなやり取りが続いたが、緊張が高まったマニフィカの言葉が途切れがちになり、どちらからともなく黙り込んだ。だがやがて沈黙に耐えられなくなったマニフィカが口を開いた。
「わたくしの故郷はほとんどが海だと申し上げましたでしょう。生活の場も海の中で、外界に出ることは禁じられておりましたの。けれどわたくしは良くこっそり海面に出てこうやって星空を眺めておりましたのよ。素敵ですものね。ロマンティックで」
「ロマンティックか。マニフィカもやっぱり女の子だね」
 天文にロマンを感じているのはローランドもであったが、マニフィカの言い方はやはり女性らしく聞こえて、ローランドを微笑ませた。その笑みをしばらくぽーっと眺めていたマニフィカは、意を決してローランドの手を握り締めた。突然のことにローランドが驚いた顔になる。マニフィカはすうと息を吸うと、言葉を選ぶようにはっきりと言った。
「エクセル先生……いえ、ローランド。あなたは気弱そうに見えますけれど、本当は芯の強い素晴らしい方ですわ。尊敬しております……好きです。心からお慕い申し上げております」
「マニフィカ……」
 いかに鈍いローランドでも、こうはっきり言われたらその気持ちを疑うことは出来ない。これまでのローランドだったら、いややっぱり気のせいだと片付けていたかもしれないが、今日一日でかなりな精神的成長を遂げていたので、キリエにそうしたようにマニフィカにもまっすぐに向かい合いことにした。アスリェイの言葉が胸を掠める。大切なのは無理に好きになることではなく、誠実にまっすぐに受け止めて返してやること。真剣な目をしたマニフィカはさらに言葉をつむいだ。
「ずっと、生徒と教師の恋愛はご法度だと思っておりました。けれど恋する気持ちは立場などでは押さえられません。だから自分に正直にならせていただきました。好きなものは好きなのですから。キリエさんやイヴ先生ほど積極的にはなれませんが……せめて気持ちだけでもお伝えしたくて、ここにお誘い申し上げたのですわ」
「キリエやイヴ先生?」
 ローランドが首をかしげた。恋愛沙汰にうといローランドらしい反応にマニフィカがかすかに表情を緩めると、ロ−ランドはそのまましばらく悩んでいた。
「キリエとは家族としての絆を確かめ合ったばかりだし、イブ先生は……魅力的な女性なのは認めるけれど、なんていうかな、恋愛感情より、同志的な感じを受けるんだ。ちょっとわけありでね。同病相哀れむってのはあまり好きじゃないし、それはイヴ先生もじゃないかな、って気がするんだけど」
「では、わたくしのことは……?」
 マニフィカの問いに、ローランドの思考が止まった。立場は関係なく、信頼できる相手なのは確かだ。握り締められた手は暖かく、ローランドの心も穏やかにしていく。思えばいつもそうだったではなかっただろうか。恋と呼ぶには幼すぎる感情だが、あきらかに消え家やアリスに対する感情とは違うと感じていた。戸惑いはそれでもあったが、ローランドも自分に正直になることにした。
「正直言って自分でも君への思いがなんなのか良くわからないんだ。もしかしたらいつも誠実だった君に甘えているだけなのかもしれない。けれどこれだけは確かだ。キリエやイブ先生に対する思いとはまったく違う。告白されてわかったよ。恋と呼ぶには……淡すぎる気がするけれど」
 マニフィカの顔が輝くように明るくなった。
「トラウマにしばられてずっと苦しんでいらしたのが解放されたばかりですもの。気持ちの整理がつかなくて当然ですわ。わたくしも気付いてしまったこの思いに正直になりたかっただけ。お付き合いとかそういったことを考えるのはこれからでも遅くはないのではありません?少なくとも期待は……してもよろしいのでしょう。重荷でなければですけれども」
「うん、そうだね。少なくとも重荷だとは思わないよ」
 ローランドの返事にマニフィカがほっと肩から力を抜いた。安堵した顔が可愛く見えて、ローランドがどぎまぎしてしまった。
 そこへいきなり青い髪の女性が海の中から現れて、早口でマニフィカに告げた。
「マニフィカ、急いでその方と一緒に海辺から離れてくださいませ」
「ウネお姉さま!?そんなに慌てていかがなされたのですの」
「沖合いで時空嵐が発生しておりますわ。あれは私の力では干渉できないものです。規模はたいしたことはなさそうですが、小規模の津波がこの浜辺を襲う可能性がございます。お逃げください」
 人魚姫のマニフィカが津波に襲われたところでたいした問題ではないが、ローランドを放っておくわけにはいかない。マニフィカは急いで立ち上がると、青い顔をしているローランドをうながした。ローランドは恐怖をにじませた声で水の精霊であるウネに問いかけた。
「時空嵐と言ったね。船とか、そういった被害は出ていないかい」
 ウネはきっぱりとローランドの心配を断ち切った。
「大丈夫ですわ。その辺のことは確認しております。この浜辺に来る津波も大したことはございませんでしょう。異世界からの漂着物が多数流れ込んでいるようですから、いささか海岸が汚れてしまうかもしれませんが」
「そう、良かった……漂着物については、明日の午前中に海岸清掃をする予定だからなんとかなるだろう」
「ローランド、急ぎましょう。波が高くなってきたようですわ」
 海の状況は誰よりも良くわかるマニフィカかが急きたてる。ローランドは一瞬ちらっと海を見てから、マニフィカと一緒に宿に向かって走り始めた。  その晩は少し強い潮風が吹き荒れて、波の音が海岸線に轟いた。が、長くは続かず海はいつもの状態を取り戻した。

高村マスターシナリオトップP
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