「心いろいろ〜絆つむいで〜」

−第1回−

ゲームマスター:高村志生子

 アカデミアは世界規模の学園だけあって各種の設備が充実している。プール1つをとっても、競技用から練習用、果てはバカンスに使うようなちょっとこじゃれた装飾を施した個人施設といえるものまであるのだ。水泳部はもちろん練習用を使っていたから、個人施設的プールなどは使わないし、屋内プールは鍵をかけてしまえば他者が入ってくることはない。ひそかに練習するにはもってこいの場所だった。そんなプールの1つに武神鈴に呼び出されたローランドは、海より深いため息をついていた。学園でも妙な発明をすることで知られている鈴のことだ。呼び出した場所と水着着用厳守の伝言から、なんらかの装置を使ってローランドのかなづちを矯正しようという意図は見え見えだった。わかっていながら呼び出しに応じたのは、本人に何とかしたいという意志がわずかにでもあったのと、断ったら後が怖そうだという理由からだった。ただし、自分が泳げるようになる自信はローランドにはまったくなかった。「なぜ、泳げないのか」知っていたからだ。それでもとりあえず着替えてプールのふちからはなるべく離れた場所に座り込んで鈴がやってくるのを待っていた。
 とんとんとノックの音がする。鈴が来たと思い扉を開けたら、そこに立っていたのは予想と違ってルシエラ・アクティアだった。胸に可愛いリボンのアクセントがついた白いビキニの水着を着ており、泳ぐ目的なのは明らかだった。場所が場所なので個人的に楽しみに来たのかとも思い、ローランドが困った顔で口を開いた。
「あー、アクティア先生すみません。今日はこのプールは武神先生と使う予定になっているんですよ。申し訳ありませんが、別のプールを使っていただけますか」
 同じような設備は他にもある。特に問題はないはずだった。と、どこか不機嫌そうな顔をしていたルシエラが、わざとらしいほどの満面の笑みでローランドに言った。
「あら、いいんですよ。あなたを探していたんだから。中に入ってもいいかしら」
「え?私をですか?はあ、まあけっこうですが……どうぞ」
 ルシエラの足元にはサラン○ップを抱えたテオドール・レンツがくっついてきていた。招き入れられたルシエラにちょこまかとまとわりついて一緒に入ってくる。持ち物は謎だったが、深く考えずにテオドールのことも中に入れる。扉を閉めようとしたところで、今度はマニフィカ・ストラサローネに声をかけられた。
「あ、エクセル先生、こちらにいらっしゃったんですねぇ。探しましたよぉ」
「……探したって、何か用でも」
「ええ、ちょっとお伺いしたいことがございまして。入ってもよろしいですかぁ?」
「どうぞ」
 本当は観客の多い場所での練習は避けたかったのだが、同僚や生徒を邪険にするほどの度胸はローランドにはなかった。あきらめ顔でマニフィカを入れる。そして鈴が来るまでの間ならと条件をつけて、ルシエラやマニフィカを窓際の椅子に誘った。2人を座らせ、ローランドはわざとプールを背にして立つ。ルシエラがさっそく直球で問いかけてきた。
「ずばりお聞きしますけど、エクセル先生はなぜ泳げないんですの?」
「う、そ、それは……」
 言葉に詰まってローランドが目を泳がせる。泳げない理由についてある予想を立てていたマニフィカは、あまりに直球な質問に軽く眉をひそめた。しばらく黙りこくってから、ローランドがぽつりと呟いた。
「水が、怖いんですよ」
「それは理由があってのことですの?ディスったら、知っているくせになんにも話してくれないんですもの。仮にも私は探偵部の副顧問なのに、情報屋の筋は通さねばならないとか言っちゃって」
「あら、アクティア先生もディス先輩に聞いたんですかぁ?わたくしも、学内新聞の記事にするくらいだから裏づけは取っているはずだと思って、レイミー先輩や情報源であるディス先輩にお尋ねしてみたんですけれど、教えてはいただけなかったんですよねぇ」
 ディスが理由を知っているのは確かなことだったので、口を割らなかったことに安堵してローランドがほっと胸をなでおろす。安心したような表情に、マニフィカが付け加えた。
「そうそう、ただこうおっしゃっていましたわ。引率役になったのはエクセル先生にとっては好機だろうと。なんの、とはおっしゃいませんでしたが」
「泳げるようになるためにじゃないの?妹のほうは達者なのに、兄がかなづちじゃ威厳が保てないものねぇ。ここにいたってことは、泳ぐ練習をするためでしょ。キリエが特訓するって息巻いていたけれど、いないってことは、練習の様子を見られたくないのかしら」
 ルシエラの問いに、ローランドは複雑そうな顔になった。
「ここにいたのは武神先生に呼び出されたからですよ。目的は特訓でしょうけどね。練習の様子は、確かにキリエには正直あまり見られたくないかな。自分がどうなるか、大体想像つきますから。ま、威厳のほうはかなづちとばれた時点で地に落ちてるでしょうけど」
「それでしたら、練習にわたくしもお付き合いいたしますわ。わたくしは人魚の種族で、泳ぐことにかけては他者に追随を許しません。必ずやお役に立てると思います」
 人魚姫であるマニフィカにはかなづちという概念は今ひとつぴんとこないものであったが、先刻ローランドが発した台詞から、自分の予想が正しいと信じざるを得なかった。すなわち、水に対してなんらかのトラウマがあると。ならばその心の傷を癒せない限り、ローランドは泳げるようにはならないだろう。それどころか水に近づくことすらままならないはずだ。今プールに背を向けて立っているのも、水を見たくないからなのだろう。
『心の傷が原因では、難しい問題ですわね』
 マニフィカがかすかに顔を曇らせるかたわらで、ルシエラが嬉々とした顔でローランドに提案していた。
「見られたくないなら、あなたが秘密特訓している間、わたしがあなたに変装してキリエの練習に付き合うわ。それで少しは泳げるってところを見せたりするの。どうかしら?」
「変装?」
「ええ。ちょっと待っててくれるかしら」
 そしてルシエラは持って来た荷物を持って更衣室に姿を消した。しばらくして出てきた姿はローランドそっくりで、ローランドもマニフィカも驚いてしまった。
「演劇部の道具を使って変装しているんだが、できばえには自信があるぞ。どうだ?」
 口調も声音も変わっていて、ますますローランドが驚く。その驚きぶりに満足しながら、今度はルシエラが荷物の中からビデオカメラを取り出した。
「それからな、練習の様子を撮影してもいいかな?撮っておけばフォームのチェックなどにも役立つと思うんだが」
 自分が楽しむためという本当の目的は伏せて、もっともな理由をくっつける。ローランドは肩を落としながらも、きっぱりとした口調で断ってきた。
「お心遣いはありがたいんですけどね、どちらもやめてもらえませんか。嫌です。キリエをだますようなことは出来るだけしたくないし、ディスタス君が言うように今回のことは弱点克服のための好機ではあると思いますが、自分の反応がわかりきっていてそれを撮影されるなんてとんでもない」
 そこに断固とした意志を感じて、ルシエラが肩をすくめた。はらはらしながら見守っていたマニフィカが、わずかに笑みを浮かべた。
「でも泳げるようになるってそんなに大切なことなのかなー」
 のほほんとした声をかけてきたのはそれまで黙ってごそごそ動いていたテオドールだった。静かだったのでついうっかりその存在を忘れていたローランドたちは、テオドールの格好を見てぎょっとしてしまった。テオドールは持参のラップをびっしりと体に巻きつけていたのだ。
「そ、それは一体……」
 ローランドが恐る恐る聞くと、テオドールは小首をかしげながら表情の読めないつぶらな瞳でじっとローランドを見つめながら答えた。
「防水。ボク、水に濡れると膨張しちゃうんだ。だから」
「膨張ってどのくらい?」
「さあ?取り合えずそれで市民プールから追放処分にされたことがあるけど」
 プール一杯に詰まったクマ。想像して全員がげんなりしてしまった。その反応には頓着せずに、テオドールはてててっと走ってぽーんとプールに飛びこんだ。
「泳げなくてもボクは困らないんだけどねぇ。カリキュラムとして要求されているなら、やっぱり泳げるようにならないとね〜って、あ〜れ〜」
 ラップの防水はとりあえず完璧のようだったが、結果として体が小さく軽いままだったため、海を模した波のあるプールの波にぷかぷかと流されてしまった。浮いてはいるし、そもそも呼吸していないからおぼれているとはいいがたいが、状況的にはおぼれているようなものだろう。あちらこちらに翻弄されて、流されながらあまり緊張感のない声でテオドールは助けを求めていた。
「た〜す〜け〜て〜」
「仕方ありませんわね」
 マニフィカが上着を脱いで水に入る。下半身が魚に変わりすいーと泳いで波間に漂っているテオドールのところまでたどり着くと、そっと抱きかかえた。テオドールがのほほんとお礼を言う。それに軽く応えてローランドたちのところに戻っていった。
「おい、大丈夫か?」
「あ、ああ」
 そこでは真っ青な顔をしたローランドを、ローランドの姿のルシエラが介抱していた。まるで双子の兄弟を見ているような錯覚に陥り、マニフィカが頭に手をやりながらルシエラに元の姿に戻るように頼み込んだ。提案が拒絶されたこともあって、ルシエラは素直に立ち上がった。
「テオドールの様子を見て急に真っ青になってしまったんだ。まあ、少しすれば落ち着くだろう。着替えてくるから後は任せた」
「ええ、わかりましたわ。大丈夫ですか、エクセル先生」
「……テオドールは?」
「ボクは平気。波に揺られるのも面白いかもねえ。自力で戻れないのが難点だけど」
「そうか」
 テオドールの平然とした返事にうつむいたままローランドが小さくため息をついた。水から上がって再び二本足歩行に戻ったマニフィカが隣りに座り込んだ。ローランドはかすかに肩を震わせていた。声をかけあぐねてマニフィカはしばらく黙ったままローランドの様子をうかがっていた。その間に鈴がやってきた。アルトゥール・ロッシュも一緒だった。アルトゥールがプールの内部をきょろきょろと見渡してキリエがいないことを確認する。鈴はなにやら箱を抱えて明るくローランドに声をかけた。
「やあ、待たせてすまない。ちょっと生徒からの頼まれごとを片付けていたのでな。しかし逃げ出さずに良くやってきた。偉いぞ。その調子でかなづちを克服するのだ。準備は万端だ!まずはこれを吸いたまえ」
 調子よく言ってずいっと小型ボンベを差し出す。反射的に受け取ってしまったローランドが、疑わしげな顔でそれを見つめる。鈴が自信満々に説明を始めた。
「人体は肺と言う空気袋を持っている構造上、必ず水に浮かぶように出来ているのだ。にもかかわらず泳げないというのは、水に対して何らかの恐怖心を抱くか、泳げないという思い込みが邪魔して体に無駄な力が入っているせいだろう。ならばそれを取り除けば泳げるようになる。ただいきなり力を抜けと言っても難しいだろうから、まずは体を浮きやすくするために肺にヘリウムガスを入れるのだ。あれは空気より軽いからな。ほら、つべこべ言わずに吸え」
 そしてためらっていたローランドの口を強引に開けさせると、ぷしゅーとガスをその中に噴射させた。有無を言わさぬ行動に目を白黒させていたローランドは、無理やり吸わされたガスにむせていたが、それがおさまると涙目で鈴をにらみつけた。
【ちょっと、強引過ぎやしませんか……あ?あーっ。あー?】
 歳相応の男の声が、珍妙なアヒル声になっている。マニフィカと着替えて戻ってきたルシエラがとっさにそっぽを向いて笑い声を押し殺した。ローランドはしばらく【あー、あー】と自分の声を試して、複雑そうに黙り込んだ。鈴がにやりと笑って箱の中から銀色に輝くばねのギプスを取り出した。
「アルトゥール、ローランドを取り押さえるんだ」
「え?はい」
 鈴の意図を察してアルトゥールが背後からがしっとローランドを取り押さえた。
【な、なんだい】
「次はこれをつけてもらおう。俺が開発した世界水泳養成ギプスだ。さっきも言ったが、泳げないのは体に無駄な力が入ってしまうせいだ。このギプスはその力を感知すると、全身に激痛を与えながら力を抜くように体勢を戻そうとするぞ」
【えええっ!ちょ、ちょっと待……わーっ】
 問答無用でギプスを装着される。金属の光沢を放つそれは、見た目と違ってとても軽く、つけても違和感をまったく感じさせなかった。鈴の手伝いをしたアルトゥールが、優しい笑みを浮かべながらローランドの肩を叩いた。
「泳ぎ方のお手伝いは僕がしますよ」
【あー……いや、その】
 じりじりと逃げ腰になるローランドに今度はオキシタブを飲ませ、鈴がプールに向かってどんと突き飛ばした。
「そ〜れ、逝ってこ〜い」
【う、うわあああああああああああああああああああああああ】
「先生、今行きますから」
 アルトゥールが水の中でじたばたと暴れているローランドに近づいていった。ギプスはどうやら救命胴衣的な役割も果たしているらしく、ローランドの体が沈むことはなかったが、パニックに陥っているローランドは暴れるのを止めようとはしなかった。その力がギプスに伝わりつぼを刺激されて激痛がローランドの全身に広がる。その痛みのせいでさらに暴れようとするのだが、ギプスがその動きを制限して体をまっすぐにしようと反発していた。
「いけませんわ!」
 力と力の反発とそれに伴う激痛に、ローランドが失神してしまった。うつぶせにぷかーと水に浮かぶ。そのままではおぼれてしまうと気づいたマニフィカが慌てて飛び込んでローランドを仰向けにさせた。側によっていったアルトゥールも驚いて苦悶の表情で気を失っているローランドの顔を覗き込んだ。抵抗がなくなったことで体はぷかりと浮かんでいたが、このままでは仕方がない。と、苦しそうな顔をますますゆがめてローランドが再び暴れ始めた。その動きでギプスがまたローランドの体に激痛を走らせる。ショックではっとローランドの意識が戻ったが、かなり混乱しているらしい。蒼白になりながら痛みも感じてないかのように手足を動かせる。顔は恐怖に引きつっていた。マニフィカがアルトゥールに言った。
「いくら沈まないと言ってもこの状態は危険すぎますわ。とにかく引き上げましょう」
「そうだね」
 暴れる力は次第に弱弱しいものになっていっていた。ここぞとばかりにギプスが体勢を整えようとする。動きが鈍ったところで2人がかりでローランドをプールサイドに引き上げた。そのときにはローランドはまた気絶してしまっていた。表情は恐怖に固まったままだ。マニフィカが痛ましげにその顔を見つめる。息を確認していたアルトゥールが、ローランドの呟いた言葉にふと表情を引き締めた。
【お父さん……お母さん……誰か……】
 鈴がローランドの様子にぼそっと言った。
「ふむ。どうやら相当、水に対して恐怖心を抱いているようだな」
「泳げないのは水が怖いからだとおっしゃってましたから」
 やがて気がついたローランドは、醜態をさらしたことに落ち込んで、皆に背中を向けてうずくまってしまった。
「やっぱり無理だったなぁ」
 沈んだ声にアルトゥールがいたわるような声で尋ねた。
「さっき、気を失ってらっしゃったとき、ご両親のことを呼んでらしたんですが……泳げないことと何か関係あるんですか」
「そんなこと口走ったか。隠していても仕方ないかな。子供の頃に海難事故にあってね。それ以来水がだめになってしまったんだ」
「海難事故?もしかしてそれでご両親を亡くされたりとか」
 アルトゥールの言葉にローランドが瞬間しまったといった顔になったが、すぐに苦笑を浮かべて首を横に振った。
「いいや、違うよ。それだったらキリエが生まれているわけがないじゃないか。あ、ただこのことはキリエには内緒にしておいてもらえないかな。事故のことはあの子は知らないからね。余計な心配はかけたくないんだ。それにしても……それまでは泳げたんだから、水さえ怖くなくなったらまた泳げるようになるんだろうに……情けないな。もう15年も経つって言うのに」
「15年前といったら先生は12歳だったわけですわよね。子供だったんですし、どれほどの事故だったか存じ上げませんが、水がまったくだめになってしまうくらいなんですもの、ひどいものだったことはわかりますわ。仕方ありませんわよ。そんなに落ち込まないでくださいませ」
「15年前?じゃあ、キリエは」
「生まれる少し前の話だよ。だから1人で遊びに行って、事故にあったんだ。父や母を呼んだのは、やっぱり助けを求めていたんだろうな。兄になるというのに恥ずかしい話だから、キリエには内緒にしてもらうよう両親に頼んで。だからキリエは知らないんだ」
「キリエは泳げて先生は泳げないなんて、兄妹なのに全然似ていないなと思ってたんですけど、そういう事情があったんですか」
「似てないか?髪や瞳の色は一緒なんだけどな。まあ、性別も違うし歳も離れているからな。似てなくても当然だろう」
「そうですね」
 軽くうなずきながらも、アルトゥールの心には先刻ローランドが瞬間見せた表情や、気を失っているときに呟いた言葉などが深く刻み付けられていた。マニフィカが元気付けるようにことさら明るい声を出した。
「水さえ怖くなくなれば泳げるようになるんですわね。でしたらまずは水に慣れるところから始めましょう。幸いここは海を模したプールですもの、波打ち際で戯れるところから始めればきっと大丈夫ですわ。芸術的なフォームを持つキリエさんのお兄様なのですもの、必ず泳げるようになりますわよ」
 妹への誉め言葉を聞いて、ようやくローランドが微笑を浮かべた。
「そういえば同じ水泳部だったな。あの子の泳ぎはそんなにすごいのかい」
「ええ、上手い人はもちろん他にもいますけれど、彼女のフォームは水棲人種であるわたくしからみても美しい躍動感にあふれていてすばらしいですわ。……でも、最近は少し乱れているのですけれど」
「え?なぜ」
「心に迷いがあるような、そんな感じなんですの。普通の人にはわからないかもしれない程度ですが、わたくしの目はごまかせません。けれどいくら先生のことで腹を立てているとはいえ、そのせいとも思われませんわ。それで乱れるほど彼女の心は弱くはないと思うのです。若いとはいえ、日頃から鍛えている一流のスポーツ選手なのですもの。そう、何かもっと深い悩みがあるような。なぜとはわたくしのほうが先生にお聞きになりたいですわ。お心当たりはございませんか」
 ディスとの会話を立ち聞きされていたことには気付いていなかったローランドは、不思議そうな顔で首を捻った。
「いや、僕は気付かなかったな。なんだろう……」
「そうですか」
 本気で知らなさそうなローランドに、マニフィカもあっさり引き下がった。
 それからしばらくローランドの特訓が続けられたが(鈴のギブスはローランドの懇願と、どうせ深いところまではいけないだろうという意見で外されることになった)、かろうじて水を見ていられるという状態までしか回復はしなかった。本人いわく、それでも大した進歩なのだそうだが、周りの人間には大いに不満の残る結果となった。ただマニフィカだけは、トラウマが原因とはっきりしたので、一抹の希望を抱いていた。

                    ○

「……というわけなんだ。泳げない理由は自分でもわかっていたみたいだな。水への恐怖心はその事故が原因だってのは確かだろう。気になるのは自分が事故にあったからだけなのかってことだな」
「どぉいうことぉ?」
 特訓の合間を縫ってアルトゥールが会っていたのはアメリア・イシアーファだ。アメリアは臨海学校にそなえてキリエに泳ぎを教わっていた。それで時折塞ぎこんでいるキリエの様子を気にしていた。明るく元気なキリエには似合わない暗い表情に、嫌でも心配せずにはいられなかったのだ。アルトゥールからローランドが泳げない原因を聞かされたアメリアは、アルトゥールの疑問にきょとんとしながら問い返した。
 2人が会っていたのは、水泳部が良く使っているプールの片隅だっだ。アルトゥールが会いに来たので練習を一時中断して、キリエは離れた場所のプールサイドに座って足をぶらぶらさせていた。窓から暖かな日差しが差し込んでキリエに降り注いでいる。今はのんびりとした表情をしていたが、その心に負の感情があることは精霊のジルフェリーザに聞いてわかっていた。ちらっと視線をやって、キリエがこちらを見ていないことを確認してからアルトゥールは口を開いた。
「親が死んだんじゃないかって聞いたら、一瞬だけど表情を変えたんだよ。うわごとでも親を呼んでいたし。だからもしかしたら、エクセル先生の親はその事故で亡くなって、なんらかの関係があったキリエの親に引き取られたんじゃないかなって。そうなるとキリエとエクセル先生は血の繋がらない兄妹ってことになる。キリエはどこからかそれを知ってしまって悩んでいるんじゃないかな」
「そぉなんだぁ。それはありそうだねぇ」
 アメリアが納得したように顔を曇らせたとき、元気なキリエの声が飛んできた。
「ねー、話、終わった?そろそろ練習再開しようよ」
「あ、はぁい。今ねぇ、アルトゥールに私の水着姿どうか聞いていたんだけどぉ、なかなか感想言ってくれなくてぇ」
「うぉっ」
 突然の話題の切り替えに、アルトゥールの顔が真っ赤になった。ちなみにアメリアは胸元や腰周りにフリルのついた白いワンピースの水着を着用していた。先ほどまで練習していたせいで、髪や肩が濡れている。滑らかな白い肌に滴が伝うのをもろに意識させられてしまい、アルトゥールの頭が一気に沸騰する。口をパクパクさせていると、キリエがくすくす笑いながらやってきた。
「公認の恋人なのに照れてる〜。アルトゥールったら、ちゃんと誉めてあげなさいよ。可愛いと思うんだけどなぁ」
「う、うん……良く、似合っているよ」
 人目から隠したいくらいだという台詞はさすがに飲み込む。キリエのくすくす笑いが大きくなった。アメリアは手を上げてキリエと一緒にアルトゥールから離れていった。
「ラブラブね〜。アルトゥールったら真っ赤になってかっわいい。お兄ちゃんにもそういう甲斐性があればなぁ。27にもなって結婚はおろか恋人の1人もいないなんて情けないと思わない?せっかく天文学なんてロマンティックな専攻なのに」
「キリエが知らないだけかもしれないよぉ。それに、恋ってしようと思ってするものじゃないしぃ」
「うーん、ありえ……そうにない!お兄ちゃん、へたれだもん。もてたなんて聞いたことない。かなづちだし」
「かなづちは関係ないと思う……」
「だってもうすぐ臨海学校よ!格好良く泳いでアピールできたら、お兄ちゃんでももてると思わない!?あたし、お兄ちゃんに恋人が出来たら、喜んで祝福するわよ!……と、思う」
 最後に歯切れ悪く付け加える。アメリアが顔を覗き込むと、照れくさそうにキリエが笑った。
「あはは、あたしけっこうお兄ちゃんっ子だから。ちょっとだけ自信がないかも」
 それからふいとアメリアが気にしている暗い表情になった。すかさずアメリアがジルフェリーザを呼び出して、キリエの負の感情を癒した。キリエの表情が和んだ。
「暖かい……アメリアの力なの?」
「ジルフェリーザは近くにいる人の負の感情をなだめていやすことができるのぉ。キリエ、時々悲しそうな顔をしているからぁ。悩み事があったら聞くよぉ?泳ぎを教えてもらってるお礼。私に出来ることがあったらなんでも言って。ね?」
「ありがとう……でも、なんでもないの。あたしの気のせいかもしれないことだから。ううん、気のせいよ。そうよ、そうに決まってる。お兄ちゃんが……なんて」
 最後の呟きは聞かなかった振りをして、アメリアは努めて明るい口調になった。
「そぉ。でも辛いときは相談してねぇ。悩みって、1人で抱えているのはとっても苦しいものぉ。私だったらジルフェリーザで心の負担を軽くしてあげられるし。今のままのキリエだと、せっかくの臨海学校も楽しみが半減しちゃいそぉ」
「ありがと。じゃあまず、アメリアの特訓を再開しようか!海のほうが体は浮きやすいけど、波があったりして危ないこともあるからね。だいぶん上手になったけど、まだまだしごくわよ!」
「はぁい。よろしく、コーチ!」
 海というものを知らないアメリアは、キリエの檄に明るく応えた。しかし泳ぎの指導を受けながら、頭ではアルトゥールから聞いたことやキリエの台詞についてなどを考えていた。

                    ○

 基礎過程では間近に迫った臨海学校に誰もがどこか浮き立っているようだった。だがローランドの泳ぎの指導をすると張り切っていたキリエだけは、他の人間に教わっているからと本人に断固拒否されてすねていた。初めは言い訳だと思っていたのだが、実際、練習をしているとマニフィカたちから聞いて予想以上のショックを受けていたのだ。アメリアのように泳ぎを教えて欲しいと申し込んでくる生徒が他にもいて、それなりに忙しくしていたのでまだ多少は気がまぎれていたが、立ち聞きしてしまったこととあいまって、兄がどこか遠い存在になってしまったようで、小さい頃から兄べったりだったキリエは吐き出せない苦しみに苛々を募らせていた。
 それでも素直に誰かに相談するのもはばかられていたキリエを諭したのはエルンスト・ハウアーだった。授業中でも不機嫌なオーラを撒き散らしてクラスメートをはらはらさせている様子を見て、授業が終わった後、準備室に呼び出してお説教を始めたのだ。
「だいぶんイラついておるようじゃのう。エクセル先生に練習を断られたからかね?キリエ君たちは随分と仲の良い兄妹のようじゃから、他人に自分の役割を奪われるのは面白くないかもしれんがな。それとも、練習をつけているのはマニフィカ君じゃそうじゃから、やきもちかね。今からそんなことではいかんぞ。海には年頃の男にはいろいろな誘惑があるものじゃ。ナイスバディなおなごに目を奪われて、自分が放っておかれる可能性も考えておかんとのう」
「う……そ、それは」
 堅物の兄でもお年頃には違いない。ありえる可能性を指摘されてキリエが絶句した。恋人が出来たら祝福するとアメリアに言ったのは自分だったが、臨海学校で自分そっちのけで美女に夢中になっている兄を想像して、さすがに腹が立つより不安になってしまった。口をへの字にして黙り込んでしまったキリエの肩を、エルンストはふぉふぉふぉと笑いながら叩いた。
「それでも決まってしまったものは仕方あるまい。それに、悩みはそれだけではなさそうじゃのう。君の顔は正直すぎる。お兄ちゃんが泳げないから腹立たしいという言い訳は簡単には通らんよ。何も言わずにつんけんしてまわりに迷惑をかけているようではいかんな。いきなりワシに話せとは言わん。まずは君を心配してくれる友達に悩みを話したまえ。そして話すだけ話して気持ちの整理が出来たら、次は君の正直な気持ちを兄に叩きつけてみると良い。ぐだぐだ悩むよりは、直球のほうが君らしくていいのではないかな?ただ、叩きつけたあと逃げ出してはいかんぞ。ローランド君とじっくり話し合わねばな。わかるね」
「……はい」
 威厳のある中にもエルンストの優しさを感じ取って、キリエも素直にうなずいた。
 とはいえ、悩みが悩みだけに誰に話したものかと考えあぐねていた頃だった。
「キリエ、ちょっと話があるんだけど、放課後少し時間をもらえないかな」
 休憩時間にそう声をかけてきたのはアルヴァート・シルバーフェーダだ。キリエは不機嫌そうな顔を向けて、アルヴァートを見返した。
「練習があるから、長い時間は取れないけど?」
「うん、それでもいいよ」
「わかった。どこに行けばいいの」
「じゃあ、授業が終わったらここに来て」
 アルヴァートが指定したのは、学園のはずれにある個人リゾートプールの裏手だった。辺鄙なところなので、人はあまり来ない。内緒話をするにはうってつけの場所だった。
 放課後になってキリエがそこに行くと、アルヴァートはもう待っていて、設置されていたベンチに座るようキリエをうながした。
「なに、話って」
 キリエがぴりぴりした声で呼びかけると、アルヴァートはフルートを持って言った。
「まあ、まずは一曲聴いてくれないかな」
 そして精神を落ち着かせる呪歌を奏で始めた。最初は仏頂面だったキリエも、曲に癒されて段々と表情が柔らかくなってきた。曲が終わると、普段のキリエになってぱちぱちと手を叩いた。優しい顔になっているのを見て、アルヴァートは拍手に軽く頭を下げて礼を言ってから、しばらく黙り込んでいた。さわさわと葉ずれの音が心地よい。屋内からはざざーんざざーんと波の音がしていた。久しぶりの穏やかな時間に、キリエがふーっと長いため息をついた。それをきっかけにアルヴァートが口を開いた。
「単刀直入に聞くけど……キリエさ、エクセル先生が泳げないこと以外になにか悩んでいるよね?」
 キリエが正直にぎくりとした顔になる。それからそっぽを向いてしらばっくれようとした。
「なんのこと?あたしが怒っているのはお兄ちゃんが泳げないからだって言ってるじゃない。それも、一応は練習してくれてるみたいだし。だったらあたしが悩むことなんてもう何もないわよ」
「オレはこう見えてもいろんな世界でいろんな人を見ているからね。それなりに人を見る目があるとは思っているんだ。そんなオレの勘。同じクラスなんだもの、キリエがどんな人間かはわかっているつもりだよ。明るくて素直で……嘘がへた。はたで見てて、何かに悩んでいるのなんかばればれだって。見てるだけでわかるよ。あのさ、あんまり内にもやもやしたものを溜め込むのは良くないよ。……話せないことなら無理に聞こうとは思わないけど、誰かに話すだけでも楽になれることもあるんだよ。秘密は厳守するから、良かったら話してみない?」
 キリエが微妙に泣き出しそうな顔になって空を見上げた。
「あたし、そんなにわかりやすいのかなぁ。アメリアにも同じようなこと言われたのよね。ああ、このままじゃお兄ちゃんを問い詰めちゃいそう!でも怖い……どうしよう」
「何が怖いの?」
「真実を知ること、かなぁ」
「真実?」
「うん……小耳に挟んだだけなんだけど、実は……」
 と、言いかけたときだった。側の屋内プールから梨須野ちとせの悲鳴が聞こえてきた。キリエとアルヴァートが顔を見合わせて、ダッシュで中に飛び込んだ。 「大丈夫!?」
「あっ、えっ!?」
「きゃあああ」
 キリエとアルヴァートの目に飛び込んできたのは、素っ裸のちとせだった。これがリスの姿だったら問題はなかっただろう。どうした理由かちとせは人間形に変身していた。結果的に少女らしい胸の丸みや柔らかな腰の曲線があらわになっていて、アルヴァートを動揺させた。いや動揺したのはちとせも同じだったらしい。更なる悲鳴を上げて両手で必死に体を隠そうとした。硬直してしまったアルヴァートをキリエが外に押し出す。そしてちとせに駆け寄ると、ちとせはうずくまって泣き声をあげていた。
「いや〜もうお嫁にいけませんわ〜」
「大丈夫!ちらっとだったから!えーと、着替えは……」
「あちらです〜」
 まだぐすぐす言いながら窓際のベンチを指差す。キリエはとりあえず自分のシャツをちとせの肩にかけてあげて、そちらに向かった。ベンチの上には人形サイズの洋服が置いてあった。どうみても今のちとせが着られる大きさではない。悩みつつとりあえずそれを持ってちとせの元に戻る。
「着替えってこれでいいの?」
「そうです、くすん」
「でも、こんな小さなのどうやって着るの」
「ああ、元に戻らなくては」
 ぽん!とちとせがいつものリスの姿になる。ぱさっとキリエのシャツが上に覆いかぶさる。下敷きなってしまってちとせがじたばたと暴れた。キリエがのけてあげようとすると、落ち着きを取り戻してちとせがここで着替えるから服をくれと要求してきた。それで服を差し入れると、ちとせはしばらくシャツの下でごそごそ動いていた。その間、キリエがなんとなく周りを見渡していると、水面にぼろぼろになった布切れがぷかぷかと漂っていた。分量からしてリスのちとせが着ていた水着だろう。大きくなったために破れてしまったものと思われる。なにが起きたのかわけがわからず、キリエは首をかしげてしまった。
「はあ、驚きましたわ」
 やがて着替え終わったのかシャツの下から服を着たちとせが出てきた。外からアルヴァートの声が響いてきた。
「もう入っても大丈夫かい」
「うん、いいよー」
 まだ赤い顔をしているちとせに代わってキリエが答える。ちとせはキリエの足の影に隠れながら嘆いていた。
「けほけほ!うう、大自然にもてあそばれました……」
「ちとせ、泳げなかったの?」
「泳げますよ。ただ川とか沼ばっかりで、海は経験したことがなかったんですよ。海には波があるのでしょう?どんなものかと思ってここで試してみたんですけど、もてあそばれてしまいまして。大きくなれば大丈夫と、ついいつもの服のつもりで変身してしまったのですが……水着も伸縮素材にしておくべきでしたわねぇ。恥ずかしい」
「いや!ちょっとしか見えなかったから!」
「ちょっとは見えたんですね……」
「うあ、いや、その」
 ちとせの突っ込みにアルヴァートが言葉に詰まる。キリエが苦笑した。そこへアメリアが顔を出して、キリエを誘いに来た。
「キリエ、ここにいたんだぁ。そろそろ練習始めよぉ?」
「もうそんな時間?じゃあ、アルヴァート、悪いけどあたしはこれで」
 つい話をうやむやにしてしまおうとしたキリエだったが、アルヴァートの言葉が逃げを許さなかった。
「キリエ、オレとの話は終わってないよ。話してくれるんだろう?」
「なぁに?キリエの悩みの話?」
 アメリアも話に乗ってきた。ちとせが肩によじ登ってきた。
「なんだか悲しそうな顔をしてらっしゃいますわね。そういえばこのところ様子がおかしくていらっしゃいましたね。なにか、お悩みのことでも?臨海学校も近いというのに、それはいけませんわ。浮かない顔などキリエさんには似合いませんわよ。お1人で抱えてないで、良かったら相談してくださいませ。私もお力になりましてよ」
 暖かな言葉の数々に、エルンストの顔が浮かぶ。きっと自分が苛々していたせいでこのクラスメートたちにも迷惑をかけただろうに、逆にこれほど心配してくれる。その気持ちが嬉しかった。
「ありがとう……聞いてもらえると嬉しいな。でもここじゃ不都合かな?なんか、他にも人がきそうだし。話す相手は少ないほうがいいから」
「それならおじさんの研究室においでよぉ。あそこなら尋ねてくる奴はいないから」
「イグリード先生!?いつからそこに」
 アスリェイ・イグリードはにこやかな笑顔で扉にもたれかかって立っていた。キリエの質問には手をひらひらと振って答えた。
「んー?ちょっと前からだけどね。キリエちゃんの悩みはおじさんも気にしていたからさぁ。ここにいる皆は本気でキリエちゃんを心配しているみたいだから、おじさんも協力するよぉ。さ、ついておいで」
 飄々としていながらも態度に優しさと安心感を感じ取って、キリエが先に立ってアスリェイの後についていった。それでアルヴァートたちもついていくことにした。
 アスリェイは自分の研究室に皆を招きいれると、他人が入ってこないよう念のため鍵をかけて締め切り、皆に座るよううながした。話すと決めても緊張はするのだろう。キリエは表情を固くしていた。肩に乗ったままのちとせがなだめるように髪を撫でた。アスリェイは良い香りのするお茶を淹れて皆に振舞った。話の切り出し方を求めてアルヴァートとアメリアがそわそわしている。落ち着かせようと、アスリェイはつまみにお菓子を出しながら雑談を始めた。それは生徒としてアカデミアに在籍している弟の過去話だった。
「あれでもね〜昔はすごいお兄ちゃんっ子だったんだよ〜。今のクールな性格になったのは、精霊使いとして責任を持つようになってからかな。成長は喜ばしいけど、お兄ちゃんとしては寂しかったねぇ。なんせすっかり独立しちゃって。おまけにいつの間にか可愛い恋人まで見つけちゃってさぁ。まだまだ子供だと思っていたのに、今じゃおじさんのことなんか厄介者扱いだもんねぇ。まあ、からかうとたまに昔に戻るから、それが嬉しくてついあれこれ構っちゃうんだけど」
 軽い口調にキリエが小さくふき出す。どこでも兄弟なんてそんなものかもしれない。物心ついたときにはローランドはもう大人といって差し支えない歳だったが、いつだってキリエには優しく甘い兄だった。だからキリエも安心して甘えられたのだ。気弱でどこか頼りない面さえ、愛しいものだった。本当の兄妹と信じて疑うことなどなかった。しかし思い返してみたら、兄の子供時代の写真がないなど不自然な点があったことも事実だ。キリエはきゅっと口を引き結んでから、思い切って話し始めた。
「この間ね、探偵部の部長さんが、お兄ちゃんと私が血の繋がらない兄妹だって言っていたの。物心ついたときにはお兄ちゃんいたし、まさかと思ったんだけど……。あの人が何の根拠もなく口にするとは思えないし、そのときのお兄ちゃんの様子もおかしかったから、本当のことなのかなって。私、嫌だ。お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃないなんて信じたくない。信じたくない……の。だってなんだかお兄ちゃんが遠い人になっちゃうみたいで。怖いよ」
 両手で顔を覆ってしまったキリエの頭にちとせがそっともたれかかった。
「ねえ、キリエさん。血の繋がりは大切かもしれませんが、絶対ではありませんわ。大切なのはキリエさんがエクセル先生をどう想ってらっしゃるかということですわ。お兄様のこと、大好きですか?」
 キリエがくすんと鼻を鳴らしながらこくりとうなずいた。アルヴァートが胸を張って言った。
「オレにも血の繋がらない兄弟がいるけど、それがどうしたって感じだね。だってそうだろ?たとえ血が繋がっていなくたって、一緒に同じ釜の飯を食べて育った時間が消えるわけじゃないんだから。キリエだって物心ついたときからエクセル先生のこと、兄と慕ってきたんだろ。エクセル先生だってキリエに優しいだろ。真実を知ったところで、これまで積み重ねてきたそれがなくなってしまうと思うかい」
「それに、それが事実だったとしても、先生やご両親がこれまでキリエさんに黙っていたのは、心配させたくないと思っていたからではありませんの?それでもどうしても気になるというのなら……勇気を出して聞いて見るのも良いかもしれませんわ。そこから始まる何かがあるかもしれませんもの」
 アメリアが少し言いづらそうに、アルトゥールから聞いた話を喋りだした。
「エクセル先生は、キリエには内緒にして欲しいって言っていたそうなんだけどねぇ。実は……」
 キリエが驚いた顔で目を丸くした。
「お兄ちゃんが泳げないのが事故のせいって、本当なの?あたし、そんなの知らない。お父さんもお母さんもそんな話したことなかったもん」
「キリエが生まれる少し前のことなんだってぇ。お父さんたちには、兄になるのに恥ずかしいからキリエには黙ってて欲しいって頼んだそうなんだけどぉ。アルトゥールが言うには、その事故のとき、エクセル先生の本当の親が死んじゃったんじゃないかって。そのくらいのショックがあったから、泳げなくなっちゃんじゃないかなって言ってたよぉ」
「そんな……それが本当なら、あたし、お兄ちゃんにひどいことしているってことになる。嫌な思い出があるのに、無理やり泳がせようなんて……嫌われちゃったらどうしよう」
 と、アスリェイがわしわしとキリエの頭を撫でた。
「嫌いになったりするわけないって。臨海学校に向けて練習しているのは、むしろローランド先生のほうがキリエちゃんに嫌われたくないからじゃないかい。まあねえ、こんな風にキリエちゃんを悩ませるんだ、秘密にしているローランド先生に問題がないとは言わないけど、彼は彼なりの事情があるんだとおじさんは思うんだけどねぇ。話さないってことは、キリエちゃんにそれなりの覚悟……その事実を逃げ出さずに受け止めることが出来るぐらいの心を持つか、おじさんの弟のように支えになれる最高のパートナーと出会いがないからじゃないかねぇ。お兄さんが君に対して心配ないって思ったら、きっと話してくれるよ。それまで待つ……ってのは厳しいかなぁ」
「あたし、弱い、かな……うん、弱いかもね。偶然聞いちゃったことだけでこんなに動揺して、皆に心配かけてるんだもん」
 キリエが落ち込んだ声を出すと、アスリェイのわしわしが少し強くなった。
「だからと言って無理に背伸びしたりしないで、自然に変わっていかないといけないよぉ。どうしたらローランド先生が話してくれるようになるかは、今はおじさんにもわからないけどね、こうして相談に乗った以上は、おじさんもその答えを見つけるのに協力すから。ここにいる皆だって同じ気持ちだと思うよぉ」
「そうだよ。オレたち友達だもんな。協力は惜しまないよ!」
「そうですわね」
「そぉだよぉ。大丈夫、キリエならきっと強くなれるよぉ。私たちがついているんだもん」
 暖かな励ましの言葉に、キリエがにじんだ涙をぬぐって笑顔を浮かべた。
「ありがとう。そうだね、お兄ちゃんだって頑張っているんだもん、あたしが弱いままでいいわけない。待っていられるかはわからないけど、せめて何を聞いても逃げ出さずに受け止められる人間になりたい。お兄ちゃんが誇れる妹でありたい。たとえ血が繋がっていなくても。大切なのは、大好きって気持ちなんだよね」
「そういうこと。血が繋がっていなきゃ好きでいられないなんて、そんなことないだろう?」
「さきほどもお伺いいたしましたが、キリエさんはお兄様のことが好きなんですわよね。それは血が繋がっていないとしても変わらないですわよね」
「うん。なんか、血が繋がってないってことでお兄ちゃんが遠い存在になってしまった気がしていたけど、あたしの気持ちがそれで変わるわけないよね。打ち明けてよかった……ちょっと、気が楽になった。よーし、臨海学校頑張るぞー!楽しい思い出、たくさんつくろうね。皆とも、お兄ちゃんとも」
 さっぱりした顔でキリエが立ち上がって宣言する。アスリェイたちがにこにことその様子を見守った。

                ○

 連日の猛練習でかローランドはいささか疲れを感じていたが、それでも教師としての職務は果たさねばならない。授業はもちろんのこと、当番で回ってくる宿直もそのうちの1つだ。学園は広いので1人でやることはない。その日はインターンの猫間隆紋と一緒だった。時間を見て順に学園内を見回り、異常がなかったのでなんとなく2人で外に出てみた。
 昼間はにぎやかな敷地も夜間は静まり返っている。良く晴れていて空には数多の星がきらめいていた。天文学を専攻するだけあって夜空を眺めるのが好きなローランドは、昼間の疲れを癒そうとするかのように空を見上げながら大きく伸びをした。まだインターンという身分でいろいろと勉学に励んでいる隆紋は、好機とばかりにあれこれとローランドに質問を繰り出していた。
「天文学の話など聞いてもあまり役には立たないでしょうに」
「いや、そんなことはないぞ。この世界の天文のありかたや成り立ちを知ることは、私が私の本来の世界以外で力を行使するときの助けとなろう。実質界の単なる物理現象としての天文以前の、忘れられたような知識が役に立つことは多くある。生れ落ちたときの星回りがその人間の生を司どるとも言うが、このアットではいかがなものか」
「星占いですか?猫間先生もロマンチストですね」
 隆紋がこほんと咳払いをした。
「さて、それは恋占いが好きな女生徒の領分か?エクセル先生こそその発想はロマンチストだな。占いは応用であって、悪いものではないが、恋など最後は成し遂げる意志が肝心であろう。私が知りたいのは、天文の力の流れがいかなる作用を世界に及ぼすかということだ。昔から語り継がれている神話などには、意外に重要な事柄が含まれているものだぞ」
「神話ですか……そちら方面は僕もあまり詳しくはないですけどね。この世界にははっきりした四季がありませんから、見える星座もさほど変わりませんし。でも、そうですね……」
 そもそもこのアットにはたくさんの異次元から様々な知識が流出してくる。詳しくはないといいながら、それらの雑多な知識をぽつりぽつりとローランドは語っていった。アット独自の神話はかなり風化してしまっていたが、やはり星占いはあるらしい。天空の星座を指差しながら、専門知識も織り交ぜて話されるローランドの言葉は隆紋にはなかなか興味深いものだった。星にまつわる神話はどこの世界でも同じようで、このアットに伝わる話も恋と冒険が華を添えていた。
「ま、他世界で言われるような大規模な宗教とかはありませんけれどね。なにしろ、異世界との交流が盛んでしょう?みんな、自分の世界の信仰を持ち込んで共存している状態ですから。だから占いも多種多様に渡っていますよ。確かに恋占いなんかは女生徒に人気のようですけど。ま、うちの妹みたいにあまり興味のない奴もいますが。あの子は今は水泳しか眼中にないようでねえ。好きな男の子でも出来たらもうちょっと大人しくなるかもしれませんね」
「ふむ、しかしあの明るさ素直さは長所だと思うぞ。なに、そう心配することもあるまい。まだ若いのだからな。蕾はいつか花開くものだ。そういうエクセル先生には好きな女性などおらぬのか?結婚を考えてもおかしくない歳であろう」
「あはは、なかなか出会いに恵まれないもので。親にはせっつかれているんですけれどね。僕としても、自分の家庭を持って親を安心させてあげたいのは山々なんですが。いろいろと心配かけていますし、だから恩返しもしたいのだけど」
「恩返し?」
 親に対して使うにはいささか不適切な言葉に隆紋が首をかしげる。失言に気付いてローランドが慌てて言い直した。
「恩返しって言い方は変ですね。親孝行ですよ、親孝行。孫の顔も見たいでしょうから。さすがにキリエにはそれは早いですからね」
「それはそうだ」
 引っかかりは感じたが、個人の事情に踏み込みすぎるのも良くないと考え、追求はやめることにした。ローランドはそれをいいことに、そそくさと宿直室に戻ることを提案してきた。

 臨海学校が近づいてきて喜んでいるものばかりではなかった。旅行中のイベントについては具体的なことは今度のホームルームで決定することになっていたが、自由行動時間が設けられることだけは確定だったので、風紀委員のテネシー・ドーラーはホームルームに先駆けて臨時の委員会を召集していた。
 いつものごとくゴシック調の黒いドレスに風紀委員の腕章をつけて竹刀を持った姿で教壇に立っているテネシーは、他の委員たちのどこか浮ついた雰囲気に眉根を寄せていた。私語もいつもより多い。テネシーはびしぃっと竹刀を床に打ち据えて注目を集めると、きっと周囲を睨みつけた。その迫力にさすがに教室がしーんと静まり返る。テネシーは冷ややかな視線を送りながら注意事項を伝え始めた。
「皆様ですらその調子ですものね。学校行事と言っても羽目を外すものは必ずいると思うのです。多少のことは校外ということで目をつぶりますが、あまりにひどい方を見つけましたらわたしの元に連れて来る様に。教師立会いの上でお説教いたしますので。反省がないようなら旅行中の外出は禁止、もちろんイベントへの参加も禁止処分にいたします。特に気をつけなければならないのは夜間の無断外出や、男女間の部屋の行き来ですわね。見回りを強化しますので、皆様もしっかり監視いたしますように。ああ、それから、行く先の海水浴場は学園のプライベートビーチではありませんので、ナンパとかあるかもしれません。生徒たちの安全を守るのもわたしたちの役目です。対処はわたしがしますから、不埒な輩がいましたらすぐに報告に来るように。よろしいですわね」
 有無を言わさぬ口調に一同がこくこくとうなずく。テネシーはそれからプリントを委員たちに配った。学園側で作った予定表だ。これに生徒の案が加わることになるが、大きな変更はないだろうともらってきたものだ。
「あ、そうそうここのペアでの肝試しですが、組み合わせはくじ引きになるそうですわ。自己申告は受け付けないとか。文句も出るでしょうが、決定事項だそうですので苦情は聞き流すように。それから水泳大会ではリタイアに備えておくように。なにしろ引率のエクセル先生が泳げないそうですからねえ。みんなで助け合わないと」
 他にもこまごまとした注意を与えてゆく。引率者はローランドだけではないが、自主性を重んじる学園の名誉にかけてなるべく自分たちだけで不測事態に対応したいとテネシーは考えていた。自分もプリントを眺めながら、これに加わるイベントに思いをはせていた。
「あまり変なイベントが増えないと良いのですが……」
 不安が残るのは個性派な生徒や教師陣がそろっている現状を考えれば、いたしかたないことだった。

 そんな事情も知らずに、臨海学校の準備にいそしんでいる者がいた。リリア・シャモンは私服を広げてしばらく考えてから黙々とそれをかばんに詰め込んだ。
「グラント様は気に入ってくださるかしら」
 禁止されている夜間外出で、婚約者のグラント・ウィンクラックとデートすることはすっかり予定に組み込んでいるリリアだった。そのとき用の着物はリリアの均整の取れた美しい肉体の魅力を十二分に引き出す代物だった。純朴なグラントには刺激が強いかもしれないとは思わなかった。シャモン家では一般的な服装だったからだ。しかし寝巻き用だったので、少しだけ考え込んだのだ。
 と、とんとんと扉がノックされた。やってきたのは叔母のミズキ・シャモンだった。
「ミズキ叔母様。いかがなさいました?」
 血筋的には間違いではないのだが、年齢的には年上にあたる姪に叔母と呼ばれてミズキが複雑そうな顔をする。リリアはその微妙な心情には気付かずににこにこしていた。気を取り直したミズキが紙束を差し出した。
「エクセル先生の許可を得ましたので、水泳大会のチラシを作ってまいりましたわ。詳しいことは明日のホームルームで発表されると思いますが、生徒たちに撒いておいてくださいますか」
「わかりました。楽しい大会になるといいですね」
「これは学校行事の勝負事ですわよ。みんなには全力で当たっていただかないと」
 生真面目なミズキの台詞に、リリアも表情を引き締めた。
「はい、そうですね。すみません、失言でした」
「いいわよ。ちょっと仕込みもする予定ですし。そういう意味では、わたしが楽しんでいるのかもしれませんわね」
 もとより興味のわかないことには動こうとしないミズキだ。リリアもそれはわかっていたので微笑んだ。
 そして翌日。リリアはせっせとチラシをばらまき、そのチラシを見つめながらグラントは苦笑いを浮かべていた。
「それであの生簀が必要なのか」
「生簀?」
 グラントはチラシをひらひらさせながら言った。
「ミズキ……っと、ここでは先生だったな。に、武神先生に異空間特製生簀を作ってもらって、そこに海で採った大だこを入れておくよう頼まれたんだ。なんに使うのかと思っていたんだが、これ用だな、多分」
「そう言えば、なにやら仕込みをするとおっしゃってましたわ」
「ま、危険がないならかまわんが」
 グラントはリリアのことを気遣ってその台詞を発したのだが、リリアは逆に捉えたらしい。愛する人にだけ見せる特別な微笑みを浮かべながら言葉をつむいだ。
「グラント様は火と相性が良いせいか、水はあまり得意ではないとおっしゃってましたものね。大丈夫ですわ、私が一緒ですから」
 その包み込むような微笑にどぎまぎしながら、グラントはリリアの頭に手を置いた。
「俺が心配しているのはリリアや他の参加者たちのことさ。確かに俺は火の精霊の加護のせいで水は苦手だが、別にだめってこともないんだぞ。水上でも移動できる足も持っているし、エアバイクだってあるんだしな」
「あら、それは失礼なことを申し上げてしまいました。ごめんなさい」
「リリアは俺を心配してくれたんだろう。その気持ちは嬉しいぞ」
 それからグラントは、頭に置いた手を背中に回して抱き寄せてみようとしたのだが、これがいざやろうとなると意外に難しいことが判明した。照れのほうが勝ってしまい、どうにも動きがギクシャクしてしまうのだ。固まってしまったグラントを不審に思ったリリアが不思議そうに顔を覗き込んでくる。艶やかな紅色の唇がやけに目に付いて、グラントはあたふたとした動きで手足をひらめかせた。
「グラント様?」
「いやっ、なんでもないんだ!」
 いささか挙動不審な動きに、リリアが首をかしげていると、父親のホウユウ・シャモンがやってきた。
「おい、グラント。例の生簀の件、どうなった。用意しておかないとミズキの奴、うるさいだろうからな」
 ホウユウが現れて、グラントがなんとなく脱力してしまった。
「おまえら、こんな難しいことをまるで息をするかのようにやってのけていたのか……さすがホウユウ……侮れん」
「なんの話だ?」
「こっちの話だ……気にしないでくれ……。そう、生簀のことだったな。武神先生は快くOKしてくれたぞ。出発までには作っておいてくれるだろう。あとはタコを捕らえるだけだ」
「斬るわけにはいかないから、みねうちで気絶させて一気に捕獲するしかないな。できたら大量捕獲したいんだが、手を貸してくれるんだろう」
「そりゃ、もちろん。でもたくさん獲ってどうするんだ。そんなにはいらないだろう」
 グラントの疑問にホウユウはにやりと笑った。
「余ったタコはたこ焼きにして売りさばくんだ。値は1パック8個で40ザイルくらいにおさえるが、儲けるチャンスを逃すことはあるまい」
「……武神先生みたいなことを」
 グラントがボソッと言うと、ホウユウがつまらなそうな顔になった。
「暇なんだから仕方ないだろう。商売でもやってなきゃ気がまぎれないじゃないか。夜は抱き枕で我慢するが」
「ああ、3人目が出来たとか言ってたな。んじゃ、この大会には参加しないのか?」
「いちおう参加はする。ミズキがうるさいからな。ただ今回はどうせ1人だし、参加するだけで充分だと思ってな」
「そうですわね。学校行事ですから、参加することに意義があるというか」
 リリアが父親の意見に賛成してしまったので、今度はグラントがつまらなそうな顔になった。
「なんだ、2人とも同じ意見なのか。なんかやる気が起きないな……」
「そんなことおっしゃらずに、一緒に楽しみましょう」
「リリア……」
 優しい言葉にグラントの心に幸せが満ちてくる。勢いで抱きしめて、キスをしようとし……ホウユウの視線に気付いてばっと体を離した。別にホウユウに他意はなかったので、グラントの行動にちっと舌を鳴らした。
「まだまだ青いな」
「余計なお世話だ!」
 赤くなったり青くなったり顔色を器用に変化させながらグラントがわめいた。
 そしてホームルームの時間になった。疲れ果てた顔のローランドが黒板にかつかつととりあえずの予定イベントを書き込んだ。そして生徒たちのほうに向き直ると、発言を促した。
「今のところはこれくらいだが、ほかに何かやりたいことや質問はあるか」
「水泳大会ってどんなことをするんですか?遠泳とか?」
 生徒の質問に、ローランドは手元のプリントを見ながら答えた。
「シャモン先生の提案の奴だな。いや、遠泳じゃなくて紅白にわかれての勝負だ。種目はええと……水中騎馬戦と水球、リレーだ。シャモン先生、ルールについて説明していただけますか」
「わかりました。それではご説明申し上げます」
 控えていたミズキがローランドに変わって教壇に立つ。眼鏡をくいっと押し上げて、真剣な表情で説明を始めた。
「基本的には地上でやる競技と同じです。海の中でやるというだけで。ただし、騎馬戦には障害物を用意いたします。水球は、ルールは同じですが必殺技や魔法の使用も可といたします。リレーが一番普通でしょうか。エクセル先生、特訓の成果を期待しておりますわよ」
 付け加えられた言葉にローランドががくっと肩を落とし、生徒たちからは笑い声が上がった。ローランドはしょげた顔でまた教壇に立つと、やけくそのように意見を求め始めた。はいとジニアス・ギルツが手を上げた。
「リレーをやるなら、その前に水泳教室みたいなものをやってはどうでしょう。エクセル先生だけじゃなくて、他にも泳げない人はいると思うんですよね。せっかくの臨海学校なんだし、浜で眺めているだけなんてのはつまらないでしょうから。指導役は水泳部の生徒とか体育教師とかが担当するってことで。将来トレーナーを目指している人にもいい経験になると思うんだけどな」
 俄然張り切ったのはキリエだ。すかさず立ち上がって賛同してきた。
「はいはーい!それ、賛成!あたし、指導役に立候補ね。万が一お兄ちゃんがまだ泳げないんだったら、徹底的にしごいてあげる」
「キリエ、だから学校では先生と呼びなさいと」
「あーん、もう。わかりました!エクセル先生だけじゃなく、他の泳ぎの苦手な人もまとめて面倒見ますから。やろうよ、水泳教室」
「だめですか?引率役の先生が泳げないってのは、万が一のことを考えるとやはり問題あると思いますし」
 はっきり指摘されてローランドがしぶしぶ了承した。黒板に「水泳教室」と書きこむ。続いて手を上げたのはアンナ・ラクシミリアだ。アンナは控えめに立ち上がると、それでもはきはきとした口調で意見を述べた。
「海中での行動もよろしいですけれども、行く場所は学校のプライベートビーチではないのでしょう?きっと一般の方が残していかれたごみとかがあると思うのですわ。ですから、海岸線の掃除をしてはいかがでしょうか。いいですか、集まるのはごみとは限りませんのよ。この島は世界の中心にあるのですから、他国からの漂着物とか、あるいは異世界からの漂流物があるかもしれませんわ。そういったものが見つかれば、異文化を知ることになります。きっと良い勉強になりましてよ。もちろん景観を美しく保つ意味もありますけれどね。これならば泳げない人にも安心して参加していただけますし、いかがでしょう」
「異世界の漂流物か、面白そうだね!」
 ジニアスが目を輝かせた。「掃除〜?」というブーイングもあったが、アンナはそれらはきっぱり無視していた。きれい好きなアンナにとっては、掃除に勝るイベントなどなかったからだ。泳がなくていいということと、行事として意義が見出せるものであること、また学園のイメージアップにも繋がることなどから、ローランドも今度は素直に賛成していた。
「毎日ってわけじゃない。最終日にでも一斉にやればいいだろう。確かに珍しいものが見つかるかもしれないぞ。見つかったらいい記念になるだろう。じゃあ4日目はこれで決まりだな」
「はぁい」
 あまり乗り気でない返事をしたのはキリエだ。別に掃除が嫌なわけではなく、アンナの案に乗り気になられたのが面白くなかっただけなのだが、掃除が嫌でふてくされたように見えたらしい。他の意見を聞いてくるローランドをむすっとした目で見ているキリエの背中を、アンナがちょんちょんとつついた。
「なに?」
「あのですね、前々から思っていたのですけれど、エクセル先生への接し方はもう少し変えたほうがよろしいですわよ。この学園の中でお2人の関係を知らない人はいないと思いますけれど、傍から見たら先生と生徒には違いないのですから、それなりに敬意を持って接しないといけませんわ。それにエクセル先生もそろそろいいお歳なのですもの、あまり評判を落とすようなことを言うのも良くありませんわね」
 いい歳と言われたことにカチンときたらしい。キリエがぷいっとそっぽを向いた。
「ずっと呼んでいたから、ついお兄ちゃんって出ちゃうんだもん。今は、その関係にこだわりたいし。でも、わかったわよ。気をつければいいんでしょ。ちゃんと先生って呼ぶようにする。公にはね。でもプライベートには口出ししないでよ!」
「なに、やきもち?」
 会話が聞こえたのかジニアスが茶々を入れる。図星を指されたキリエが、真っ赤になって本格的にすねてしまった。意味がわからなかったアンナはきょとんとしていた。
 そんなひそひそ話が繰り広げられているとは気付かずに、ローランドはホームルームを進めていた。今、意気揚々と意見を述べているのはアクア・エクステリアだった。その勢いにローランドは押されていた。
「名付けて『死闘サバイバル!トレジャーハントDEオリエンテーリング』というのはいかがでしょう♪Sアカデミアにふさわしい、超☆過酷競技ですわ。荒れる大海原を泳ぎ渡り、断崖絶壁を登りきり、毒蜘蛛の巣くう密林を往き、大蛇蠢く前人未踏の洞窟を抜け、原住民の襲撃をかわしながらゴールを目指すという、楽しくも生徒たちのサバイバル能力向上も目指せるナイスなイベントですぅ」
「毒蜘蛛のいる密林なんて、海水浴場の近くにあるのかな?」
 ジニアスの突込みを無視して、自分の妄想に酔ったアクアがきらきらとした目で滔々とまくしたてていた。
「トレジャーハントと銘打っている以上、ゴールにはたどりついた者だけが満喫できるお宝が必要になりますが、先生方ならきっと予想以上の代物をご用意できると信じておりますわ。いいえ、これには生徒会が全面バックアップさせていただきます。経費は予算として計上いたしましょう。数々の障害は、体育祭を思えばたやすく用意できるはずですぅ。なにしろ私たちを待っているのは大自然なのですもの。障害やアクシデントなどいくらでも転がっているはずですぅ。ああ、楽しみ……」
 うっとりした表情で締めくくられて、ローランドが頭を抱えた。オリエンテーリング自体は、発想としては悪くないのだが、語られた内容がいささか過激すぎるような気がしたのだ。確かに学園の生徒ならどんな障害も難なく乗り越えてしまいそうだが、体力に自信のあるものばかりがいるわけではない。実際、不安そうにしている生徒も何人かはいた。ローランドが難しい顔で悩んでいると、それを察したのかすすすっとアクアが近づいてきて耳打ちした。
「いやですわ。なにも全部やれといっているわけではありませんよぉ。ドッキリだって構わないんですってば。お宝は、滞在先に何か伝説があればそれに絡めたものが良いですけれど、そんなものそうそうあるはずありませんものねぇ。ですから障害で疲れきった心に染み渡る大海原の絶景ポイントなどでも良いのではないでしょうか。毒蜘蛛や大蛇は雰囲気作りということで、本物ではなくおもちゃを使うということで。原住民にしても、そもそも人工島であるこの島にはいないでしょうから、地元の方をエキストラとして雇うのですわ」
「あ、なるほど」
 ほっと胸をなでおろしたローランドを、最後にアクアが突き落とした。
「もちろん、手違いで本物のアクシデントがあるのは大歓迎ですけどぉ」
 ころころと笑いながら自分の席に戻っていくアクアを、ローランドは恨めしそうに見つめていた。
『なにかやる。絶対にやる』
  確信に近いものを感じながら、はーと息を吐いてアクアの提案に返事をした。
「さすがに密林はないけれどな。遠泳は可能だし、崖もある。確か崖の上にはいわく付きの洞窟もあったはずだ。それらを組み合わせてオリエンテーリングをすることは出来るだろう。ただし学校外で怪我人を出すわけにはいかないからな、コース設定はこちらに任せてもらおう。それでもかまわないかい、アクア」
「もちろんですよぉ。素敵な障害を期待してますわ」
 一抹の不安を覚えつつ、それ以上の提案が出ないことを確認してホームルームは終了した。

 それから数日後。出来上がったパンフレットが生徒たちに配られた。

 学内新聞より。 「今期の臨海学校の正式な旅定が発表されました。以下の通りになります。

一日目 宿にチェックイン後、船上観光。夜に海辺の洞窟で肝試し。肝試しのペアはくじ引きで決められます。自主申告は不可ですのでお気をつけください。

二日目 午前中は水泳教室。午後に水泳大会。

三日目 オリエンテーリング(宿から弁当が支給されます)。夜はバーベキューとキャンプファイヤー、花火をやります。

四日目 午前中は海岸清掃。午後はチェックアウト後、夕方まで自由行動となります。

臨海学校中の注意事項
その1 夜間の外出は禁止。男部屋と女部屋を行き来するのも禁止です。
その2 ナンパ・カツアゲ・ケンカに注意(するのもされるのも)。

それでは基礎過程の皆様、怪我や病気には気をつけて、元気に臨海学校を楽しんできてください。」

高村マスターシナリオトップP
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