「心いろいろ〜孤高の少女〜」

−第1回−

ゲームマスター:高村志生子

 学内新聞より抜粋。
『最近、校内では事故や事件が多発しています。夜間、教室を何者かが荒らしたり、不慮の事故にあう者が頻発しています。事故にあった生徒のほとんどがある編入生に関わった人物であることから、一部の生徒の間ではその編入生が何らかの手を使って事故に合わせているのではないかという噂が立っています。真偽のほどはいまだ不明。学内一の情報通である我が探偵部部長のディスタス・タイキにも真相はまだ解っていません。真相解明のために近々賛同者を募って事件の調査に当たると部長は宣言しています。希望者は探偵部までお越しください。 文責・探偵部副部長レイミー・パッカート』
 地球の亜熱帯に近い温暖な気候のアット世界。その中心部にあるSアカデミアは、アットの上層部によって運営されている学校だ。基礎課程と専門課程に分かれているが、生徒はみなそれぞれの専門分野を中心に勉学に励んでいる。異世界との交流も盛んで、文化交流によって収益が得られているほどだ。異世界からの就学生も多い。その多様性からか生徒の人種や年齢は非常にまちまちであった。実力主義とでも言うのだろうか。成績によっては通常の定期進級以外に上級クラスに編入するものがよくいた。基礎過程に編入してきたばかりの詩歩・ラングリアも、専門分野の心理学で優秀な成績を上げており、専門課程に進級するのは時間の問題とされていた。しかしながらそれにはわずかな障害があった。それが学内新聞で取り上げられていた事件だ。夜間の教室荒らしはともかく、詩歩を敵対視する生徒や教師が次々におかしな事故にあっていくのだ。当人は事故について無関心を装っていたが、それがかえって噂を呼んでいた。
 詩歩の従兄の政志・ラングリアは、温和な顔を曇らせて廊下を1人歩いていた。そこへ声をかけてきたのはホウユウ・シャモンだった。
「政志、顔色が悪いぞ。また悩んでいるのか」
「またはないだろう。まるで心配性みたいじゃないか」
 ホウユウが苦笑した。
「実際、心配性だろ。詩歩お嬢さんのことで悩んでいるんじゃないのか。お前にとっては妹みたいなもんなんだろ」
 今度は政志が苦笑した。
「ああ、まあ。お互い1人っ子だからな……また事故にあった奴が出たそうだよ」
「それで噂がさらに広まったってわけか。ま、こんなところで立ち話もなんだ。昼は済ませたのか?まだなら一緒にどうだ」
「僕と?」
「腹が減っては戦は出来ぬってな。なんかお前を見ていると、1人にして置いたら食事も忘れて悩んでそうだし。気晴らしくらい付き合うぞ」
「ありがとう。そうだね。僕までまいってしまったら詩歩は本当に一人ぼっちになってしまいそうだ。行こうか」
 中庭に面したカフェテラスで軽食を取りながら、ホウユウはまずは打ち解けるために自分の家族のことなど話していた。たくさんの妹の自慢話やまもなく生まれてくる子供のことなどを明るい表情で話すホウユウに、政志も次第に表情を和ませていった。しばらくそんな風に雑談を交わしていたホウユウは、頃合を計って詩歩のことに話題を振っていった。
「うちの妹たちとは違った感じだけど、詩歩お嬢さんも可愛いよな。可愛がっているんだろう?そういえばさっき変なことを言っていたな。自分に何かあったら詩歩お嬢さんが一人ぼっちになってしまうと。両親とかどうしたんだ」
 ついと政志の顔が暗くなった。そして立ち上がると、人目をはばかるようにしながら中庭の端にある階段にホウユウを誘った。
「この間、車の事故で亡くなったんだ。それで詩歩は寮のあるこの学校に編入してきたんだ。僕もいたしね。うちの両親も詩歩のことを気にかけてないわけじゃないけど、何故だか引き取りたがらなくて」
「言いづらいだろうけれど、その理由はわかっているのか?例えば、今学校で起きているような怪現象が、彼女の小さな頃から起きていたからだとか。心当たりは?」
「それについてはよく知らないな。ただ……そうだね。詩歩がかなり小さな頃から、おじさんたちはよく引越しをしていたよ。理由を聞いても気分転換のためとしか答えてくれなくて。おかげで詩歩にはなかなか友達が出来なかった。いつも1人で家にこもって遊んでいたよ。僕にはなついてくれていたけれど、昔から無口な子で、感情を表に表すこともあまりなくて」
「霊現象だとも考えられる。彼女にそういう能力はあるんだろうか」
「さあ……あ、ただ詩歩の両親は2人とも超心理学の研究者だった。なにか関係があるのかな」
「超心理学ですの。それは興味深いですわね」
 話に割って入ってきたのはライン・ベクトラだ。いつの間にか政志の隣に立っていて、魅惑的な笑みを政志に向けていた。政志がまぶしそうに見返しながら問い返した。
「興味深い?なぜ」
「わたくしは異世界出身の両親からそれぞれの能力を受け継いでいるのですわ。あなたの従妹が同じように親の力を受け継いでいる可能性があるのではないかしらと思って」
「その力が今起きている事件を引き起こしてるとでも言うのかい」
 政志が困った顔をすると、ラインは少しむっとしたように指を突きつけて言い放った。
「ねえ?こう考えることは出来ないのかしら。いいこと。これまでの事件で死者はでていないわ。つまり、「最悪の事態」は起きていないのよ。だから詩歩さんの能力は、事故を招くのではなく、最悪の事態を回避する能力ではないのかしら。それを回避させる何かがあるのかもしれないわよ」
 それを聞いて政志が目を見張らせた。
「そうか……そういう考え方もあるんだな。ありがとう。そう思ってくれる人がいて心強いよ」
 素直に感謝を表されて、ラインが少しだけ照れたように上げた指を下ろした。そして腰に手を当てて胸をそらせながら言い放った。
「ご両親は亡くなられているのでしたわよね。それ以前の彼女はどういう感じの少女だったのですの?今みたいに孤独だったわけではないのでしょう」
「いや、それは。さっきホウユウにも言ったんだけど、引越しが多かったせいか昔からあまり友達づきあいのない子だったんだ。両親が研究者だったせいかな。人と付き合うより本を読むほうが好きな子で、外に出ないで家で1人で遊んでいるような。たまに僕が外に連れ出しても、遊園地とかにぎやかな場所より自然の中にいるほうがくつろいでいるような感じだったな。だから僕も自然と、そういう場所を選んで連れまわしていたんだけど」
「まあ、小さい頃からそうでしたの?」
「うん。雰囲気はあまり変わってないかな」
「それではいじめとかにあっていたのではないかしら……」
「それはわからない。ありえない話ではないけど。言えることはあの子の両親が、あの子を溺愛していたってことだけだよ。1人残して死んでしまって、さぞかし心残りがあるだろうな」
 少ししんみりした雰囲気を破ったのは、いきなり現れたトリスティアだった。
「ねえ、キミたちも特撮研究会に入らないかい!」
「は?あら、トリスティアさん」
 トリスティアは部室から持ち出してきたのか、白いリボンタイの黄色いシャツに赤いベスト、白のミニスカートの下には動きやすいようにスパッツをはいている。レッドクロスを装着したその姿はさながら正義のヒロインだ。細身で小柄なのでやや幼く見えたが、明るい表情は屈託がなく包容力を感じさせる。トリスティアは笑いながらラインの腕を引っ張った。
「今、部員大募集中なんだ。ラインなんかスタイルがいいし、雰囲気大人っぽいから、悪の女幹部役なんか似合うと思うんだ。さすがにボクじゃそういうお色気路線って狙えなくてさー。ね、ちょっと話を聞くくらいしてよ。来て来て!あっ、やばっ」
「きゃああ!」
 あまり興味を持ってないらしいラインが抵抗するので、強引に連れて行こうとしたトリスティアは、背中を向けて政志の方を向いてしまったラインの服を勢い良く引っ張った。はずみがついてラインの服がびりっと大きく裂ける。ラインはとっさに胸を隠したが、白く滑らかな肩は明るい日差しにぺろりとむき出しにされてしまった。
「ごっめーん」
「ごめんじゃありませんわ」
「惜しいな。俺の好みとしてはもうちょっと胸が大きい方が。うちの妻なんかすごいぞー」
「なにをおっしゃってるんですか!」
 口を滑らせたホウユウにラインが張り手を喰らわせる。政志が赤くなりながらラインを後ろ向かせた。
「とりあえず人に見られる前に着替えてきた方がいいよ。大丈夫、じゅうぶん魅力的だと思うから」
「しっかり見てらっしゃるんですのね!」
「あ、ごめん。つい」
「部室行こうか。衣装ならたくさんあるよ」
 すっとぼけて勧誘するトリスティア。ラインは政志も引っ叩こうとみもがいていたが、頬を紅潮させた政志が押さえていたので振り向くことはかなわなかった。やむなく後ろ向きのまま宣言した。
「詩歩さんの能力のことを考えるなら、事件の犯人は噂を流した人物だと思うのですわ。きっとまたいたずらをするはず。夜の学校を見張っていれば捕まえられると思うのですの。付き合ってくださいますわね」
「僕が?」
「は、裸を見た責任を取ってくださいませ!決して心細いわけではありませんのよっ」
 ラインの頬がかーっと赤くなる。政志は言葉の裏にある心情を思って、苦笑しながら承諾した。

 その頃、事件のあった場所に観測機器を設置し終えた武神鈴は、自分の控え室にこもってモニターの調子を確かめていた。
「科学と魔導の殿堂であるこのSアカデミアで、根も葉もない噂が流布するなど、教師の1人として放っておくわけには行かない。しかも学内で破壊活動だと?しかも原因不明とあれば……ふふふ、真実は常に1つ!犯人よ、この俺の追及の手から逃れられると思うなよ。くくくくく……あははははは……あーっはっはっはっ!」
 小部屋から響いてくる謎の高笑いに通行人がぎょっとしてそそくさと立ち去る。そんな外の状況など露知らず、鈴はかたかたと手を動かしてモニターをいじっていた。事件が起きたのは基礎過程の教室のいくつかと図書室、実験室などだった。それらの天井の片隅に目立たないように取り付けられた観測機器は、そこで動いている人たちを忠実に映し出していた。
 図書室ではミズキ・シャモンが熱心に古文書に目を通していた。歴史のあるSアカデミアだ。過去にも同じような例があったのではないかと思い調べていたのだ。さすがに異世界との交流が盛んな世界なだけはある。どうやら友好的な状況ばかりだったわけでもないらしく、時には戦争のような事態も起きていたらしい。また異界から侵略者が現れたこともあるらしい。
「むう、戦争でございますか。今は平和とはいえ、いつまたそういうことが起きるかわからないということですわね。だから兵法書も充実しているのですか。おや、これはなかなか。兄に読ませておかなくては」
 歴史書と一緒に見つけた兵法書を、兄のホウユウに書き写させるためについでにかたわらにどんどんと積み上げていくミズキだった。頬をさすりながらやってきたホウユウは、その膨大な量にあきれ返っていた。ミズキがどんと机を叩いた。
「これも修行の一環ですわよ。全部書き写し終えるまでは帰ってはいけません」
「わかったよ。で、そっちはなにか収穫があったのか」
 あきらめたように隣に座ってノートを広げたホウユウの問いに、ミズキは眼鏡の縁を指で押し上げながら難しそうな顔をした。
「いわゆる怪奇現象のようなものは、多々あったようですわ。原因としては生徒の特殊能力によるものがほとんどのようですわね。いわゆる超能力や霊能力によって引き起こされたもの。ほかに異世界との接触で起きた事故のようなものがあったようですわ。今回の一件もそういう事例の1つかもしれませんわね」
「特殊能力ね。問題は誰がやったかということか」
「そういうことですわ。ほら、手がお留守になっていましてよ」
「わかったわかった」
「異世界との接触による偶然の事故という可能性も否定できません。怪しい場所にはあとでわたしが見張りに式神を配置しておきましょう」
 会話を聞いていた鈴が、ふむと首をかしげた。
 別の教室では、ちょうど授業のない時間にあたっていたらしく、猫間隆紋が1人でなにやらがさごそと動いていた。今は整頓されてもとの位置に戻っているが、つい最近にここでは、机や椅子全部が人気のない時間に勝手に端に寄せられるという事件が起きていた。隆紋は愛用の筆記用具を取り出すと、手近な机や椅子にささっと呪文を書き付けた。
「なにをしているんだ」
 興味を引かれて鈴がまじまじとモニターを見詰める。画面の中では隆紋が左腕を振って錫杖を取り出したところだった。それを構えてなにやら念じている。と、呪を書かれた机がてんでに喋り始めた。
「……ええ、あのときは本当にびっくりしました。なにか見えない力が急に押し寄せてきて」
「見えない力だって!いいや、あれは動物だった。こう、ぐいっとおいらに頭を押し付けてきて」
「もーなにがなんだかわからなかったわよ。うるさいのがいなくなって、静かに眠っていたのに、急にうるさくなって。夜は寝るものだわ。でないと木目が痛んじゃうんだから」
 机も美容は気にするらしい。一斉に喋られてわかりにくかったが、何かが夜の教室に現れたのは確かなようだ。姿が見えないということは、動物か何かの浮遊霊ということだろうか。と、ぽつりとつぶやいた椅子がいた。
「悪い感じはしなかったわ。なにかを慕っているような……そんな暖かい感じがしたの。ただ慣れない場所で力が暴走してしまっているような、そんな感じ」
「慕っている……?もしかして『彼女』をか」
 思わず隆紋がつぶやく。周囲がまた騒がしくなった。
「あー、暴走ってのは言えてる。ちょうどお天気が悪い日みたいだったよね」
「意地悪な感じはしなかったです。自分でも力の加減が出来なくて慌てているみたいでした」
「うーん」
 モニターの向こうとこちらで隆紋と鈴が同時にうなった。両方の情報をあわせると、どうも異世界との接触が事件の原因のようだ。ただそれが偶発的なものなのか、詩歩に何らかの能力があるせいなのかは分からなかった。
「ともあれこのことは学長に報告しておこう。どうやら彼女がまったく関係ないということはなさそうだからな。事実関係がはっきりするまでは公には出来ないが。愚か者はデータだけ見て下らん推測を立てるからな。そういえば当の本人はどうしているんだ」
 再びモニターをいじって詩歩の姿を探し求める。詩歩の姿を捉えたのは基礎過程の校舎の廊下であった。
 詩歩は1人ではなかった。アクア・エクステリアが隣を歩きながらあれやこれやと話しかけていた。どうやら先輩として学内の様子などを説明しているらしかった。来たばかりで不慣れな詩歩は、明らかに親切とわかる行為を邪険にするような態度はとっていなかったが、幼い顔には何の表情も浮かんでいなかった。周囲からは遠巻きにした生徒たちのひそひそ声が聞こえてくる。その声も届いていないかのようだった。だが詩歩はすっかり要注意人物として有名になってしまっているようだ。神秘的な美貌が余計に目立たせているのだろう。噂に動じない態度も知れ渡っていたが、それが反感を呼んでいるようだった。
「詩歩サン!ランチを一緒にどうデスか」
 ざわめきが大きくなった。声をかけられた詩歩もさすがに少し驚いた顔で相手を見つめた。明るく声をかけたジュディ・バーガーは、詩歩の返事を待たずに、その肩を抱くと軽々引き寄せながら歩き始めた。
「ジュディ、美味しくてボリューム満点のベーグルサンド持って来たデス。栄養もたっぷりネ。育ち盛りは食べなきゃだめデス。特にランチはね。勉強も大事デスけど、食事も大切!お天気もイイですし、思い切って外で食べまショウ。レッツゴー!」
 はいもいいえも言えずに詩歩が連れ去られていく。アクアが驚きながらついていく。追いかけていったのはアメリア・イシアーファだ。アメリアも手に大きなバスケットを抱えていた。中庭の日当たりの良い場所で敷物を広げているジュディに向かって、息を切らせながら問いかけた。
「お昼なのぉ?だったら一緒に食べてもいいかなぁ。私もねぇ、詩歩に食べてもらいたくてサンドイッチを作ってきたのぉ」
「もちろんいいデスよ!さ、詩歩サン。座って座って」
「お茶も持って来たのよぉ。園芸部オリジナルのハーブティを分けてもらってきたのぉ。サンドイッチは家庭科部仕込だから自信作なの。食べてくれるとうれしいなぁ」
 手招きするジュディとアメリアに、詩歩はしばらく戸惑っていたようだったが、気をきかせたアクアが背中を押すと、素直に座り込んだ。こういうコミュニケーションにはなれていないのだろう。少しだけ顔が赤いように見える。並べられた食べ物を前にしても、すぐには手を出さなかった。だが根は素直なのだろう。アメリアがサンドイッチの一切れを取って差し出すと、嫌がりもせずに受け取ってぱくりと食べた。
「……美味しい」
 小さなつぶやきにアメリアが笑顔になる。ジュディも負けじと自分の持って来たベーグルサンドを持たせた。ジュディらしい豪快な食べ物に詩歩が目を丸くする。それでもぽそぽそと一生懸命にかぶり始めた。そうしていると歳相応にあどけない。ジュディは庇護欲をそそられて、まるで母親になったかのような気分で頬についてしまったパンくずなどを払ってあげたりしていた。詩歩は無口だったが、アメリアはのほほんと自分の兄の話などをしていた。
「詩歩もここに従兄がいるんだったよねぇ。仲いいの?」
 政志の話題を振ると、ベーグルサンド攻略の途中でお茶を飲んで一息入れていた詩歩は、首をかしげてから小さくうなずいた。
「……兄さまは優しいの」
 返事が返ってきたことに気をよくして、アメリアが兄の話を続ける。ジュディはその光景をほほえましく眺めていたが、周囲のひそひそ声に、詩歩には気づかれないようにぎっと視線をめぐらせて黙らせた。ぴたりと止んだ会話に気づかないのか、詩歩はまた黙々と食べていた。最後の一かけを飲み込むと、ふぅっと満足そうなため息をもらした。
「あの……ええと」
「ジュディです。遠慮なくジュディと呼んでネ!」
 詩歩の戸惑いを察してジュディが名乗る。詩歩は口の中でジュディの名前をつぶやいてから、意を決したような表情で2人を見回した。
「いいの?」
 やはり本当は噂のことは気にしていたらしい。詩歩の問いかけに、ジュディが明るく笑った。
「噂なんてノープロブレムね!詩歩サンはなにもしてないんでショウ。ドウドウとしていていいんですヨ。いじめる奴がいたらすぐにジュディに言って。そんな卑怯な奴はジュディが許さないネ。詩歩サンはジュディが守ってあげる」
 力強く言ってドンと胸を叩く。大柄なジュディはそれだけで頼もしく見えた。アメリアもとなりでうんうんとうなずいていた。相伴にああずかっていたアクアが、立ち上がってさっと衣装を羽織ると、舞を披露し始めた。衣装に縫い付けられたたくさんの鈴が美しい音色を響かせる。音色は中庭中に広がって、詩歩たちだけでなくその場にいたもの皆を楽しい気持ちにさせていった。
 さすがの詩歩もうっすらと微笑を浮かべていた。舞が終わるとそっと拍手も送る。アクアはにこりとすると再び隣に座り込んだ。
「楽しんでもらえましたか?だったらよかったですう。詩歩さん、ずっと辛い思いをしていたんでしょう。私でよかったら味方になりますから、安心して学園生活を送ってくださいね。ご両親もいらっしゃらなくてさびしいでしょう。友達になりましょうねえ」
 詩歩がつと下を向いた。
「友達……」
「嫌ですか?今まではあんまり友達がいなかったんですか」
「人は……」
 何か言いかけてやめる。ジュディがくしゃくしゃと詩歩の頭を撫でた。
「ジュディも友達ネ!アメリアも!コレでもうさみしくないネ、詩歩サン」
 と、やんでいたざわめきが急に大きくなった。アメリアが視線をめぐらすと、40代半ばくらいの意地の悪そうな顔をした女教諭がこちらにやってくるところだった。腕に包帯を巻いている。ジュディがさっと詩歩を背にかばう。背後にかばわれながら、詩歩がはっとした顔になった。
「ガウ先生」
「あらあ、よくまあのんきに食事なんかしていられること。あなたたち、この子の噂を知らないの」
「噂がナンだっていうデスか。詩歩サンはいい子デス。人を傷つけたりするような子じゃナイね!」
 ガウ教師は鼻でせせら笑った。
「でも実際に事件は起きているのよ。現に私が被害者ですもの」
 そう言って包帯を巻いた腕を差し出した。
「確かにこの子が暴力を振るったわけじゃないわ。そばにいただけ。でも不幸な偶然というには出来すぎなのよ。いきなり突風が吹いて壁にたたきつけられるなんて普通じゃありえないわ。いいえ、あれは風なんかじゃなかった。なにかがぶつかってきたのよ。目には見えなかったけれど。きっと異世界から何かを呼び出したんだわ。きっとそうよ」
「先生はソノ時、なんで詩歩サンと一緒にいたデスか」
「生徒指導担当として、なにかとコミュニケーション不足のその子を叱っていたのよ。いくら自由な校風とはいえ、集団生活を送る以上は必ず決まりというものがあるのよ。成績が良かったらそれで良いというものじゃないの。わかるでしょう?人と上手く付き合えてこそ、社会に役立つ人間になれるのよ。ラングリアさんはその点、人の輪に入るのを拒んでいるように見受けられるわ。違う?」
 詩歩はついと横を向いただけだった。それが余計にガウの怒りに火をつけた。
「ほらまたそうやって黙ってしまう。自分からなにか言い出したらどうなの」
「先生、やめてくださいぃ。詩歩だって傷つかないわけじゃないのぉ。そんな風に追い詰められたら、余計に何もいえなくなちゃうよぉ」
 アメリアが自分の方が辛そうにしながらガウに食って掛かる。ジュディが守るように詩歩を抱きしめる。ガウはさらになにか言い募ろうとした。
 その瞬間、そばの窓ガラスがガッシャーンと派手に砕け散った。あたりが静まり返る。幸いにして砕けたガラスで怪我をしたものはいなかったようだが、やりとりが注目を集めていた最中の出来事だったため、周囲の感心が一気に詩歩に集まった。ジュディが詩歩を抱きしめたままあたりを見合してけん制すると同時に、ガラスを割った犯人を捜した。しかしそれらしい人物は見当たらなかった。アメリアはペットの精霊ジルフェリーザを呼び出して、壊れた窓の修復をしていた。ガウが引きつりながら後退った。
「ほら、今だって風もなかったのに。それとも誰か石でも投げた!?」
 周りにいた人間が、にらまれて慌てて皆、首を振る。アメリアがジルフェリーザに問いかけた。
「何か邪悪な気配を感じたぁ?」
「いいえ。あの人間の怒りや周囲の恐怖は感じましたが、邪悪と呼べる気配は何も。ああ、でもなにか怒りのようなものはありましたね。彼女からではありませんでしたが」
 ジルフェリーザの答えにアメリアがほっとしたような顔になる。少なくとも詩歩が怒りにまかせて何かしたわけではないらしい。ガウは忌々しげな顔をしたまま立ち去っていった。ジュディは抱きしめた腕の中の体がかすかに震えていることに気づいた。
「ヘイ!詩歩サン、モウ大丈夫ネ。嫌な奴は行っちゃったカラ」
 明るく言って顔を覗き込むと、詩歩は少しだけ悲しそうな顔をしていた。
「ミナ・ガウ先生だって、悪い人じゃない。あのときだって……普通に、もっとみんなと仲良くしなさいって……そう言っていただけなのに。なのに、いつもみたいな……」
「いつも?」
 アクアが問い返す。つい口を滑らせた詩歩が、困った顔で慌ててジュディの体を押し返した。そして急いで荷物を持ち上げると、その場から逃げ出してしまった。アクアとジュディが顔を見合わせた。
「いつもって言っていましたね。昔からこういうことがあったのでしょうか。学園に来たのは両親がなくなって、従兄がいるからだと聞きましたけれど、もしかしてこういう現象のことを調べるためだったのではないかしら」
 アクアはその辺に事件の真相をとく鍵がありそうだと考えた。
「待ってよぉ。確かに事件は多いけれどぉ。ジルフェリーザが、詩歩からはなにも感じなかったって言っているものぉ。詩歩がやったんじゃないよぉ。でも自分のせいだって思っているのかなぁ……」
 ジュディが憤慨した顔になった。
「そんなのオカシイネ!詩歩サンがやってないなら、気にするコトない。カワイソウな詩歩サン……」
「もっとちゃんとしたことがわかるといいねぇ。あ、お昼休み終わっちゃう!私、アルトゥールのところに行ってこなくちゃ」
 気にはなるものの、現状では原因がつかめない。詩歩の意思で事件が起こっているわけではないことがわかったくらいだ。アメリアは恋人のアルトゥール・ロッシュのところまで急いで駆けていった。廊下で張り出されていた校内新聞を見ていたアルトゥールは、危なっかしい足音に振り返ると、立ち止まり損ねてけつまずいてしまったアメリアの体をとっさに抱きとめた。
「ありがとぉ」
「廊下は走っちゃいけないよ。そんなに慌ててどうしたんだい」
 アメリアは照れたようにごまかし笑いをしてから、今しがた起こったことを急き込むようにアルトゥールに話した。アルトゥールが難しい顔をした。
「意思とは関係なく、でも何かが確かに起きているってことか。やっぱりここはきちんとした調査が必要だな」
 校内新聞には探偵部からの要請が書いてあった。

 午後は基本的に一般教養を学ぶことになっている。だから専門が違っていても同じ教室で学ぶことはよくある話だった。レイシェン・イシアーファはそれを利用してちゃっかり詩歩の隣の席を確保していた。しかしだからと言ってなにをするわけでもない。詩歩も無口なせいか、同じ年頃のわりには無表情でなにを考えているのかわからない2人が並んで座っている図というのは、なんとなく迫力があった。レイシェンの相棒の精霊のティエラが、耳元でささやいた。
「まーったく。本当に隣の席になっちゃうんだから。このままお友達路線に突入する気!?」
「ティ、うるさい。授業が始まる」
「わかってるわよ!どうする気なのか聞いてるだけじゃない」
「……別に、どうも」
「べ、別にってねえ。はぁ、まったくレンなんだから」
 レイシェンの反対側にはくまのぬいぐるみが置いてあった。もといテオドール・レンツが座っていた。こちらは専門が同じ心理学だということで、気になって近寄ってきたのだ。最初はただのぬいぐるみの振りをしていたのだが、さすがに教室にぬいぐるみがあるのはいささか不自然だ。気づいたら隣にあったぬいぐるみを、誰かからのプレゼントだと思うほど、詩歩も単純ではなかった。それでもいちおうレイシェンに聞いてみた。
「……あなたの?」
 レイシェンはじっとテオドールと視線を交わしてから、黙って首を横に振って否定した。疑問に思いつつも、やはり可愛いものにはそれなりに興味があるらしい。詩歩がそっとテオドールに手を伸ばした。撫でてみようと思ったらしい。そこで詩歩を観察していたテオドールの視線とぱったり視線が合ってしまった。つぶらな瞳には感情は浮かんでいなかったが、見ていれば完全な無機物とは違うことがわかる。詩歩がおびえて身を引いた。肩がレイシェンとぶつかる。それで気がついて、レイシェンがテオドールに話しかけた。
「……喋れば?怖がっているよ」
「あー、かばっているっ」
 やきもちを焼いたティエラが騒ぐ。肩に座らせてなだめていると、テオドールが動き始めた。
「驚かせちゃった?ごめんね。ボクは生きている人形なんだ。ここへは詩歩ちゃんと同じく、心理学を学ぶためにやってきたんだよ」
 声をかけられて詩歩が驚きの色を目に浮かべた。
「詩歩ちゃんはどうして専攻を心理学にしたの?」
「……」
 詩歩が黙って首をかしげる。テオドールは微妙な表情を観察しながら話を続けた。
「ボクはねえ、みての通り人形でしょう?ママの愛情があったからこうして動けるようになったけど、人の心はまだ難しくて。だから知りたくて勉強しているんだよ。詩歩ちゃんは?」
「……私も。人はなぜ未知のものを恐れるのか、興味を引かれたりするのか、知りたくて。わかりたくて。勉強しているの」
 詩歩を取り巻く生徒たちのざわめきには、理解しがたいものへの恐怖が混じっている。それも知りたいことの1つなのだろうか。テオドールは詩歩の返事に深い興味を抱いた。
「詩歩ちゃんも面白いね。ね、せっかく専門がおんなじなんだし、一緒にいてもいい?詩歩ちゃんを見ていたいな」
「……でも……良くないことが、起きるかも……」
 昼休みの出来事を思い出して詩歩が答えると、テオドールはつぶらな瞳で詩歩を見つめたまま平然と答えた。
「それって怪我したりとかってこと?それなら大丈夫だよ。ボク、人形だもの。破れても自分で繕えるし。ほら、裁縫セットはいつも持っているんだ」
 そういって取り出すと、さすがの詩歩がくすりと笑った。
「あ、笑った」
 珍しい光景にレイシェンが思わず反応する。詩歩がうつむくと、レイシェンはぼそぼそと言った。
「……悪いことじゃ、ないと思う」
「……ありがとう」
 詩歩も小声で答える。と、肩で何かが動くのを感じた。顔を上げて自分の肩を見ると、そこにいたのは梨須野ちとせだった。ちとせは詩歩の肩に座って大人しくしていたのだが、3人のやり取りに自分の想像が当たっていたことを確信して無意識にうなずいていたのだ。その動きを気づかれたらしい。詩歩は小さなちとせにしばらく驚いていたが、気味悪がって振り落としたりはしなかった。ちとせは詩歩の無言の問いかけににっこり笑って答えた。
「はじめまして。私は梨須野ちとせと申します。どうぞよろしく」
「……こんにちは」
 とりあえず詩歩もそう返す。まだ驚いているのか、それきり黙ってしまったので、ちとせのほうが口を開いた。
「いきなり肩に乗ったりしてごめんなさいね。詩歩さんと仲良しになりたいのですけれど、なにぶん体が小さいでしょう。お話しするのにはこの方が便利なんですよ。お嫌ですか?」
「そんなことは……ないけど……。いいの?」
「お友達になりたいのに理由なんてありませんわ。同じ学生なんですもの。それで十分じゃありませんか。それとも、人と関わることを拒むのに、なにか訳がおありですの」
「……」
 詩歩は答えなかった。振り払ったりしないことが、嫌ではない証であると信じて、ちとせが優しくささやいた。
「詩歩さんはお優しいのですね。自分と関わった人が傷ついているから、なるべく関わらないようにしていらっしゃる」
「だって……怖いもの」
「そうですわね。その気持ちはわかりますわ。でもこのままではいけないと思います。結果には必ず原因があるものですわよ。それをつきとめませんか?私も微力ですがお手伝いいたしますわ。解決して、みなで遊びに参りましょう。ね?」
 そういってレイシェンやテオドールをながめる。レイシェンが目線で同意した。詩歩はうつむいていたのでそれに気づかなかった。ちとせは詩歩の髪を編みながら言葉を続けた。
「お1人で抱え込むよりも、誰かに相談なさってみるのもよいかもですよ。そうですわね、私はリスですから、「リスに独り言を漏らしてみる」なんてのはいかがです?」
 詩歩がきょとんとしてちとせを眺めた。ちとせはにこにこしながらその視線を受け止めた。やがて詩歩の目元が緩んだ。
「ありがとう……ここは、優しい人が多いね。そうね、皆で考えれば原因がわかるかも……これまで起きていたことすべての」
「これまで?」
「うん……ここで起きたことが、初めてじゃないの。小さいときから、よくあったことなの……だから、父様や母様は、私に悪い噂が立つたびに引っ越して。私を守るために……。いろいろと研究もしていたみたいだけど、真実を見つけるには私が小さすぎたから……親戚とかにも、ずいぶん辛いこと、言われていたみたいだし……」
 そんな両親の姿を見て心を痛めてきたのだろう。今の詩歩の孤高を守る姿は、自己防衛の表れだった。ちとせは編んだ髪をほどいて頭にしがみついた。
「ここはアット世界の象徴であるSアカデミアですわよ。きっと原因は見つけられます。そして詩歩さんが笑って過ごせる毎日がやってきますわ」
「そう……なるかしら」
「……大丈夫、うん」
 レイシェンも請け負った。ティエラがつんと首をもたげた。
「まったく頑固なんだからぁ」
「ティには言ったろ。詩歩は自分から人を傷つけるタイプの子じゃないって」
「はいはい」
 そこへ授業をしにエルンスト・ハウアーがやってきた。エルンストは出席を取るとさっそく授業に入った。基礎過程の授業ということで、専門の魔術学を要領よく基礎から説明していっていた。しばらくはかりこりとノートを取ったりする音のみが教室内に響いていた。老人ながらエルンストの声はよく響く。こつこつと梟の杖をつきながら教壇を左右に歩き回り、自説を朗々と語っている。レイシェンが小声で詩歩に問いかけた。
「なんでこの授業を取ったんだ」
「……魔術を、神秘主義ではなく科学的視点から研究しようというのが、役に立つと思って。その……私の……」
 自分の身に起きている現象について研究するのにということだろう。会話が耳に入った学生から、文句のようなものが聞こえてきた。耳ざとくそれを聞き取ったエルンストが、すかさずその学生を指名した。
「なにか質問かね」
「あ、いえ、その……先生は、呪いとか信じますか」
 釣られて質問してしまった生徒が、周囲から非難の目を向けられる。やがてそれは後ろに座っていた詩歩に向けられた。詩歩が顔をこわばらせていると、エルンストがふぉふぉふぉと笑った。
「例の噂の件じゃな。では詩歩君、前に出てきたまえ」
 ちとせを肩に乗せたまま、詩歩がおずおずとエルンストの前に立つ。エルンストは背広の襟をちょっと直すと、梟の杖を詩歩の前にかざした。
「噂では詩歩君が自分に関わった者に呪いをかけているということじゃったな。実際にそのような魔術的・呪術的力が働いているなら、ワシのこの梟の杖に記録されるはずじゃ。よしもう席に戻っていいぞ」
 詩歩がとことこと自分の席に戻る。座ったのを見届けてから、エルンストは杖を振りかざした。
「じゃが今現在、この杖にはなんの記録も残されてはいない。つまーり!詩歩君は呪術を使ってはいないということじゃ。むろん、事件は実際に起きているからして、なんらかの原因はあるんじゃろう。ま、アンデッドのワシは大丈夫じゃろうが。勇者ナンちゃらやらよっぽど腕の立つ退魔師でもやってこん限り、ワシを退治するなんぞできんじゃろうからなぁ」
 そう言うエルンストには奇妙な迫力がある。生徒たちがどよめくと、エルンストはちっちと指を振った。
「そうそう、便宜上アンデットと言っておるが、ワシの魔術理論では正の力で動く生命体とは逆の負の力で動く『生命体』という意味で、反生命と定義しておるから、受講している諸君は間違えんように」
 反応が今ひとつだったので、エルンストはこほんと咳払いをしてから杖を高々と上げた。
「そうじゃ、これを見たまえ。これは暗黒魔術でゴーレム化した机じゃ。これに椅子をくっつけておれば、机に向かったまま部屋の中をすいすい動けるんじゃぞ。それ、自走式机〜!」
「うわ、うわわ」
 勝手に動き出した机と椅子に教室中が振り回される。悲鳴が飛び交う教室で、エルンストが高笑いしていた。
「どれ、面白いじゃろう。1つどうかね、ふぉふぉふぉふぉふぉふぉ」
 高笑いにあわせて机も揺れる。珍騒動は授業終わりのベルがなるまで続いた。

 放課後、まだ特に課外活動をしていなかった詩歩は、まっすぐ寮に戻ろうとしていた。そこを捕まえたのは複数の生徒を従えたミナ・ガウ教師であった。どうやらエルンストの引き起こした騒動を聞きつけていたらしい。それさえも詩歩がやったことだと決め付けて、激しく非難していた。
「ちょっと待ったー!先生、それはいいがかりってもんじゃないんですか。あれはハウアー先生のいたずらだったって聞いていますよ。そこのあんたたちも!なんでもかんでも人のせいにするのはどうなのよ」
 間に割って入ったのはミルル・エクステリアだった。風紀委員として、近頃の学内の治安の乱れは目に余るものがあった。確たる証拠もないのに大勢で1人を責め立てるようなこんな事態も、委員としてだけではなくミルル個人の性格からも見過ごせるものではなかった。手を腰に当てて互いににらみ合う。無関心に立ち去ろうとはしなかったが、詩歩はただ黙って立っていた。やがて同じ授業に出ていたレイシェンやちとせがやってきて、授業での騒動が本当にエルンストがやったことであることを代わりに釈明する。それでぶつくさ文句を言いながらもミナたちは去っていった。その姿が廊下の向こうに消えてしまうと、ミルルはそれまでずっと黙っていた詩歩に向き直り、きっぱりと言い放った。
「あのね!あんな風に言われっぱなしでいいわけ?確かにおかしな事件は起きているんだろうけど、今日の授業みたいにあなたとは関係のない別のちゃんとした原因があるかもしれないでしょ。それを確かめてみようとは思わないの?ぜんぶ1人で背負い込んじゃうつもり?」
「……1人でも、怖くないもの」
 はぁっとミルルがため息をついた。どこかよそよそしい雰囲気は大切な知り合いに似ている。それに、かつて実家で起きた騒動を一人で解決しようとして、結果的に知り合った仲間に救ってもらったことを思い出し、ミルルは詩歩を放っておけない気分になっていた。
「そんなの何の解決にもならないって。ねえ、本当に気の許せる友達とかいないの?いるんだったら、勇気を出してその人に何でも話したほうがいいよ。これだけの事態、あなた1人でどうにかできるわけないもの。仲間がいるってとってもすごいことなんだよ。力が何倍にもなるの。仲間をみつけなさいよ。怖いとか怖くないって問題じゃないの!」
「仲間……」
 詩歩の脳裏をジュディやアメリア、アクアたちの顔がよぎっていった。今もちとせやレイシェンがいなかったらミナたちから解放されなかっただろう。そんな風に力になってくれる友人がいる。硬くこわばっていた詩歩の心に小波が立った。
「あ、いらっしゃいましたわ。詩歩さん、こんにちは」
 思い悩んでいたところに、甘い香りとともに柔らかな声がかかって、詩歩は思わずぱっと振り返った。立っていたのはアリューシャ・カプラートだった。アリューシャのかたわらにはアルヴァート・シルバーフェーダが立っていた。アリューシャは穏やかな微笑を浮かべながら近づいてくると、手にしたバスケットを詩歩に差し出した。
「わたし、部活でお菓子を作ってきたんです。詩歩さんに食べてもらいたくて。甘いものはお嫌いですか?良かったら食べていただけませんか。味の方はアルバさんに見てもらったから大丈夫だと思うのですけれど。ね?アルバさん」
「えっ、ああ、うん。美味しかったよ。アリューシャが是非にというんだ。良かったらもらってくれよ」
 自分のためでなかったのがちょっぴり残念だったアルヴァートだったが、楽しそうなアリューシャの姿は微笑ましいものだった。何事にも真摯なアリューシャの態度は、アルヴァートの好きな姿の1つだった。それでやきもちを必死に隠して、アルヴァートもにこやかにアリューシャの手作りお菓子を勧めた。詩歩がためらっていると、ミルルが肩をぽんと叩いた。
「いいじゃん、せっかくだからもらっておけば?美味しそう、あたしも分けてもらっていいかな」
「もちろんですわ。詩歩さん、お嫌ですか?」
 アリューシャが寂しそうにすると、詩歩はふわりと笑ってバスケットを受け取った。
「ありがとう……母様が作ってくれたのと同じ匂い……嬉しい」
 懐かしむような表情が、詩歩の境遇を思い出させてミルルをしんみりさせた。アリューシャは同い年なのにどこか年上にさえ見える詩歩の神秘的な容貌にうっとりとしていた。白い手がバスケットから焼き菓子を取り出す。ほろりと口の中でとろけたそれは、アリューシャの愛情をいっぱいに感じさせて、詩歩はしばらく目を閉じてその感触に身をゆだねていた。張り詰めていた雰囲気が少し和らいだ気がして、アリューシャが嬉しくなって満面の笑みになった。
「お母様もよくお菓子を作っていらっしゃったの?詩歩さんはどんなのが一番お好きでしたか。次はそれを作ってきましょうね」
「うん……紅茶のシフォンケーキとか……チョコレートのカヌレとか……」
 ぽつりぽつりと話す詩歩は、そばにいたミルルや肩に乗ってきたちとせとかにお菓子を分けていた。料理部で一緒だったアメリアや、詩歩を心配して探しにやってきたジュディも相伴にあずかる。思いがけず暖かな雰囲気に囲まれて、詩歩がまぶしそうに立ち尽くす。それはこれまでに味わったことのない感情だった。氷が溶け出すように詩歩の心が緩んでいく。それを再び凍らせたのは、同じ基礎過程に在籍する生徒の群れだった。
 詩歩は見覚えなかったが、彼らはこれまで事故にあった生徒たちの仲間だった。そもそも事故にあった生徒も、意地悪な気持ちではなく、どこか近寄りがたい雰囲気の詩歩と仲良くなろうとしていたのだ。それが怪我を負ってしまって、なぜか詩歩におびえるようになっていた。気味が悪いと。だから自分の仲間と同じ目に会う人間がいないよう詩歩を見張っていたのだ。
 剣呑な雰囲気で囲んでくる生徒たちに、すかさずアルヴァートが反応した。アリューシャを下がらせ、詩歩の隣に立たせる。ジュディやミルルといった腕に覚えのある人間が前に出てくる。向かい合った生徒からは次々に罵詈雑言が浴びせられた。心無い言葉の数々に、アリューシャやアメリアが両脇から詩歩にしがみついてきた。アルヴァートは侮蔑したような表情でそれらを聞き流していた。それが癇に障ったのだろう。1人が転がっていた小石を拾って投げつけてきた。アルヴァートはひょいと顔をひねってそれを避けた。大した勢いではなかったが、アリューシャたちが小さな悲鳴を上げた。詩歩は少し曇った顔で毅然と前を見つめていた。
「そいつはきっと異世界の化け物なんだぜ!俺の友達が怪我したのも、そいつの仕業なんだ。仲良くなんかしない方がいい。一緒にいたらお前たちまでひどい目に会うぞ。それでもその化け物をかばうのか。お前らも呪いをかけるつもりなのか!?」
 叫んで飛び掛ってきた男子生徒のズボンがずりさがる。ベルトがすっぱりと切れていた。見るといつの間に抜いたのか、アルヴァートが手に剣を握り締めていた。男子生徒はズボンを抑えて真っ青になった。
「呪いだなんてばかばかしい。それに化け物だって?どう見ても普通の女の子じゃないか」
 ちんと剣をさやに収めると、アルヴァートは震えている生徒たちに平然と話しかけた。
「いいかい、次は本気で斬るよ。俺としては血を見るような真似はしたくないんだけど。特にアリューシャの前では……だから、させないでね」
 声に本気が混ざっていた。ジュディがピューと口笛を鳴らせた。アルヴァートはちょっと照れて手を振ると、にっこり笑って笛をかなで始めた。一曲が終わる頃にはなんとなく雰囲気が気まずいだけになっていた。すごんでいた生徒たちは、互いにざわめきながらひじで相手の体をつついていた。
「同じ学校に通う仲間なんだからさ。つまらない噂に流されないで仲良くやろうよ。ね?」
 それに畳み掛けるようにアルヴァートが言う。不承不承といった感じで生徒たちは立ち去っていった。
「詩歩!なにがあったんだ」
 騒ぎは他の生徒も巻き込んでいた。遠巻きにしている生徒たちの後ろから政志がやってくる。事情を聞いた政志は、皆に向かって頭を下げた。
「みんな、詩歩のためにありがとう。これからもよろしく。夜間の騒動については探偵部が中心になって調べてくれるそうだから、じき原因もはっきりすると思う。そうしたらこんな噂も消えてなくなるだろうから。詩歩もそれまで頑張って」
「うん、兄様」
 政志は詩歩が幼い頃から同じ目にあってきたことを知らない。もしも本当に事件の原因が自分にあるとしたら、今こうして寄り添ってくれる仲間も傷ついて離れて行ってしまうかもしれない。そう思った詩歩の声は硬く小さかった。

 しばらくは穏やかな日が続いた。ミズキの式神が異常を察知することもなく、鈴や隆紋の調査にも引っかかるところは特になかった。
 探偵部部長のディスタス・タイキはルシエラ・アクティア教師と顔をつき合わせて話しこんでいた。
「アクティア先生、ここも?」
「なかったわね。人為的な証拠は。魔法の痕跡なし。指紋も不自然に残っているものはなかったし。まあ、掃除するのに机や椅子を動かすから、まぎれてしまった可能性はあるけれど。でも、一度宿直のとき事件が起こったことがあるのよ。最初に見回りしたときはなんともなかったのに、2度目に見回ったらもう机が移動していたんだけど。魔法反応は感じなかったわね」
「2度って、そんなに何度も見回ったりするんですか」
 ディスの突っ込みに、ルシエラが内心で苦笑いする。見回りというのは建前で、実はちょっとした行動を取っていたのだ。それにはディスも関わっていた。「こいつわかっていてかまかけているな」と冷ややかに思う。ディスはディスでそらとぼけて言った。
「ああ、そういえば。変な事件が起きているから見回りを強化しているんでしたね。失礼しました」
「そうよ。こういったことは教師の役目ですからね。で?あなたたちも夜間警備に参加するの」
「ええ。何人か申し出てくれた人がいるので手分けしてやろうかと。このところは静かですが、いつまた事件が起きるかわからないですからね」
「そう。件の生徒には見張りをつけているから、もし彼女が何かしたら、すぐに知らせるわね」
「お願いいたします」
 実はそちらについては得ている情報がルシエラにはあった。事件と関係があるかわからないが、詩歩の周りで霊の気配を感じているのだ。見張りにつけているペットのレイスが感知していた。ただ事件との関連性を見出せなかったのでディスには告げられなかったのだ。
「ともあれ今晩から」
「了解」
「ディスさん、こんなところにいた。あ、アクティア先生、こんにちは」
「ジニアス、学長の方は?」
「ディスさんがやるんだったら全然問題ないってさ。信用あるんだな」
 ジニアス・ギルツが尊敬の気持ちを言葉に込めてやってきた。夜間警備は基本的に学校側の責任なので、生徒である自分たちが入り込む許可を取ってもらってきていたのだ。他にも下準備として、いろいろと聞き込み調査もやってもらっていた。
「この間、詩歩さんの仲間と反発する生徒との間で衝突があったらしいけれど、今のところ関係者が事故にあうことはないみたいだな。ああ、ガウ先生だけは昼間なのにガラスが割れたらしいけれど。そういや事故以来、宿直断っているって本当ですか?」
 あははと笑うジニアスにルシエラが肩をすくめた。
「ええ、本当よ。なんだかんだ言ってもおびえているらしいわ」
 ディスが目を細めた。
「ふうん。でも、ガウ先生の怪我もそんなたいしたことはなかったんでしょう。なんでも突風で壁にたたきつけられて、打撲や擦り傷を作ったとか。どうしてそんなにおびえますかね。あの女丈夫が」
「嫌な気配を感じたとか言ってるけど。本当のところどうなのかしらね」
 ディスはふむとあごに手をやった。そこへとうの本人がやってきた。
「ガウ先生、お願いがあるのですが」
 やけに丁寧なディスの姿勢に、ミナが警戒心露に立ち止まった。ディスはにこやかな態度を崩さないまま、有無を言わさない口調で申し出てきた。
「今晩から俺たちも夜間警備に出ることにしたんですよ。で、ガウ先生にも宿直に入ってもらいたいな、と」
「わ、私が!?いやでも怪我が……」
「もう良くなってるはずですが。ずいぶん長い間、当番変わってもらってるそうじゃないですか。いい加減、仕事しないと学長に怒られますよ」
「そ、それはそうだけど」
「……ばらしますよ?」
 さらりとディスが言う。なにをとは言わなかったが、じゅうぶん通じたらしい。ミナが冷や汗をだらだらと流した。
「わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば。今晩やるわよ。まったく、教師を脅すなんて」
 ぶつぶつと文句を言いながらミナが去っていく。「この悪党」とこっそり突っ込んでから、ルシエラが面白そうに理由を尋ねてきた。
「なんとなくですけどね。ここしばらく静かだったのは、条件がそろってなかったからじゃないかと。ガウ先生はすでに2回も怪異にあっていますからね、引き寄せる何かを持っているかもしれません。おとりになってもらいましょう」
 ディスがしれっと答える。ジニアスがあっけに取られた顔になった。
「わざわざそのために?なんかずいぶん嫌がっていたみたいだけど」
「本来、ガウ先生は男勝りの腕力と度胸で恐怖政治を敷くような性格なんだ。不思議現象くらいで怖気づくなんて柄じゃない。実際、2回目の怪異のときは噂の生徒に食って掛かってたって言うじゃないか。それがああも嫌がるってのが納得できなくてね。何か裏があると思ってもおかしくないだろう。真相を確かめるにはやってもらうのが手っ取り早いさ」
「なるほどね」
「さて、じゃあ今晩からやるか。ジニアス、他のメンバーにも伝えておいてくれたまえ」
「わかった」
「怪現象が起きたらわたしにも教えてちょうだいね」
「いいですよ。その代わりアクティア先生も、なにか情報を掴んだら教えてくださいね」
 互いに含みを持った笑みを交わす。そのときにはジニアスは仲間に行動を伝えるべく立ち去っていた。

 ひたひたひた。アオォォーン。どこからともなく遠吠えが聞こえる。アルトゥールが「しっ!」とシエラ・シルバーテイルをたしなめた。シエラは遠吠えした姿勢のまま固まった。
「あ、あんまり月がきれいだから思わず……って、遠吠えしたからって犬じゃないからね!わたしは狼よ。間違えないでね」
「わかったから。で、ディス。次に異変の起こりそうな場所ってめぼしついているのかい」
 呼びかけられて、ディスが振り向く。手にはモバイルコンピューターを持っていた。画面に映っているのはどうやら校舎の見取り図のようだ。印がついているのはこれまでに怪異が起きた場所だろう。だが印はいくつかに分かれていた。聞かれてあっさりとディスが答えた。
「俺たち以外にもモニターしかけたり、単独調査したりしているのがいるからね。色分けしておいたんだよ。ちなみに宿直室はここ。見回り時間は……そろそろのはずだな。ん?シエラ、どうかしたのかい」
 シエラはちらっちらっと後ろを見ていた。そのたびに純白の体毛が夜闇にひるがえった。
「んーん、気のせい気のせい。それより調べるならちゃっちゃとやっちゃいましょう。あ、ついでに部室に寄るの忘れないでよね。私、そのために来たんだから」
「だったら先に行ってきちゃえば?待っていてあげるから」
 アルトゥールがそういうと、シエラががるるっと吼えた。
「そんなの怖いじゃ……あわわ、じゃなくて。ついでに調査の手伝いをしてあげようって言ってるんじゃない。人手はあったほうがいいでしょ。だいたいベタ過ぎるわ。誰もいない校舎だなんて、ほんとに誰もいなかったら、誰もいないなんて誰にわかるのよぉっ」
 ぐるるると低くうなられて、噛み付かれそうな予感にアルトゥールが身を引いた。
「ふむ。それは確かに。霊でもいたりしてなー」
 明るいディスの意見にシエラが飛び上がった。
「霊って言うの禁止ー!あ、あれ。あれれ。……ね、ねえ。変なこと言っていい?振り返ると視界から消えちゃうからよくわからないんだけど、さっきから、わたしの背後に、白くてふわふわしたものがついてくるんだけど……」
「わっ!」
「きゃああああ」
 突然のディスの叫びにシエラが悲鳴を上げて駆け出した。シエラの後頭部にあるのは、シエラ自身の体毛。常夜灯に照らされて白く光っている。アルトゥールがぽんと手を叩いた。
「なあ、シエラが気にしていたのって」
「だろうな」
 意地の悪いことに脅かしたディスはくつくつと笑っていた。メモを片手にしたジニアスがつられて笑う。やがて息を切らせたシエラが戻ってきた。
「だからなんなのよっ」
「怖いものじゃないから大丈夫だって。ほら、部室についたよ。忘れ物があるなら早く取っておいで」
「くぅ〜ん」
 すごすごと部室の中にシエラが入っていく。待っている間、巡廻予定ルートをディスが説明していた。
「じゃあ、ガウ先生の見回りを見張るのか?」
「怪異に会うとしたらあの人が一番だろうからな。ま、ばれるとうるさいし、何も起きない可能性が高いからさとられないようにな」
 同じ頃、ファリッド・エクステリアは生徒会の依頼で単独調査を行っていた。一番最近に起きた事件の場所を再検証していたのだ。人為的に起こされたものなら必ず証拠が残っているはず。しかしそれらしいものは何一つ見つからなかった。破損した窓や床の傷も、どう見ても自然についたものにしか見えなかったのだ。
「おかしいな。自然すぎて返って不自然だぞ」
 一箇所だけではわからない。ほかも調べてみようと歩き出す。比較的大きな事件は図書室で起きていた。そちらに向かうと、中から明かりが漏れていた。覗き込んでみると、リオル・イグリードのそばにいる光の精霊レイフォースが光っていたのだった。
「なんだ。こんな時間にどうしたんだ」
 呼びかけると、リオルはうーんと大きく伸びをして軽く肩を叩いた。
「調べ物をしていたらこんな時間になっちゃったんだ。ファリッドこそ何しているんだ」
「例の事件の調査中。先日も大きな事件がここであっただろう。誰かが罠を仕組んだなら痕跡が残っているはずだからね。それを調べに来たんだ」
「そういうことなら手伝うよ。ちょうど僕もその事件のことは調べたいと思っていたしね。ミルルが噂の少女のことを気にしているみたいなんだ。風紀委員だからって言い張っているけど、個人的に心配なんだろうな。なんだかんだ言ってお人よしだから」
 恋人のことを話す口調はどこか優しい。妹の話題を振られて、ファリッドも素直に同意した。
「ああ、それは言えてるな。どうせ正直には言わないだろうけど。もっともリオルには素直なのかな」
「さあ?兄に対するほどじゃないと思うけど」
 軽いからかいをあっさり交わして、リオルはレイフォースに命じて図書室内をくまなく調べ始めた。しかしそこでもこれといった収穫は得られなかった。
「アクアも詩歩のことは気にしているんだ。彼女が無関係、むしろ被害者である証拠が押さえられたらと思っていたんだが。こうもなにもないとな。どう思う、リオル」
 とファリッドがリオルに呼びかけたときだった。どこか遠くでバリン、ガシャーンという派手な音と人の悲鳴らしいものが聞こえてきた。すかさず走り出そうとしたリオルに、レイフォースが告げた。
「なにか違和感を感じるわ。精霊でも人や動物の霊でもないみたいだけど、確かに「何か」がいるみたい。実験棟の方だわ」
「何か?やっぱり関わっている人物がいるのか」
「人とは限らないよ。とにかく行ってみよう」
 その物音はディスたちにも伝わっていた。真っ先に駆けつけるのはジニアスだ。コンピューターをいじりながらディスがそれに続く。毛を逆立てながらシエラもばたばたと追いかけていった。
 実験棟にはいくつかの視聴覚教室があった。やむなく当直を引き受けたミナは恐る恐るそこを順に見回っていた。超心理学が専門の彼女にとって、怪奇現象はむしろ歓迎すべき事柄だったのだが、なぜか今は心の奥のほうに強い恐れがあった。慣れたあたりに来て、生来の気の強さが首をもたげてきてその恐怖を押し殺していたのだが、実験室の一つに入ったとたん、堰を切ったように恐怖がミナに襲い掛かった。反射的に悲鳴を上げる。その悲鳴に呼応すかのように、机や椅子が勝手にがたがたと動き出した。ミナの腰が砕けて、へたりとそこに座り込んでしまう。目の前で机たちが狂乱のダンスを踊っていた。ガシャーンと派手な音を立てて窓ガラスが割れる。
「いやあああ!」
 そこへ飛び込んできたのはアンナ・ラクシミリアだった。アンナは机が踊っていることより、ガラスが散乱していることに憤慨していた。
「もー!誰ですか、こんなに散らかして。先生!ぼやっとしていないで片付け手伝ってください」
「あ、あなた怖くないの?」
「何がですの!?こんなに散らかっているのは許せませんけれど。えーと、とにかくまずガラスを片付けて。机!動かない!」
 見えない力でダンスを踊っている机に命令しても言うことを聞くわけない。椅子が笑った。というか、笑うかのようにカタカタと動いた。アンナは愛用のモップでだん!とそれを止めた。椅子はそれでぴたりと動かなくなった。アンナが満足そうに笑う。教室の明かりをつけると踊っていた机も静かになった。さっそく並べなおしていると、背後からリオルの声が響いてきた。
「危ない!」
 床に散らばっていたガラスが空中に浮かび上がり、へたり込んでいたミナに襲い掛かろうとしていたのだ。リオルが障壁を張ってその攻撃を防ぐ。すっかり腰が抜けてしまったミナをファリッドが抱え起こそうとした。ジニアスたちも駆けつけ、ひとまず廊下にミナを避難させる。中ではアンナがのんきに掃除をしていた。
「ちょっと待った。仕掛けがあるなら痕跡が残っているかもしれない。片すのは少し待ってくれ」
 ファリッドが呼びかけると、アンナが不思議そうに手を止めた。リオルはレイフォースから、先刻感じたおかしな気配が消えてしまっていることを聞かされていた。
「変な気配だって」
「精霊とか霊とかじゃないらしいんだけど。何かがいたことは確かなんだ」
「何もいなかったわよ!あなたも見たでしょう」
 ミナの叫びにアンナがうなずく。人でも動物でも、とにかくなにかの影のようなものは見えなかったことは確かだ。と、不意に灯りが点滅し始めた。
「なに〜」
 泣きそうな声でシエラが叫ぶと、ふっと明かりが消えた。窓の外に美しい半月が見えている。月光が教室の中に差し込んできて、様々なものの影を床に作り出す。その影が揺らいだ。
「あ、またよ」
 レイフォースが言うと同時に再び机が不気味に振動し始めた。原始的な恐怖にわおぉーんとシエラが吼える。と、振動は収まって灯りも元通りについた。しんと沈黙が落ちる。影が揺らいだのは気のせいではないだろう。ただはっきりした姿を捉えることは誰にも出来なかった。

 同時刻。面白がって様子伺いに忍び込んでいたルシエラは、レイスから奇妙な報告を受けていた。
「あら、あの子の周りで人物霊の気配?親しげだったの?誰かしら……亡くなったとか言う両親かしら。ふうん、これはいちおう伝えておいた方がいいわね」
 他には鈴の仕掛けたモニターに映った映像にも影はなく、ミズキの式神も破壊されてはいなかった。情報交換しあった面々は、まずはその人物霊について調べることにした。それと事件のあらましを一から検証立てて、事件発生のメカニズムを探ることになった。今回起きた場所は心理学の実験室だった。図書室についで詩歩に馴染みの深い場所だ。同時に、事件に直接遭遇したものには深い印象を与えるものがあった。
 半分といえど煌々とした光を放っていた、美しい月がそれであった。

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