ゲームマスター:田中ざくれろ
★★★ 停滞した空気が重い霧の如く立ち込めていた。 何処か遠くで子供達が無邪気に笑う声が聞こえた気がする。 トレーシ・ホワイト嬢と貧しきフィーナが遺産継承の為に呼ばれたエリザベス・ティアマンの館の一室で、もはや売文家チャック・ポーンは苦悶に身をよじった物言わぬ死体と化していた。 床で仰向けになった死体は衣服が荒れ、苦しみぬいた跡がある。 涙に濡れた両眼を見開き、大きな口が限界以上に開いている。実に口の端は頬まで少し裂けていた。顎が外れている。前歯も何本か抜けている様だ。 喉を右手が掻きむしり、爪がつけた新しい傷が幾条も赤く走っている。 左手は絨毯を掻いている。その毛足が短い青い絨毯には、彼の爪により記号らしきものが刻まれていた。 『 ![]() 密室殺人。 「これはどういう事なの……」 姫柳未来(PC0023)はちょっと拝んで冥福を祈った後、死体を調べ始めた。吠える様に裂けた口は歯が何本か不揃いに抜け、大きな物が喉が無理やり通った跡がある。 「気をつけてください、未来さん」 アンナ・ラクシミリア(PC0046)はもしかしたら殺人を犯した何かがまだチャックの腹内に潜伏しているのではないかと疑った。そして慎重に近寄ると、死体の腹部、胸部を手で押す。何の抵抗も手応えもない。 死後硬直さえ始まっていないチャックの中には何かが入り込んでいるわけではないらしい。 それならばそれでいい。もしこうしている最中にその殺人者がチャックの腹部を裂いて、血まみれで襲いかかってくるなど悪趣味的恐怖の極みだ。 「これは…… アンナは死体の歯に幾本か、黒い糸の様の物が絡みついているのに気がついた。 それは人間の黒髪だった。獣か何かの物とも思ったがどうやら人間の直毛の髪の毛らしい。 首筋で喉を掻きむしっているのは致命傷ではない。 苦悶した顔が赤くなっている。 窒息死。 それがチャックの死因だ。 喉の中も損壊して出血していた。 リュリュミア(PC0015)は死体を見る皆から離れて、この部屋にある通気口を調べていた。 天井近くの通気口。これはどの部屋にもあって恐らく各室の通気口と長い通気孔として繋がっているはずだが、大きさは縦横三十センチほどしかない。人間が通れるとは思えない。 「これじゃぁ、わたしでも通るのは無理ねぇ」 植物系で比較的関節がフリーでしなやかな身体を持つリュリュミアも素直にそう結論した。 フィーナみたいな小柄な子供なら通れるかも。だが、通気口は天井近くにあり、彼女の身長では登れそうにない。 二mを超える身長を誇るジュディ・バーガー(PC0032)に手伝ってもらい、ランプの明かりを中に射し込んでみる。 すると通気口の口の周りは執事のアダム・ボーマンが長柄のはたきでもかけているのだろうか埃がぬぐわれ、痕跡が残らないほどに奇麗になっているのが解った。 明かりをさらに奥へ押し込んでみる。 するとはたきが届かないほどの奥では、何かが積もった埃を拭った様な跡が残っているのが解った。 壁や天井に当たる部分も拭われている、という事はこの通気口一杯に広がる大きさの何かが無理やり通ってきたという事だ。 「ホワット・イズ・ディス」 ジュディは通気口の奥まで手を伸ばしてようやく届いた所に一枚の小さな紙片を拾った。 取り出してそれを皆に見せるとクライン・アルメイス(PC0103)はそれがチャックのメモのページの一部だという事に気がついた。 皆はこの部屋をあらためて調べた。 するとベッドの下に彼のメモ帳が見つかった。ただし、この依頼の事を記していたとみられる、最近の数ページが破りさられていた。強引にページをちぎり取っている。死体の懐に戻さず、ベッドの下に放ったのは殺人者が一刻も早くこの現場から離れたかった為か。 筆跡から見て、ジュディの拾った紙片はこのメモから破り持ち去られたページの一部分だというのは間違いない。破り去られた後、殺人者の身体に付着し、通気口の途中まで運ばれたという事だろうか。 紙片は直角三角形の形をし、書かれた文章は引き裂かれ、一部しかない。 『不審な死を遂げたデザイナーの中には 拷問器具の専 子供』 それだけしか読めなかった。 「彼独自の取材でしょうか」 クラインはその紙片をまじまじと見つめながら、感想を述べる。 「問題はこのダイイングメッセージよね」 未来は死体の左手が絨毯を掻いて書き刻まれている『 ![]() その時、壊された戸口の向こうから執事アダムがようやくやってきた。 部屋の中の凄まじさを確認した後、老執事は死というものに対面しても慌てもせずにただ「ゲストが一人減った様ですね」それだけを口にした。「死体の片づけは明朝以降にした方がよさそうですな」 「随分と落ち着いていらっしゃる様ですけど、もしかしてこの屋敷では死体が出る事は日常茶飯事なのかしら」 「私の性分です」 クラインの皮肉めいた言葉に、アダムが冷静に即答。 「この死体はどんな風に処理なさるおつもりですか」 「明日『トホーフト』まで行ってとりあえず葬儀屋にあたりをつけます。そこで葬儀屋から彼の知人に連絡が取れないかをお任せします。何にせよ、葬儀屋に頼むまではこちらが費用を負担せねばならないでしょう」 「じゃあ、明日になる前にこちらも検体しないと」 クラインは慎重にチャックの死体に触れ始めた。冷たくなりつつある嫌な感じだ。 『サイ・サーチ』を使う。 チャックの屍はただの死体だ。アンデッド化などしていない。 アダムも普通の人間の様だが……何か違和感がある。 苦しみ抜いた窒息死体。それが今のチャックだ。 クラインは絨毯の ![]() 「…… ![]() 「そうですか」顔色一つ変えない執事。 「一応容疑者ということで、アダムさんも簡単に身体検査をさせていただきたいですが、よろしいかしら」 「ご自由に」 クラインは、アダムの染みもしわも一つもない立派な執事服の上から身体検査をした。変わったところといえば六十歳代には思えないほど背筋がピンとしている細マッチョ加減か。 そんなクラインの横で、ジュディもチャックのダイイングメッセージに注目している。 そのシンボルの代表的な意味を熟考する。 「……セックス(性別)、マーズ(火星)、アロー(矢印)……もしやクッロク・ハンズ(時計の針)カナ」 ![]() 「この記号は素直に『男』っていう事を指してるんじゃないかな」 「男性? それで何を意味していますの」 未来の呟きを聞いたマニフィカ・ストラサローネ(PC0034)は疑問で応える。 「……いや、そこまでは解らないけどさ」 どうも現場が煮詰まっていない様だと感じたジュディは、マニフィカから一冊の本を借りた。 そしてチャックの死体に十字を切り、祈りを捧げる。 「アンノウン、解らない事があれば、本人に訊くのが一番ネ」 陰鬱なムードを吹き飛ばす様に、ジュディは明るい口調でマニフィカから借りた本をチャックの死体の胸の上に置いて、ページを中ほどから開いた。 『錬金術と心霊科学』。 マギ・ジス世界の聖アスラ学院の錬金術教授マープル先生が執筆したレアな魔術書だ。この本を開くと、生身の肉体を持つ者は精神体になれて、精神体は生身の肉体になれるという。ただし効果時間は短い。 それを置いたチャックの死体の上にまるで蒸気が集まる如く、色のついた空気が渦巻いて生身の肉体を作り始めた。赤、青、緑。三原色の光が渦巻いて瞬き、天然色の肉体が形作られる。 それを見たフィーナとトレーシがひっと引きつる。魔術などは滅多にみない人生だったのだろう。 「チャック」ジュディは自分の死体の上に現れたチャックの新しい肉体に質問をする。「フー・キルド・チャック、チャックを殺したのは誰ナノ」 「俺? 俺を殺した奴!?」肉体と化したチャックの霊体は、まるで全てから解放された様に明るく笑っていた。「言わないよ! 俺を殺した奴、ありがとう! 俺はこれからこの館で遊ぶんだ! 子供達と一緒にこの館で! 皆と転生するその日まで!」 キラキラと回転するチャックのさわやかな笑顔は、やがて色彩が溶け崩れる様に薄れ消えていった。 あまりの効果時間の短さは本を回収するマニフィカを慌てさせるほどだった。 霊体からの事情聴取は残念な結果に終わった。 クラインのサイ・サーチは今のチャックの霊体がまるで館全体を覆う結界の様なものに溶けていく、そんなムードを感じ取っていた。 八方ふさがりか。 沈黙の時間が長く過ぎた。 「どうしますか」 声をかけたのはアダムだった。 「このまま、この部屋で考え続けて朝を迎えますか」 それに応えて、ジュディは寝台の上からシーツを剥がし、横たわるチャックの死体の上にかけた。 「トゥモロー、明日考えマショウ。今日はこれで皆寝マス。一部屋には複数が泊れば、キャン・レスト・アシュアード、安心出来るでショウ。明日はフィーナのバースデーでス。是非ともグランパ・クロック、大時計の謎を解いて、盛大なパーティの準備金を受け取ろうじゃナイデスカ!」 落ち込み加減の雰囲気にジュディが明るく喝を入れた。 皆は気づいた。 そうだ。 明日はフィーナの誕生日じゃないか。 それに大時計の謎解きも待ってい.る。 ここで足踏みしていても体力回復にもなりはしない。 とりあえず休むというのは確かに名案だ。 皆はシートをかけられた死体を後に殺人現場の部屋から出た。 アダムは大階段を一階に降りていく。 皆は即興の組分けをし、複数で一部屋に泊まる事にした。
クラインとマニフィカ。 リュリュミアと未来とアンナ。 「トレーシとフィーナは、ジュディと一緒ネ」 まるで左右からすくい取る様に、しなやかで筋肉質な両腕はこの事件の依頼人と薄幸の少女を抱え込んだ。 ジュディとトレーシは館の適当な一部屋を一晩の宿とし、ダブルベッドでフィーナを守る様に川の字になって眠った。 明かりをつけたまま眠る者達。 誰もが寝静まった静かなエリザベス邸の中を、無邪気な子供の声だけが通廊を走っていった。 ★★★ 暖炉のマントルピースの上。壁に半ば埋め込まれる形で巨大な時計がとっくに時を刻む事を止めたままの姿でそこにあった。 「まさかとは思いますが」涼しい。貫頭衣を着たマニフィカは自分の身長より大きな大時計を見上げる。「謎解き自体が罠である可能性があるのではないでしょうか。遺産とは、呪いに類するネガティブな内容も含まれている可能性があるのでは」 ネプチュニア王国の王女は、さりげなく執事を見るが彼の表情は動かないままだ。 大時計にある二つの針と二つの窓。 これを正しい位置に調整して、固いネジを巻けば、大時計は動きだすはずだ。 朝食は使用人用の食堂で皆で摂ってきた。勿論、使用人がいる様な、またその生活感を思わせる気配はない。冒険者達は持ち込みの食糧を朝食にした。 皆の朝食が終わった頃にアダムは皆を呼びに来た。 そして、今、大時計の前にいる。 館の外では午前の空に太陽があるはずだが、窓を全て塞がれた館内は天井のシャンデリアに並んだ蝋燭灯の照明が三階まで吹き抜けのホールを照らしている。 執事アダムから「大時計の謎に挑むのは一人一回ずつまで」と釘を刺されているので、謎解きをしようという者達は試す順番を譲り合う状態だ。 しかし誰の顔もいまいち浮かない。。 誰も長針の謎解きにいまいち自信がないのだ。 ちなみにネジを回す係はジュディが名乗りでている。彼女の『怪力』なら巻く時間を二分くらいには短縮出来るに違いない。巻いたネジが戻る時間はやはり十分かかるだろうが、それでも時間短縮はありがたい。 「ところでアダムさん」クラインは、トレーシの背後にいる執事に声をかけた。「直接の遺産の受け取り手でもないわたくし達にも、謎解きの報酬を用意していただきたいですわ。……たとえば、オーガスタとあなたとの関係」クラインは先代の主人であるオーガスタ・モンローとアダムが同一人物ではないかと疑っていた。「オーガスタがエリザベスに財産を譲った経緯及び関係。……屋敷のモチーフである女神像の由来」 「時計が無事に動いたなら、その時に全てが解るでしょう」執事は背筋をピンとし、クラインを見つめ返す。「いや、女神像については言っておいていいでしょうね。彼女は私とオーガスタ様、そしてエリザベス様が共に信仰してやまない女神なのです。と、言っても世間には名を忘れられた古い信仰でございますね。弱者は善人によって救済されるべきなのです」 そんな会話が為されている大広間の時計際で、皆は大時計の仕掛けの位置をどうするか、首を捻っていた。 そんな時、アンナが挑もうと進み出た。 「まず『短針』の答はの数列は素数に見えるけど、21があるから違いますわね。『自然の中の黄金』というヒントが示すものは黄金……黄金比ですわ。確か3:5でしたわね。となると一つ前の数を足していけばいいので、答は10ですわね」 アンナは文字盤の短針を真上から10の位置まで動かした。 カチカチと金庫の回転錠の如き、小刻みな音を鳴らしながら短針が動く。 「四番目の答は双子座でないとすると天秤座……いえ、魚座ね」 右の小窓に出ている星座の十二宮のシンボルを切り替え、魚座の位置にする。 「三番目ですが……スフィンクスのナゾナゾに似てますわね。……答を足の数で2だと仮定するなら、ゼロの愚か者はヘビ、三倍して6は知恵の実である林檎を受粉する虫、四倍の8である足萎えの苦行者ってタコという喩えかしら」 左の小窓を2の位置に合わせる。 「後は長針なのですが……」 ここでアンナの動きが止まった。 どうしても長針の位置が解らないのだ。 残り一つで十二通りだが一人一回ずつと念を押されているから、総当たりで行くわけにもいかない。 アンナは似合わない小難しい顔をして、時計とにらめっこの長考に入ってしまった。 「申し訳ありませんが」熟考するアンナの横で、マニフィカはアダムに申し出た。「大時計の謎を考えるのに、ネジを回すのは一人一回ずつだとしても謎解きの段階で皆で知恵を出し合って答を考えるのはいけないのでしょうか」 アダムはちょっと意表を突かれた様であった。 「……いいでしょう。結局は同じ答に行きつくのなら、試行錯誤の回数が減るだけです。出し抜かないというのは一つの美意識です」」 マニフィカはアンナと向き合った。 「短針の数字が、自然の中で人間が最も美を感じると言われる黄金比、フィボナッチ数だというのは間違いないですわ。0.1.1.2.3.5.8.13.21.34……。ただ、?の中の数字は0から始まる『0・1・8』の合計9か、もしくは『1・1・8』の合計10かがどちらかになるかが解りませんわ……」 ここでクラインは議論に加わる事にした。 「あくまでも『自然』にこだわるなら0はないと思いますわ。自然の中で0個の物はそもそも存在しません、数えませんもの。ですから1から始めていいと思いますわ」黒瞳が強い輝きを放った。「答は10ですわ」 クラインの言葉には説得力があると感じる。 多数決もあり、短針は10という事に決まった。 「左の小窓ですが、これはタロットカードの大アルカナですわ。タロットカードの意味から算出するに9が隠者、12が吊された男。答は3の女帝ですわ」クラインはそう見立てた。 「そうですわ。左の小窓はタロットです。カード番号0は愚者。カード番号9は、錬金術の神祖ヘルメス・トリスメギストス……三倍偉大なヘルメスがモチーフの隠者。カード番号12の吊された男は、刑ではなく試練を意味します。二つの数字は3で割れます。逆算して答はカード番号3の女帝ですわ」 きっぱりとマニフィカも言い切った。もしかしたら女帝はエリザベス女史を示唆しているのでは?とも思う。 多数決からいっても、論理的にいっても答は3で間違いない様だ。 「右の小窓は、複数に描写される絵柄は双子座と魚座のみ。2匹という数え方から答は魚座ですわ」。 十二宮の謎の答は三人とも一致した。 ジュディは左右の小窓をそれぞれ『3』『双魚宮』に合わせた。カチカチという小刻みな音がして、窓枠にそれぞれの記号が治まる。 皆、ここまでの答には自信があった。 しかし。 長針の答が解らない。 この三人があてずっぽうでそれぞれ一回ずつ試すとしても正解率は四分の一だ。 それは分が悪い賭けだった。 「あの、私とジュディにも当ててもらう事にしたら……」 トレーシがそう申し出た。それならば正解率は十二分の五、約41%。賭けは大きく有利になるが……。 「お忘れなきよう」アダムが唇に沈黙を促す様に唇に人差し指を当てた。「大時計の仕掛けは、皆様の知恵を試す為にあるのですよ」 そう言われて皆はむぅ、と黙り込んでしまう。 動かない大時計には『知恵のある者を試す』というプレートがある。 どうするか。賭けに出るか。 そう考えても意見が煮詰まらない皆に、アンナは初心に帰るよう、促した。 「一度、第一のヒントの部屋に戻って、皆でじっくり考える事にしませんか」 皆は現状ではそれが一番いい考えだろうと納得し、アンナを追い、大階段を上って二階へ行く事にした。 ★★★ 二階の部屋の一つに入ると、その部屋の中の無秩序な色彩に翻弄された。 それは四方の壁全面に子供が描いたと思しき下手な水彩画が壁に一杯貼りつけられた部屋だった。何百もの絵の描かれた紙で壁が埋められている。どれも幼児が描いた様な雑に歪んだカラフルな人物画で、描かれた人間はまちまちに何本かの指を立てた手を上に差し上げていた。 壁の一角に大きな文机があった。その天板には羊皮紙と羽ペン、インク、火のついてない蝋燭、マッチ、ペーパーナイフ、手鏡、クレヨン、虫眼鏡が置いてある。 そして、その天板には次の様な金属のプレートもはめ込まれていた。 『長針:デッサンとは誠実さの表れだ』 「ここにどの様にヒントがあるのでしょうか……」 アンナが四方の壁を埋め尽くす水彩の絵の中央で呟く。 「この部屋にこれだけのアイテムが置かれているという事は、これらの中からヒントの為に役立つ物があるという事だと思うのですが……」 文机に並べられた品を見るマニフィカ。 「芸術のセンスは正直自信がありませんわね」 芸術関係の難問は、過去のアイドル時代のトラウマを連想させ、クラインは及び腰だった。 ところでこの部屋でリュリュミアと未来は皆が時計の謎解きをしている間、フィーナを預かっていた。 彼女達はクレヨンを使って、じゅうたんが敷かれていないフローリングの床に互いの似顔絵の描きっこをしていた。 彼女達の無邪気な絵は周囲に貼られた水彩画と同じ様に、絵心のないカラフルでおおらかな顔を幾つも並べている。未来はイラストっぽくデフォルメされたフィーナの顔を描く。 フィーナも絵を描いて遊んでいる間はこの館の怖さを忘れているみたいだ。 「そういえば、この部屋って水彩画だけなんですかねぇ」クレヨンを離さず、リュリュミアはここに帰ってきた皆に訊いた。「子供だったら直接クレヨンで描きそうだけどぉ」 「子供、でしょうね」トレーシが沢山の水彩画を見比べる。「ちょっと見ただけですが、デッサンがちゃんとした絵はない様に思えますもの」 「トレーシさんはデッサンが解るの」 「……いえ、私も絵を描いたり見たりするのには詳しくありませんわ。……言ってみただけです」 未来の指摘でトレーシが言いすぎた、という風に押し黙ってしまった。どうやら本当にデッサンの事が解っているわけではないな、とクラインの『人間力』が彼女の心中を見抜いた。 リュリュミアは文机から蝋燭を取って、火をつけ、丹念に水彩画を観察し始めた。 どうやら明かりで照らして下描きの跡を探しているらしい。まるで証拠を探す名探偵の如く、皆に見守られて十分以上もぽやぽや〜と観察し続けていたが、はあん、とため息をついて行動を打ち切った。 「皆、いきなりよくこんな絵が描けるわねぇ」 解った事はこれらが一人の作品ではなく、大勢の子供達によってそれぞれ描かれていたという事くらいだ。 それなりに上手い下手や癖はあったが、気づける限り、全て子供が一枚ずつ描いた絵だ。 マニフィカは文机から手鏡を取った。 長針のヒント「デッサンとは誠実さの表れ」と前日の『故事ことわざ辞典』の言葉「ようやく子供の様な絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」(パブロ・ピカソ)は、おそらく『純粋』を意味すると解釈。 文机に置かれた物品で、読み書きとは無関係そうなたった一つきりなのは手鏡だ。この館から鏡は撤去されているのに、何故ここにだけ?という不可思議もある。 マニフィカは手鏡を使って照明の光を反射させ、隠された正解の数字を探すべく、色色な場所を反射光で照らしてみる。 鏡で反射した白い光の白斑が水彩画の群を縦横無尽に素早く這う。 マニフィカは光に照らされた事で、何か蛍光の様な数字が浮かび上がるのではないかと期待した。 もしくは鏡に隠された文字が光の反射の中に現れるとか。 しかし、時間が経つほどに徒労感が強くなっていく。 しばらく、なるべくまんべんなく壁を照らし続けたが、何か特別に目立った様子はない。 「違いますか……」 マニフィカは肩を落とした。 彼女と入れ替わる様にクラインは部屋の中央に立った。 「とうとう、私の番ですわね」 クラインはなるべくなら自分の番が来ないようにと思いながら待っていた。 きりっとしたチャイナドレス姿の女社長。 その片手には黒いインク瓶。 まるで雌豹を思わせる雰囲気に見守っている者達も緊張する。 と、その様子がしなっと柔らかくなる。 「さあ、みんなで遊びましょう! お菓子もありますわよ!」 あまりにもの突然の雰囲気の軟化に周囲の皆はびっくりした。 クラインは遠き昔のアイドル時代を思い出し、無垢な聖女の雰囲気でこの館にいるはずの『子供達の霊』に呼びかけた。恥はかき捨てとばかりに黒歴史を開封し、そんなフラワー気分で。 皆の反応にいや、ちょっと柔らかすぎたかな、と彼女は少し居住まいを正す。 あくまでも『女神』の雰囲気を醸し出すのだ。 人間力で最も重要なのはわざとらしくならずに自然体で行う事。 「みんながいる事は解ってますわよ。みんなでこの黒インクを周りの絵にかけて遊びましょう」 子供達が周囲にいると仮定して、呼びかける。 すると。 ぞ、と。 空気が騒いだ。 部屋のあちこちで沢山の子供達の笑い声がさざめいた。 見えない子供達の。 やった、とクラインは思った、 自分の人間力で子供達の霊の興味を惹く事が出来た。 後は日常的な会話もしつつ、この屋敷での境遇等を子供達の霊から訊き出すのだ。 そしてこの館の異様さの真相を。 まずはこの黒インクを使って、周囲の水彩画の中に隠されている『はじき絵』を探す。水彩画の中には白色のクレヨンや蝋燭等、油脂質の眼には見えない色を使って描かれたはじき絵があるはずだ。水を弾くその絵はきっと大時計の長針の答が描かれているだろう。 黒インクを撒けば、その絵がインクを弾いて解るはず。 「さあ、一緒に遊びましょう」 威厳さえある笑顔でクラインはインク瓶を高く掲げた右掌で持ち上げた。 子供達の無邪気な笑い声が再びさざめいた。 子供達の合唱が部屋に響いた。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死んじまえ。 屈託のない明るい声の斉唱。 部屋の中の全員の背筋にゾッと冷たいものが走った。 次の瞬間、クラインが掲げていたインク瓶が突然、破裂した。黒インクと陶器の破片は周囲の壁を襲うかの様に飛び散った。飛び散ったインクは水彩画を黒の汚点で汚した。 「くっ!」 クラインは掲げていた右手を胸元に寄せながら、苦痛の表情をした。 床に血が滴る。 陶器の大きな破片が彼女の右掌にも食い込んでいた。 未来は走り寄って、陶器の破片を抜き、ハンカチで縛って簡易包帯とする。 子供達の無邪気な笑い声が部屋中に、いや屋敷中に響く。 壁の水彩画は無秩序な風にバタバタと波打った。 クラインは、ここにいる皆は、確信した。 これは、この子供達は、全て、悪霊だ。 クラインは痛い右手を押さえながら周囲の壁を見回した。 ほぼ全ての水彩画の表面に大量のインクの黒点が飛び散っている。 しかし、はじき絵らしき物は一つもなかった。 子供達の笑い声が静まっても、皆の心は落ち着かなかった。 予想とは全く違う方向に事態が動いている、とマニフィカは『故事ことわざ辞典』を手繰らずにはいられなかった。 この恐怖の状況に何か頼れるものを、と彼女はランダムにページをめくった。 すると長めの一文が眼に入った。 「人物画すなわち人間描写は、花鳥画や山水画以上に描写のあいまいさ、デッサンの狂いが誰にでも一見して見破られてしまう。それ故に非常に高度のデッサン力、描写力が要求される」 ( 片桐白登) 何故、このページが現れたのか、マニフィカは解釈に困った。 ここにある絵は全て、いかにも子供らしい描写のあいまいさがあふれかえっているではないか。 もう一度プレートに書かれていた言葉を思い出す。そういえば「デッサンとは誠実さの表れ」という文言が文机の上でかしこまっていたではないか。 デッサン。それがこの部屋のキーワードなのか。 考えてみればデッサンとは比較的よく聞く言葉だが、その具体的な意味までは知らずに生きてきた。 「デッサンとは……」マニフィカは呟いた。 「何故、こんな絵でデッサンがどーのこーのいうのかしらの」未来がこれ以上、何も起こらないだろうかという風に少し怯えた表情でマニフィカの言葉に乗ってきた。「そういえば晩年のピカソって子供の書いた落描きの様な絵を描いてたってゆーわね。ピカソは小さな頃からデッサンが非常に上手かったらしーわ。一度、ちゃんとしたデッサン力が身についた人間は、わざとデッサンが崩れた絵を描こうとしてもなかなか出来ないらしいよ。晩年に『子供の絵』が描けたピカソって、そ−ゆー意味でも天才なのね、エモいわー。マジ卍」 「未来さん、デッサンが何なのか、知っているのですか!?」 「まー、美術の時間に教わったから。一応は」 「デッサン力って何なのですの!?」 「えーと、絵画でいえば、皆が普通見ている三次元の光景を、紙という二次元に再現するテクとか、パーツをちゃんと正しい比率や角度で描くテクかな。高校の先生の説明だと……二次元の普通の鏡に自分を写しても写ってる像は歪む事はないじゃん。デッサンとはそーゆー風に描くもんなんだって。一見、よく描けてるみたいに見える絵もデッサンがちゃんとしてないと立体をちゃんと再現出来てないの。そーゆー絵は裏から透かして左右反転させて見てみると眼と鼻があるべき位置とずれていたり、輪郭が歪んでるのが解るのよ」 「デッサン……」 マニフィカの胸中に「ようやく子供の様な絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」というピカソの言葉が再び思い起こされる。大人が子供の様な絵を描くのは難しい……。 子供達の霊は沈黙している。 姿のないものは音を立てずにいると、いるのかいないのか解らなかった。 そんな時、ジュディは全く別の事を考えていた。 昨夜、チャックは無残に殺された。 だが、チャックの霊体はその事を感謝している。 あの部屋は密室だった。扉も窓も塞がれ、唯一の出入り口となりそうなのは小さすぎる通気口だ。 あそこから入ってこれるのは小さなものだけだ。 子供? 子供達の霊? ダイイングメッセージ( ![]() 何故チャックはダイイングメッセージを残したのか。 チャックの死因は窒息死で口は裂かれ、歯には人毛が絡まっていた。 口に拳を突っ込まれて殺された? いや子供の頭を呑み込んで殺されたと考える方が納得がいきそうだ。 ……いや。 「クライン!」ジュディは女社長の名を呼んだ。「チャックが殺された時のサウンド、音声をプレイバック出来マセンカ」 え、と突然呼ばれたクラインは左手でガラケー型の受信機を操作する。 ややするとスピーカーからチャックの最期の音声が再現される。 『何だ……あれ!? 何でこれが!? いや……誰だ、お前は……!?』 そして転倒する大きな音。 床でのたうち暴れる音がする。 遠くでさざめく様な子供達の笑い声。 やはり、子供か。 いや。 誰だ、お前は……? つまり個性を認識出来る何かだ。 ジュディは彼の台詞から、あの部屋に場違いな、見た事がある物品が現れたと感じた。 例えば人形みたいな……。 アメリカンギャルはふとエリザベス女史が抱えていた少女人形を思い浮かべた。 あの日本人形風のおかっぱ頭の人形。 「そういえば……」頬にインクの黒点をつけたトレーシーが辺りを見回しながら、部屋の中央に集まっている皆の所へやってきた。「リュリュミアさんとフィーナは何処へ行ったのかしら」 ★★★ 「チャックさんが死んじゃったんですよぉ」 リュリュミアの話しかけにもベッド上の老婦人になんら変わった事はなかった。 ベッドの上で顔が紗のベールに隠れた館の女主人エリザベスが動じた様子はない。 老婦人の寝室を訪れたリュリュミアとフィーナは、クレヨンで館の部屋の床に落描きしていた事を彼女に謝りに来ていた。 「悪い子ね」と少女人形を抱いたエリザベス。「人の家を汚すなんて。でも、もうすぐその罪も浄化されるのよ」 「浄化ですかぁ」リュリュミアはコケティッシュに小首を傾げる。「奇麗になる事ですねぇ。そういえば今日はこのフィーナちゃんの誕生日ですよぉ。イチゴのケーキとかでお祝いした方がいいでしょうねぇ。イチゴだとわたしの森の植物園にいいのが育ってるはずだけどぉ、今からじゃ採りに行くの間に合わないわねぇ。残念ですねぇ」 「大時計の謎を解き明かせば、もっと沢山の子供達から誕生日を祝ってもらえるよ」老婦人の声は期待に満ちていると思しき気色を帯びていた。 「ところでチャックさんが死んじゃった事に驚かないんですかぁ。人が一人死んだんですよぉ」 「あんな私の秘密を探ろうだなんて人間は殺されて当然さ。まあ、死して私達の中に加わったんだから、むしろよしとすべきだね」 「なんというかぁ、冷たいですねぇ」 ぽやぽや〜とした声でのリュリュミアのやり取りだが、フィーナはそうしている間にも彼女の背後にずっと隠れていた。緑色のスカートの裾をぎゅっと掴んで。 朱色の着物を着た、少女人形に怯えているのだ。 「全く」とエリザベスは静かな態度でぼやきをこぼした。「あんた達は何者なんだ。私が呼んだのは血縁のトレーシとそのフィーナという少女だけだ。あんた達みたいな人の秘密を探ろうだなんて輩はついてくるだなんて計算外だね」 「そう言わないでぇ、人間は沢山いた方が楽しいですよぉ」 そんな言葉を交わしながらエリザベスと会話を続けていたリュリュミアには一つ、疑問が湧いていた。 彼女は本当に『彼女』なんだろうか。 その声は喋り合っている内に作っている声の様に感じられてきた。 というか眼の前の老女は本当に『老女』なのか。 「私はそのフィーナとトレーシ以外はいらないんだよ!」 突然、エリザベスの態度が変わった。 子供達の笑い声で部屋の空気がさざめいた。 エリザベスの抱いていた少女人形が突然、ぎこちなく動いた。老女が動かしたわけではない。一人で動き出した無表情な白面はその朱色の着物の裾をなびかせて、寝台の上を走りだしたのだ。 その自動人形は人が走るのと同じ速さで寝台を横切り、跳んだ。 驚きに丸く開いたリュリュミアの口めがけて。 墨の様なおかっぱの黒髪が、彼女の口を無理やりこじ開けようとする。 リュリュミアの手が握っていた『ブルーローズ』の種が急速に生長し、太い濃緑の蔓は人形を弾き返した。 人形は弾かれるままにくるくると宙を舞って、老女の傍のシーツ上に着地。そして、袖口から園丁用の植木ばさみの大きな物を取り出し、両手で構えた。じゃきんじゃきんと黒いハサミの刃が開閉する。人を殺せる鋼の艶だ。 無表情のまま、伏せがちの白い顔で大きな黒瞳がリュリュミアを睨む。 リュリュミアは自分の背後にフィーナを隠して、距離を取った。 見えない子供達が歌い出した。 ★★★ 長針ヒントの水彩画の部屋。 クラインはリュリュミアとフィーナが持っているはずの盗聴器から音を拾おうと、ガラケー型の受信機を必死にいじっていた。 しかし、スピーカーから聴こえるのは大勢の子供達の無邪気な笑い声だけだ。どの盗聴機にチューニングしてもその笑い声しか聴こえない。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死ね。 死んじまえ。 お前達の人生を無意味にしてやる。 無邪気な明るい歌声だ。 何かヤバい事になっている。 部屋にいる皆は確実にそれを予感した。しかしリュリュミアとフィーナは今、一体何処にいるというのか。 子供達の笑い声がさざめく。 ★★★ |