「心いろいろ〜彼岸を越えて〜」

−第1回−

ゲームマスター:高村志生子

 ミルカを中心とした学内の怪奇現象は一向に収まる気配がなかった。初めの頃はレイミーのような視る力を持ったものにしか見えなかった黒い影は、次第に力をつけてきているのか、目撃者も多数出るようになってきていた。そしてそれは影の状態で、決して人の姿をしていたわけではないが、死んだ姉・メリアであるという噂は次第に確信を持って語られるようになっていた。
「ふふん、ふふん」
 そんな不穏な学内の雰囲気とは裏腹に、マニフィカ・ストラサローネは探偵部の部室で優雅にティータイムを楽しんでいた。
「マニフィカはずいぶんとご機嫌だね。やっぱりデートが決まって仲が進展しようだからなのかな」
 ディスの軽口にお茶を口に含んだマニフィカがぴたりと動きを止めた。
「相変わらずの情報通ですわね」
 専攻課程に進級したご褒美に、プラトニックな恋を進展させている相手とデートの約束を取り付けたのはつい最近のはずだ。たしかに隠そうという気はなかったが、いちいち口を挟まれるのも面白くないものがある・しかしディスにそれを言っても始まらないだろう。マニフィカは気を取り直してお茶を飲み干した。と。
「あら?」
「おや?」
 手にしていたティ―カップがピキンと軽い音を立ててひび割れてしまった。
「……このカップ、お気に入りだったのですが」
「うん、知ってる」
 心身ともに絶好調な現状にヒビ入った音は、いかにも不吉の象徴のような気がして、マニフィカは思わずテーブルの上に置いておいた愛読書の『故事ことわざ辞典』を紐解いてしまった。
「うーん」
「なんだって?好事魔多し?」
「幸せすぎるのもよろしくないということですわね。気を引き締めなくては」
 ある意味ポジティブな発言にディスがさすがと言わんばかりにほくそ笑む。そこへドカーンと大きな音を立ててジュディ・バーガーが飛び込んできた。腕にはぐったりとしているミルカが抱えられていた。
「ジュディ、ここは探偵部の部室で保健室じゃないよ」
「ケガは大丈夫デス!彼女を休ませて欲しいだけネ。保健室まで行ってられマセン。場所を貸してクダサイ」
 レイミーがその間に周囲の気配を読み取って、例の影がいないことを確かめて、ディスとマニフィカにうなずいた。
「またあったのかい」
 怪奇現象が、という語句は省いてディスがジュディに問いかける。ジュディは顔色を曇らせてかすかにうなずいた。空いていたソファにミルカをそっと横たわらせて、冷や汗で張り付いた前髪をそっと払ってやる。ミルカは涙をにじませていたが、確かに怪我はしていないようだった。
「ゴースト・ブレイカーが有効だったので、霊体なのは確かデス。消し去ることはデキなかったノデ、ずいぶん力が強いようデスが」
「誰かはさておき、霊体なのは確かなのですね」
 ジュディのゴースト・ブレーカーは対象が霊体でなかったら効果を発揮しない。手ごたえをはっきり感じたので幽霊なのは間違いないのだろう。だが消し去ることができない程の力を持っていたことに、ジュディは焦りよりは怒りを感じていた。
「ミルカはジュディが絶対に守ってみせるネ!もうこれ以上傷つけさせたりしないデス……かわいそうに。こんなに小さいのに……」
「ジュディさん……?」
 目を覚ましたミルカが、はっとしたように辺りを見回し、怪我人がいないことを確かめてほっとしたように表情を緩ませる。そしてがばっと身を起こしてジュディにしがみつくと、しくしくと泣き出した。
「どうして、どうしてこんなことが。やっぱりお姉ちゃんなの?お姉ちゃんがこんなひどいことをしているの?」
 被害が自分だけではなく周囲にも及んでいることで、ただの噂から悪意や恐怖の念といったものがミルカを散り囲むようになっていた。それは学校に通うようになって元気になって行っていたミルカの心身をひどくむしばんでいた。なにより敬愛する姉が死んでから怒りや憎しみを買っているという事実が、ミルカを深く悲しませていた。ジュディは小さな体をそっと抱き締めながら、努めて明るく応えた。
「噂なんて気にしてはダメですヨ!デマは悪意を集めるダケ。そういうのは、ゴーストに力を与えてしまう。笑って、ネ?ゴーストを追い払えるかは、ミルカの心が健やかでアレば、できるコト。大丈夫、探偵部の人たちもついてマス」
 確かに相談はされたが、依頼を受けると言った覚えのない部長と副部長だったが、まだ幼いといっても差支えのない下級生を無下にする気もなかった。ディスはにっこりとマニフィカに笑いかけた。
「というわけだから」
「何がですの」
 振られた内容は明確に言葉にされなくてもわかっていたが、デートを控えた身での長期の探索行動はあまり乗り気になれることではなかった。
「あの……」
 会話が理解できなかったミルカが不安そうな顔を見せる。その幼い表情にマニフィカが毒気を抜かれる。すかさずディスが口をはさんできた。
「地球にはノブレス・オブリージュという考え方があってだねえ」
 ノブレス・オブリージュ、すなわち高貴な身分に課せられた義務。いたいけな後輩を救うのもまたそうであるだろう。マニフィカがぐっと言葉に詰まった。ミルカがほころぶように笑った。
「ああ、日本における武士道ですね。わかります」
「そうそう」
 うまく乗せられている気がしないでもなかったが、マニフィカもこの事態に疑惑を持っていたので、真実を解き明かすのもやぶさかではなかった。
「ミルカさん、わたくしには不思議でならないことがあるのですわ」
「不思議?」
「ミルカさんはお姉様はあなたをたいそう可愛がっていたとおっしゃいますけれど、だから自分を傷つけるはずがないと。けれど、学校ではどうだったのでしょうか。学校でもそうだったなら、お姉様が悪霊になって最愛の妹を傷つけたりするなどという噂が立つでしょうか。基礎課程の学生は全員が寮に入る決まりです。つまり、学校での姿をあなたはご存じないということですわよね。そこにこの違いの理由が隠されているのではないかと思います。わたくしがそれを調べてまいります。あの悪霊が真実メリアさんであるか、あるいはほかの霊体であるのか、はっきりすると思います」
「お姉ちゃんじゃない……そう信じたい。信じてもいいかな……」
「しっかりしてくださいませ。愛されていた妹であるあなたが信じなくていったい誰が誰が信じるというのですか」
 扉が開けっ放しだったため、会話が漏れ聞こえていたのだろう。アンナ・ラクシミリアがずかずかと入ってきてミルカに指を突きつけ言い放った。しかし同じ気持ちだったジュディもうんうんとうなずいた。 「アンナ、いいコト言うネ!」
「お姉さんはあなた思いの優しい人だった。信実そうだったからあなたは素直にお姉さんを信じてきたはずです。きっとお姉さんのそういうところは死んだ今も変わってないはず。わたくしが立証してみせましょう。行きますわよ、マニフィカ」
「え?わたしく?」
「家族の気持ちを疑うなんてまったく嘆かわしい。真実など調べればすぐにわかることですわ」
 親思いのアンナらしい意見に、マニフィカがああと思った。マニフィカはとにかくメリアについて調べてみようと、アンナと一緒に部室を後にした。
 だが情報はなかなか集まらなかった。生前のメリアが恐れられていたわけではない。怪奇現象の始まりにミルカに親切にしていた学生を多く巻き添えにしていたことから、ミルカにかかわるとひどい目に合うという認識が出来上がっていたのだ。それでもなんとか聞きだした話をつなぎ合わせると、メリアは学校では妹のことを可愛いというより、「可哀そうな子」と言ってまわっていたということだった。外で遊ぶこともままならず、友達もいない、哀れな子。長くは生きられないだろうから、生きている間だけでも姉である自分が守り慈しむのだと触れ回っていたという。それを素直に受け取り、妹思いの慈悲深い少女と思う者もいれば、考え方が鼻持ちならないと嫌う者もいたらしい。そしてメリアは、自身の思いを否定するものには激しい憎悪を抱いていた様子も垣間見られていた。
「おかしいですわね。妹思いというミルカの考えが間違っていたとでも」
 アンナが首をかしげる傍らで、マニフィカはふうと息をついていた。
「それが、今の噂の一因なのでしょうね」
 姉の姿はミルカが思っているほど単純ではない。マニフィカはその結果に眉をひそめていた。アンナはそんなマニフィカには気が付かずにぐっと握りこぶしを握りしめて断言した。
「わたくしが思うに、あの影はミルカを狙っているものからミルカを守っているメリアなのですわ」
「ええ?そんなはずは……被害はミルカが一番多いわけですのよ」
 思いがけない発想にマニフィカが驚く。実際、死にそうな怪我もたびたび負っていたのはミルカだけなのだ。しかしアンナが人の話を聞いているはずもなかった。
「メリアが自分の意志で妹を攻撃するはずありません。攻撃しているのだとしたら、そこには何かほかの原因があるはずです。それを取り除いて差し上げれば、あの世にだって行けるはずですわ」
「メリアを狂わせているもの……?」
 よくある過剰な愛情が、執着となって妹も死の世界に引きずり込もうとさせているのだろうか。だが、それもどこか違うような気がする。そもそも、メリアのミルカへの愛情は本物だったのだろうか。その疑惑がどうにもぬぐえないマニフィカだった。

 それでも初めの頃はそれなりに同情を集めていたミルカだった。だがだび重なる事件に巻き込まれる生徒が増えるにつれ、次第に孤立するようになってきた。
「う〜ん?」
「部長?」
 廊下で首を傾げたディスの視線をレイミーが追うと、そこではクィーミ・ヴェレーノが窓から庭を見下ろしていた。今度はその視線をたどって庭を見下ろすと、大木の木陰にあるベンチでミルカがうつむいて座っていた。
「泣いてるなぁ、あれは」
 窓枠に肘をついてディスがつぶやいた。レイミーがそれを聞いて顔を曇らせた。
「孤立しているというのは本当だったんですね。何とかならないものでしょうか」
「何とかなるんじゃないの?ほら、あれ」
 ディスがくいくいとミルカを指さす。レイミーが目をこらしてみると、大きなおなかでやや歩きづらそうにしているアメリア・ロッシュがテオドール・レンツを抱えながらミルカのもとに向かっているところだった。
「気にかける奴がいるなら大丈夫なんじゃないのかな」
「……そうですね」
 レイミーが今度は安堵の溜息をもらす。ベンチではミルカが泣きじゃくりながらアメリアに抱き着いていた。

 悲しみに包まれたミルカの気配は、光の巫女であるアメリアには痛いほどだった。ミルカは入学前は体が弱く、学校に通い始めてから丈夫になったのだが、そんな環境で育ったせいか人付き合いはどちらかというと苦手だったらしい。友達もできて明るくなってはいたのだが、孤立するにつれ生来の虚弱さが表に出てきて表情だけではなく実際に顔色もひどく悪かった。アメリアは泣きじゃくるミルカの頭を優しく撫でながらそっと呼び出したジルフェリーザにうなずいてみせた。ジルフェリーザは空色の瞳を輝かせながらミルカを包み込みように両手を差し出した。
 ぽうっと光がミルカの体を包み込み、染み込んでいく。しばらくすると泣き声が止まった。
「元気でたぁ?」
「あったかい……なぁに、これ」
 泣きはらした赤い目がジルフェリーザの姿を捕らえる。アメリアはにこにこと笑いながら言った。
「ジルフェリーザはねぇ、私のお友達なのよぉ。悲しいとか辛いとか、そういう痛い感情を消してくれる力を持っているのぉ。ミルカがとっても悲しそうだったから、ね。そんなに泣かないでぇ」
「そうなの……ありがとう、ジルフェリーザ。お姉さんも」
 ミルカが儚い笑顔を浮かべながらたどたどしく礼を述べる。アメリアはひときわ大きくにっこり笑うと、もう一度ミルカの頭を撫でた。
 と、一緒に座っていたテオがミルカの膝の上によじ登って、ぽふぽふとその頬に手を触れた。
「あのね、ミルカちゃん。ミルカちゃんのおねえさんはどんなふうにミルカちゃんをデキアイしていたの?」
「え?」
 唐突な問いにミルカが首をかしげる。同じように首をかしげながらテオが言葉を続けた。
「今学校で起こってること、ミルカちゃんのおねえさん、メリアちゃんがミルカちゃんを恨んでいるんだって言われているけど、メリアちゃんはミルカちゃんをデキアイしていたんでしょう?ボク調べたんだ。デキアイって、とってもとっても大切に思うことなんだって。ねえ、それって大好きだからなんでしょう?逆に恨むってキライな相手にすることだと思うの。だから変だなぁって。メリアちゃんはいなくなっちゃう前まではそうじゃなかったんでしょう?」
 ミルカはしばらく黙っていた。やがて柔らかなテオの体をぎゅっと抱きしめた。
「よくわかんなくなってきちゃった。小さい頃はそりゃたくさん優しくしてもらったよ。私、良く熱を出したりして外ではほとんど遊べなかったんだけど、お姉ちゃんが遊び相手になってくれたからさみしいとか思ったことなかった。歌を歌ってくれたり、ピアノを弾いてくれたり、ご本を読んでくれたり。熱で苦しんでるときはずっとそばにいて看病してくれた。いつも笑顔で、ミルカは大丈夫だよって言ってくれたの。お姉ちゃんが学園に入った時はさみしかった……。勉強は大切だから、入らなきゃいけないのは分かっていたけど、ずいぶん駄々こねたっけなぁ。泣いて駄々こねて、お姉ちゃんを困らせた。でもお姉ちゃんはいつものように笑って、ミルカは大丈夫だよって。お休みの時は必ずうちに帰ってきて遊んでくれたから、私も我慢できたんだと思う。なにより、お姉ちゃんは事故にあう直前に専攻過程に昇級してね、これからは家から通うからもう少したくさんいられるよって言ってくれたの。私のために頑張ってくれたんだなぁと思ってすごく嬉しかったのに」
「メリアちゃんは何の勉強をしていたの?」
「ええと、福祉……とかっていうの。福祉介護?私みたいに外に出られないような人の手助けをするお仕事がしたいんだって言ってた」
 それを聞いて、アメリアがふとある疑念を抱いた。
『病気を治すための医療じゃないんだぁ』
「ずっと私のそばにいられるようにってことかなって。私が勝手に思っていただけなのかなぁ。お姉ちゃん、本当はこんな弱い私なんか嫌いだったのかな」
「ミルカちゃん、大丈夫だよ〜」
 また泣き出しそうになったミルカをあやしながら、テオはこっそり聞いた話をメモしていた。
「ねえ、ミルカちゃん。もしもメリアちゃんが本当はミルカちゃんを嫌っていて、今意地悪してるんだとしたら、ミルカちゃんはメリアちゃんにどうなってほしいかな」
「パラミッタはもうすぐだもの!このままじゃお姉ちゃん、悪霊になっちゃう。嫌われてなんかいないって信じたいけど、もしもそれで私も連れて行きたいならそれでもいい、ちゃんと仏様になって浄土に行ってほしいよ」
「成仏してほしいってこと?ミルカちゃんはそう思っているの?」
「うん。このまま誰かを傷つけ続けるような存在になってほしくない。私はお姉ちゃんのこと、大好きだもの。そのために私の命が必要なら……連れていかれても構わないよ」
「それはダメだよぉ!」
 ミルカの言葉にアメリアがかぶりを振った。
「死んでも良いなんて思っちゃダメだよぉ。だってミルカは今は元気になれたんでしょぉ?お姉さんの分まで生きなきゃ」
 と、不穏な気配を感じてアメリアがはっと顔を上げた。突如現れた黒い影がアメリアたちに襲い掛かってくる。ミルカがおなかの大きなアメリアをかばうように抱き着く。影が3人を飲み込もうとした時、すかさず間に割り込んできたアルトゥール・ロッシュがミスリルレイピアで影を切り裂いた。レイピアの魔力は影にも有効だったのか、瞬間バラバラになったが、影は一度はバラバラに分散した。だがすぐさままた元に戻って、アルトゥールと対峙した。
「アメリア!ミルカも、大丈夫だったかい」
「アルトゥール!うん、ありがとぉ。ミルカもテオも大丈夫?」
「う、うん」
「ボクも大丈夫だよ!」
 黒い影からは強い敵意が感じられた。アルトゥールはすぐに攻撃に移れるよう構えながらつぶやいた。
「あれは本当にミルカのお姉さんなのか。大切に思っていた家族を襲うなんてどうにも引っかかるな」
「あの人は?」
 連れていかれても構わないと言いながらも、やはり怖いのか、カタカタ震えながらミルカがアメリアに問いかけた。アメリアはジルフェリーザを前に浮かび上がらせ、背にミルカをかばいながら力強く言った。
「アルトゥールは私の旦那様なのぉ。この子のお父さんなんだよぉ」
 そしてそっとおなかをさすった。その幸せなオーラは自然と強いバリアとなったらしい。影が苦しそうにもだえ始めた。アルトゥールがすかさず切りかかろうとした。
「ま、待って!」
 ミルカが悲痛な声でアルトゥールを止めたのはその時だった。構えを乱さないままアルトゥールがミルカに問いかける。
「なぜ止めるんだい。君を傷つけよう、いや、殺そうとしている存在なんだよ。姉だからってそんなこと許されるはずがない!」
 ミルカは怯えながらも影を見つめた。
「悲しいまま消してしまったら、浄土に行けなくなっちゃう。その方が悲しい……。生まれ変わることすらできなくなっちゃう。幸せになれたはずの人なのに」
 その言葉を聞いた途端、影から苦しそうな思念が飛び込んできた。
『そうよ、私は幸せになれたはずなのに。いいお姉ちゃん、必要とされる存在として、幸せになれたはずなのに!なんでミルカが生きてて、私が死ななきゃならなかったの!死ぬのは私のはずじゃなかったのに!私がいい子のままミルカを見送るはずだったのに!!でなきゃ病気にした意味もないのに!」
「なんだよ、それ。ずいぶんと自己満足な言い分だな。まさか、ミルカが病弱だった原因もあんたにあるのか。それが家族のすることなのか」
 それは父親になろうとしているアルトゥールには理解し難い感情だった。
「あっ、ミルカ!」
 それはミルカにとっても受け入れがたいことだったのだろう。へたりと座り込みほとほと涙を流して呆然としているところをアメリアとテオが必死になだめていた。アルトゥールがぎりっと歯を食いしばって影に切りかかって行った。
「本当に、本当に、妹の死を願っていたというのか。あんたの愛情は偽りだったのか」
「違うよね……違うよね、お姉ちゃん!そんなことないよね!?そんなの信じられないよ!」
 それでも姉の愛情を信じようとするミルカの悲痛な叫びに、影が一瞬ひるんだようだった。アルトゥールの剣先をかわすように空中に舞い上がり、ふっと消え失せた。
「逃がしたか」
「ミルカ、大丈夫?」
「ミルカちゃん」
 ミルカは再び泣きじゃくり始めた。
「信じない……信じられない。お姉ちゃんの優しさは嘘だったの?違うよね、そんなことないよね?」
 ショックが大きすぎたのだろう。その悲しみは深すぎて、ジルフェリーザにはぬぐいきれるものではなかった。そっと首を振られてアメリアも悲しそうにミルカを抱きしめた。

 猫間隆紋は学内での聞き込み調査を行っていた。ショックで寝付いてしまったミルカを連れ出すわけにもいかなかったので、これまで起きた現象の実地調査を被害にあった生徒たちに聞いて回っていたのだ。
「ふむ。特に場所に共通性はないか」
 事件の中心に常にミルカがいたこと以外、場所には関係がないようだった。というより、やはり狙われていたのはミルカということだった。ただ分かったこともある。巻き添えを食らって怪我をしたのは、そのほとんどがミルカと仲が良かった生徒だったということだ。
「ミルカ殿、起きているか」
「猫先生、あ、はい」
「パラミッタについてちょっと聞きたいのだが、良いだろうか」
「あ、はい」
 上半身を起こそうとしたミルカの肩を押しとどめ寝かせたまま、隆紋が簡潔に質問を繰り出した。
 パラミッタとは地球の日本の仏教祭事の流れをくむアットに数ある宗教の中の一つで執り行われている祭事ということだった。期間は1週間。その間はあの世とこの世の距離が近くなり、新しい死者は先祖の霊に迎えられて成仏するのだという。
 ミルカに付き添っていたジュディが自分の家の宗教とは違う考え方に、素直に感心した。
「この世とあの世が近くなるデスカ」
「私の先祖という人が、日本の出身なんだって。本当なら日本には四季があって、春と秋に中日という日があるそうなの。アットにはそれがないから、夏と冬のちょうどいいときにそうやって祀るようになっていったらしいのだけど。御先祖様が新仏を浄土に迎えに来てくれるんだって」
「祭壇を設けるのに方角とかはあるのかな」
「いいえ、家に祭壇を作って、そこが出入りする門になるんだって聞いてます。私もその期間は学校をお休みしてお姉ちゃんを送る予定でした」
「祭壇か。それは校内に作っても良いものだろうか」
 メリアが執着しているのがミルカならば、常にその周りをうろついているのだろう。衰弱しきったミルカを家に帰すことはできない。ならば学校にその祭壇を作って強制的にでも送ってしまった方がたやすいような気がした。
「お姉ちゃんが私を嫌っていたなんて思ったこともなかった。あの優しさが嘘だなんて思えないのに」
「メリア殿はおそらく道に迷っているのだろう」
「道に?」
 不思議そうなミルカに、隆紋は重々しくうなずいてみせた。
「得てして霊というものは純粋であるかゆえに極端に傾きやすいものだ。メリア殿は自分が死ぬとは全く思っていなかったはずだ。まあ、健康な人間なら普通は思わないからな。『どうして自分が』という驚きがメリア殿を誤らせたのではないか。急な事故だったしな。それは哀れとは思うが」
 すちゃっと矢立から筆と紙を取り出しさらさらと護符を書いて室内に張り付ける。
「だが、今ここの生徒なのはミルカ殿の方だ。それを害するだけの魔となってしまったのなら、封じねばなるまい」
「猫先生、封じるって!?」
「魔であるならば道筋を作ってやっても持てんしな。封じるとするならば鏡が必要か……ふふふふふ、腕が鳴るな」
 元々陰陽師である隆紋にとっては、悪霊退治は専門分野だ。久しぶりの感覚に低く笑っていると、ミルカが腕をつかんできた。
「お願いします。お姉ちゃんが浄土への道を見失っているのなら、助けてあげてください。悲しいまま消されてしまうのは痛いです……お姉ちゃんを助けて。助けて、お願い」
「ふうむ」
 メリアの真実は何なのだろうか。純粋に妹思いの姉だったのか、今の憎しみに駆られている姿が真実なのか。成仏させるべきか、単なる魔として封じてしまうべきか。
 パラミッタまでの時間はあまり残されていない。早急に決めなければならなかった。