「心いろいろ〜絆つむいで〜」

−第3回−

ゲームマスター:高村志生子

 起床予定時間は6時だったが、テネシー・ドーラーはそれよりも1時間早く、5時ピッタリに目を覚ました。夜遅くまで見回りをしていたはずなのだが、短時間の睡眠でも充分な休息を取れるよう育てられていたため、目覚めはすっきりとしたものだった。
 夏の夜明けは早い。テネシーが起きたときには外はもうすっかり明るくなっていて、カーテンから漏れいる光が今日一日の天候の良さを予感させていた。周りでは皆がまだすやすやと眠っていたので、テネシーはその眠りを妨げないようカーテンを開けずに静かに身支度を整え、廊下に出てゴーストのレイスとその仲間たちを呼び集めた。夜はレイスたちの本領発揮となる時間だ。ずっと見回りをさせていたのだが、その報告を受けて満足げにうなずいた。
「さすがに初日から不届きなことをするものはいなかったようですわね。良いことです。まあ、少しくらいの夜更かしくらいには目をつぶりましょうか。いちおう消灯は守ったようですし。きちんと起きてくだされば問題はなしということで。さて、とりあえず起床時間まで少し見回って起きましょうか。あなたたちも行きなさい」
 そう言ってレイスたちを再び見回りに行かせると、自らも廊下を歩き始めた。
 さすがに宿の人たちは早くから活動を始めているようで、階下からは物音がしていたが、生徒たちが泊まっている部屋が並んでいる階はまだしんと静まり返っていた。まるまる貸切にしているので、一般客の姿も見えない。男部屋と女部屋の境になっている角に立って魔眼でもって室内の探索を行う。遅くまで騒いでいたせいか、生徒たちはまだすっかり眠りの中のようだった。教師たちの部屋もついでに見てみたが、こちらはさすがにそろそろ動き出しているものがいるようだった。
 その中の1人がローランドだった。部屋から出てきたローランドにテネシーが丁寧に挨拶すると、驚いた顔でローランドが問いかけてきた。
「夕べ、随分遅くまで頑張っていたみたいだけど、もう起きだしているのかい。今日は水泳教室と水泳大会が控えているんだよ。体調の方は大丈夫かい」
「睡眠など4時間もあれば十分ですから。それにイベントには参加しないつもりですし」
「え、なぜ?立場はわかるけれど、せっかく旅行に来たんだし、少しくらい楽しんだらどうだい」
「鳥が泳いでいますか?」
 言って背中の黒い羽をばさりと広げた。テネシーの羽は鳥のそれとは違うものだったが、空を飛ぶためのものだと言うことはわかる。ローランドは勝手にテネシーは泳げないものだと決め付けて、納得してしまった。誤解されたことには気がついたテネシーだったが、わざわざその誤解を解く必要も感じなかったので、代わりに他の風紀委員たちのことを話題にした。
「イベントには直接参加いたしませんが、監視役としては参加させていただきますわ。わたしはともかく、それこそ他の風紀委員たちは旅行を楽しみたいでしょう。基本的には任についていただきますが、自由時間くらいは作って差し上げなければ。もちろん羽目ははずさないよう、釘はさしておきますけれど」
「そうだね。皆が無事に旅行を終えられるよう、付き添いの僕たちがいるんだし。テネシーもあまり気負わないようにね」
「わかりました」
 言ったのがローランドだったのであまり頼りにはならなさそうだったが、一応教師の顔を立てて素直にうなずいたテネシーだった。
「さて、そろそろ起床時間ですわね。皆を起こしてまいりましょう」
 目覚まし代わりになったのがレイスたちだったので、健やかな寝起きとは行かなかったのはご愛嬌と言うものだろう。その代わり寝坊した者もいなかったので、それなりに穏やかに2日目は始まった。

 が、多少心中穏やかではない者もいた。前日の夜、宿で肝試しの参加者たちを出迎えたマニフィカ・ストラサローネは、戻ってきたローランドの目が赤いことに不審を抱いていた。
『それにあの香りは……香水とは思えませんが、あれは多分女性の……ふうん、そういうわけですの』
 駆け寄ったときにローランドからほのかに漂ってきた香りが、女性のものであると直感したマニフィカは、わけのわからない感情が胸のうちに湧き上がるのを感じていた。その感情は一晩経っても消えずに残っていたが、朝食が終わり、今日の予定を告げられている席でキリエがどことなく浮かない顔をしているのに気付いて、今度はそちらの方が気になってしまった。午前の水泳教室では、同じ水泳部員としてインストラクターを務めることになっていたからだ。テクニカルな面では人魚姫であるマニフィカですら高い評価を与えるキリエだったが、どんな競技でも精神的な弱さはマイナスにしか働かない。強がりなキリエのことだから教室も大会もしっかり参加するだろうが、なにかアクシデントが起こりそうな予感がしていた。
「えーと、それだとボクが泳いでいるのかマシンが泳いでるのかわからないよ」
「ならば特例として一時的に俺の体を貸してやろうではないか。それで泳ぐということがどういうものなのかわかるはずだ」
「うーん、うーん」
 マニフィカの思考をさえぎったのはテオドール・レンツと武神鈴の会話だった。どうやらテオドールが何か鈴に頼んでいたようなのだが、鈴の提案が気に入らなかったらしい。せっかくの提案に悩まれて鈴がむっとしたように眉根を寄せていた。確か鈴は自分たちと一緒にインストラクターを務めるはずだと思い出し、マニフィカが会話に加わった。
「いかがなされたのですか」
「泳げるようになりたいというから、オーバーボディを用意してやろうと言ったのだが、いやだと言うんだ」
「だって、ボクが着るんじゃなくて、ボクをおなかに収納するタイプなんでしょ?それで機械が自動的に動くんじゃ、ボク、なんにもしないことになっちゃうし」
「剣道着タイプで格好いいのだぞ?」
「見た目の問題じゃないってば〜。そうだ、マニフィカちゃんもインストラクターをやるんだよね。ボクが泳ぐにはどうしたらいいと思う?」
「テオが、ですか……」
 テオドールの場合、泳げないのはテクニックやメンタルの問題ではない。つぶらな瞳でじっと見つめられて、さしものマニフィカも返答に困ってしまった。悩んでいると、なにやら1人納得したテオドールが部屋に向かって歩き始めた。
「材料はもらったからいいかぁ。おもりを忘れないようにして、そうそう目のところも透明なビニールで見えるようにしておかなきゃいけないな」
「どうされるのですか?」
「うん?考えたら、ボク自分で縫えるんだよねえ。材料は鈴先生にもらったから、作っちゃおうかと思って。これって正真正銘のスイミングスーツだよね!ボクって頭良い〜」
「俺に相談した意味があるのか?」
 鈴がぼやく。マニフィカが苦笑した。
 その頃女子部屋ではアリューシャ・カプラートが悲鳴を上げていた。
「そんなぁ。確かに入れたと思いましたのに。やっぱりまだ本調子ではなかったのでしょうか……」
「どうかしましたか?」
 悲鳴を聞いてリリア・シャモンが顔を覗き込んできた。アリューシャがしょげた顔で答えた。
「それがその……どうやら水着を忘れてきてしまったようなんです。昨日は必要なかったから気がつかなかったのですが」
「それなら確かミズキ叔母さまが予備を持っていらしたはずですから、借りたらいかがですか。ちょっと待っていてくださいね。今、借りてきて差し上げますから」
「すみません、よろしくお願いいたします」
 大会の審判役だけやるつもりでいたミズキ・シャモンは、たまには運動しろと兄のホウユウ・シャモンに命じられて、教師部屋で水着を広げてぶつくさ愚痴を言っていた。だがやってきたリリアの頼みは快く聞いてくれた。
「アリューシャさんなら白のほうがきっと似合いますわね。こちらをどうぞ。あ、そうそう。リリア、午後の大会、確かあれに出場するのでしたわよね」
「ええ、そのつもりですが。何か問題でも」
「昨日から貴女のファンが、何に参加するのかうるさいのですわよ。大会は戦いとはいえ、無用な混乱は避けたいですわ。ですから、競技直前まで何に参加するのか秘密にしておきなさい。よろしいですわね」
「わかりました」
 実は自分も質問攻めにされて辟易していたリリアは素直にうなずいた。
 無事に水着を借りられたアリューシャは、しかし実際に着替えてみて別の問題に悩んでしまった。
 着替えは生徒も教師も一緒に海辺の更衣室で行ったのだが、隣り合ったミズキやリリアのぼんと張り出した胸を見て、未発達な自分の体に自信を失ってしまったのだ。これから成長期を迎えるアリューシャが、家系的に誰もが巨乳なシャモン家の人間と比べること自体間違いではあるのだが、水着がミズキと色違いのおそろいであったため、その差が際立っている気がしてしまったのだ。
『同じ女でありながら、こんなに違うとは……。ミズキ先生とはそれほど歳が離れていないはずですのに』
 少し落ち込みつつ更衣室を出ると、先に着替えて待っていたアルヴァート・シルバーフェーダが顔を赤らめながらアリューシャの水着姿を誉めてきた。
「やっぱりアリューシャには白が似合うね。柄がちょっとアリューシャにしては珍しい気がするけど、そういうのも素敵だよ」
「ありがとうございます。実はうっかりして水着を持ってくるのを忘れてしまいまして、ミズキ先生のをお借りしたのですのよ。柄が珍しいのはだからではないでしょうか」
「へえ、ミズキ先生の?あ、ほんとだ。色違いなんだね」
 シャモン家の故郷風の花柄だったのだが、ミズキのは紫だった。海に入るということで珍しく眼鏡を外している。そのため整った顔立ちが露になっていた。豊かな胸は今にもはみ出しそうだ。アリューシャ一筋のアルヴァートはそんなミズキの色香はまったく気にしなかったが、アリューシャのほうはへこんでしまった女のプライドの分、アルヴァートの様子が気になってしまった。
「こういうのはやはりミズキ先生のような方が着られるのがお似合いですわね。私では子供っぽすぎて」
「何を言っているのさ。そりゃミズキ先生のプロポーションはたいしたもんだと思うけど、オレの好みじゃないからなぁ。オレにとってはアリューシャのほうがよっぽど素敵に見えるよ」
 それはアルヴァートの嘘偽りのない言葉だったが、落ち込んでいるアリューシャにはあまり効果がないようだった。決してアルヴァートの言葉を疑ったわけではないのだが、引け目がアリューシャの笑顔を曇らせていた。アリューシャにぞっこんほれ込んでいるアルヴァートは、複雑な乙女心を完全に理解したわけではないが、少なくともアリューシャが自分とミズキを比較して落ち込んでいることはすぐに見抜いた。そこでミズキの隣に立っているリリアを指差して言った。
「似合う似合わないは個性の問題だからね。少なくとも、同じ柄でもミズキ先生の紫よりアリューシャの白のほうがアリューシャには似合っていると思うし、リリアみたいな格好、してみたい?」
 指差されたリリアは、ファンが鼻血を出しそうな格好をしていた。白いさらしを胸にぐるぐると巻きつけ、谷間がくっきりできている。盛り上がった胸の下は滑らかな曲線を描き見事なくびれを作り出している。さらにその下は黒い褌だった。水着で言えば超ハイレグ、Tバックといったところだろうか。己の格好を本人はあまり気にしていないようだったが、ダッシュしてきたグラント・ウィンクラックが有無を言わさず法被を着せ掛けた。
「リリア……水着を忘れてきたのか?」
 盛大なため息をついてグラントが問いかけると、リリアがくすくす笑った。
「いえ、確かに普通の水着を入れておいたのですよ。ただ旅行前におじい様が遊びにいらしたのですが、そのときすりかえられてしまったようなのですわ。手紙が入っておりましたから。まあ、これも水着と言えば確かに水着ですから、泳ぐのに支障はないと思われますわ。ご安心くださいませ」
「別な意味で不安だぜ。ったく、いたずら好きな人だってのは知ってるが……やりすぎだろう、これは……」
 すでにリリアのファンがかしゃかしゃと写真を撮り始めていて、そちらに鋭い視線を投げかけながらグラントがうなった。グラントがなぜ不機嫌になっているのかわからなくて、リリアが首をかしげた。
 その様子を見て、アリューシャが顔を赤らめた。
「あれはあれでお似合いですわね。その……さすがに私には着る勇気がございませんが」
 思わず想像してしまったアルヴァートがぼっと赤くなりながら叫んだ。
「アリューシャはあんなの着なくていいって!あ、いや似合わないからとかじゃなくて、やっぱりあれも個性だよ。リリアみたいな人間じゃなきゃ着ていられるもんか。グラントも苦労するなぁ……」
 思わず遠い目になってしまったアルヴァートだった。
 そんなアルヴァートに少し慰められたアリューシャが、笑顔を取り戻してアルヴァートの手を引いた。
「私、泳ぎはあまり得意ではありませんの。教えてくださいませ」
 浜辺の監視台に座っていたテネシーが騒がしいリリアのファンをしかりつけている。その声を聞きながらアルヴァートも引かれるままに海に向かって歩き出した。
 午前の水泳教室は、海の浅瀬で泳げるものと泳げないものとに別れてそれぞれに指導を受けることになっていた。インストラクター役の教師や生徒が、それぞれに呼び集めている。そのそばでせっせと熱中症対策を行っていたアスリェイ・イグリードが、集まってきた面々に忠告していた。
「教室ではそんな深いところに行かないけれどねぇ。準備運動はしっかりしておくんだよぉ。海を甘く見るとひどい目に合うからねー。それにこれだけ暑いと熱中症になりかねないから、気分が悪くなったらすぐにおじさんに言うんだよ。そうそう、溺れたりしたらもれなくおじさんと人工呼吸する羽目になるから、覚悟しておくんだね」
「もれなく?」
 泳ぎはあまり得意ではないと言ったアリューシャにアスリェイが人工呼吸をしているところを想像して、アルヴァートが眉根を寄せる。アスリェイがにやりと笑った。
「そう、もれなく。それが男であってもね。だから無茶はするんじゃないぞぉ」
 けらけらとした笑い声に下心は感じられなかったが、対象に自分も含まれていると言外に告げられて、アルヴァートの顔が引きつった。アスリェイはぷっと軽く吹き出して、その耳元でささやいた。
「冗談だってば。パートナーがいる人間だったら、パートナーにやってもらうから安心しなよぉ。正しいやり方はおじさんが隣りでレクチャーしてあげるからさ」
「うー」
 からかわれたことに気付いて、アルヴァートがむくれた。
 アスリェイは一通り準備を終えると、監視台にいるテネシーのところに行って打ち合わせを始めた。午後の大会に備えての水泳教室と言っても、半分は水遊びと変わらない。テネシー以外の風紀委員は、一応監視は言いつけられていたものの、周囲に気を配っておくようにと言った程度で、普通に教室に参加することを許可されていたからだ。開放感にみんなはしゃいでいた。アスリェイの忠告が効いたのか、準備運動はきっちりやっていたが。
 アリス・イブは均整の取れた体のラインがきれいに出ている水着を着ていたが、なぜかその上から赤い上着をはおっていた。その上着はアリスの肩口をしっかり隠していた。すんなり伸びた足をリズミカルに動かして、打ち合わせをしているアスリェイとテネシーの元に向かっていく。水着を着ていながら泳ぐ気のなさそうなアリスに、アスリェイが怪訝そうな顔を向けた。
「泳がないんですか、イブ先生」
「みんな楽しそうだもの。これを見せて変に気遣わせたりしたくないのよ」
 そういってちらっと右肩を露出させる。そこには女性にはむごい傷跡があった。傭兵であるアスリェイや傷跡を見るのに慣れているテネシーは動じなかったが、確かに慣れてない一般人は気にしてしまうだろう。納得したように2人はうなずいた。
「そ・れ・に・ね。イグリード先生は人工呼吸をご自分がやるとおっしゃいましたけれど、それが女性でしたらいかに命に関わることだと言ってもやはり心の傷になると思うのよ。だからそのときはわたしが担当させていただきます。わたしだって保健教諭なんですよ。そのくらいの知識はあるもの。手出ししないでちょうだいね」
「あっはっは、わかりました」
 元々、生徒たちに無理をさせないための冗談のつもりだったアスリェイは、真面目に詰め寄られて豪快に笑って承諾した。
 ローランドの元に向かっていたアルトゥール・ロッシュは、アメリア・イシアーファに背後から呼びかけられて振り向いたが、そのとたんに固まってしまった。
『か、可愛い。犯罪級に可愛いぞ』
 満面の笑顔で駆け寄ってくるアメリアは、純白でまったく飾り気の無い、それだけに滑らかな体の曲線が色っぽい水着を着ていた。紺色のタイプなら水泳部が練習着にしているのでそれなりに見慣れてはいるが、染み1つ無い白い水着は、きらきら輝くはちみつ色のアメリアの髪とあいまって、アメリアを無垢な娼婦のように見せていて、直視できずに思わず首だけぐぐぐっと横に向けてしまった。アルトゥールのところにたどり着いて息を弾ませていアメリアは、直立不動で顔だけ横を向いているというなんとも不自然な格好に、他意なく手をアルトゥールの頬に伸ばしてそっと触った。
「どぉしたの?なにか怒らせちゃった……?」
 その心細そうな声にはっとして、アルトゥールの硬直が解けた。その代わり顔が赤くなってしまったが、視線はきちんとアメリアに向けて、力一杯その手を握り締めた。
「ごめん!怒ってなんかいないよ。アメリアがあんまり可愛かったから、思わず緊張してしまっただけなんだ。傷ついた……?本当にごめんね」
 アルトゥールの言葉を聞いて、アメリアがぱぁっと顔を明るくした。握られた手を握り返しながら満面の笑みを浮かべた。
「良かったぁ。怒ってないなら私はいいのぉ。ね、似合ってる?」
「うん、とっても。人目にさらすのがもったいないや」
 つい本音をもらしてしまったが、アメリア的にはアルトゥールの反応は嬉しいものだったのでそれを聞き流した。
「アルトゥールはエクセル先生の練習に付き合うんだったよねぇ。私は特訓のおかげでだいぶん泳げるようになったから、キリエと一緒に泳いでいるねぇ。なんかねぇ……」
「どうかしたの?」
 ふと顔を曇らせたアメリアに、アルトゥールが首をかしげた。
「エクセル先生は昨日の船上観光の後とても元気になったけどぉ、その分キリエに元気がなくなっちゃったでしょぉ。今日はせっかく本領発揮できる日なのに、それってもったいないものねぇ。何に悩んでいるかわからないけど、思いっきり体を動かしてストレス発散したらきっといつものキリエにもどってくれると思うのぉ。そのためにはまずは悩みを打ち明けてもらわないと。体を動かすのは午後の大会で出来るから、それまでに元気を取り戻してもらいたいなぁ。やっぱり元気なキリエが一番だものぉ。アルトゥールもそう思うでしょ?」
 アメリアらしい優しさにアルトゥールの顔もほころんだ。
「そうだね。じゃあキリエのことはアメリアに任せようかな。僕はエクセル先生の元気が続くよう頑張ってくるよ。せっかくキリエが元気になっても、今度はエクセル先生がってことになったら仕方ないもんね」
「うん!」
 アメリアの笑顔からは、彼女が経験した壮絶な過去は感じられない。その強さがローランドにも伝わればいいとアルトゥールは思った。
 そうして2人は手を振り合ってそれぞれのグループに分かれていった。
 アメリアがとててとキリエに向かって駆け寄って行ったとき、アルヴァートがアリューシャに練習の補助をキリエに頼むよう提案していた。自分も、泳げないわけではないが他人に教えられるほど得意なわけではなかったからだ。それに聞けばアリューシャも基礎は大丈夫だとかで、教えると言ってもフォームチェックとかになりそうだったのだが、むき出しの白い手足に平常心で触れるか自信が持てなかったのだ。アリューシャはアルヴァートの「自分もそんなに得意ではないから」と言う言葉を疑うことなく、提案に素直に乗ってきた。それに待ったをかけたのはルシエラ・アクティアだった。
 アルヴァートはアリューシャの了解を得ると、さっそく頼みに行っていた。
「フォームチェックとかまでは自信が無くてさ。お願いできないかな。手伝ってくれたら御礼にお昼をおごるよ」
「わ、ほんと?ラッキー♪2人とも一応は泳げるんだよね。だったらどのみちあたしが担当になるし……って、でもおごりの話は無しなんて言わないでね」
「そんなにけちじゃないよ」
 キリエはマニフィカに泳げる組の担当をするよう言われていたので、アルヴァートたちの申し出に普通に応じていたのだが、聞きつけたルシエラがキリエの肩をがしっと掴んでもう1グループのほうに連れて行こうとした。ずりずり引きずられてキリエがあたふたと暴れた。
「アクティア先生〜?なになに、どこに連れて行くつもりなの〜。アルヴァートたちが驚いているじゃない」
「なに言ってるのよ。キリエ、あなたにはまず最初に教えなきゃならない人がいるでしょ」
「わー、待って待って。それってお兄ちゃんのこと?お兄ちゃんは泳げない人組にいるから、あたしの担当じゃないんだもん。あっちはあっちでインストラクターがいるから心配しなくても大丈夫。あたしはあたしの役目を果たさなきゃ」
「まったく、無理して……空元気なのは見え見えなのよ。本来の元気さが感じられないわ。どうせエクセル先生のことで悩んでいるんでしょ?言っておくけど、私に嘘は通用しなくてよ」
 キリエがぐっと言葉に詰まってしまった。笑みを消して、うつむいてしまう。ルシエラが優しく頭を撫でてやると、キリエがいやいやをするように小さく頭を振った。
「悩んでないって言ったら嘘になる……けど。だから余計に今はお兄ちゃんのところに行きたくないよ。辛いんだもん」
 ルシエラの小さなため息が聞こえた。
「まあね、あんな悲惨な事故のことはショックだったでしょうけど。だからすぐに受け入れられないのは仕方がないと思うわ。でもね。嘘の下手なあなただもの、空元気なんて出したってすぐにばれて、お兄さんや周りにかえって心配掛けるだけなのよ。っていうか、多分、お友達とかみんな気付いて心配しているはずだわ。どうしても行くのがいやだって言うなら、いっそ無理しないでみんなに素直に甘えて、相談に乗ってもらいなさいよ。きっとちゃんと話を聞いてくれるだろうから。ね?」
 キリエが顔を上げると、ルシエラは優しい顔でキリエを見つめていた。ちょろりと梨須野ちとせがキリエの肩に上ってきた。そしてチョコンとその肩に座ると、頭を持たれかけさせるようにしてキリエにささやいた。
「ねえ、キリエさんが悩んでらっしゃるのは、エクセル先生の事故の経緯を知ってしまったことで、お兄さんを無神経にいじめてしまったことに気づいたからですの?」
 キリエがきゅっと口をつぐんで泣きそうな目をした。ちとせは小さな指でそっと離れた場所にいるローランドを指差した。
「見て御覧なさいな。エクセル先生はすっきりした顔をしてらっしゃるでしょう。隠し事がなくなって、ようやく自分の過去と向き合い克服しようとしてらっしゃるのですわ。これからを生きていくためにね。その心にはキリエさんのことを責める気持ちなんてないはずですわ。それなのにキリエさんがそんな顔をしてらしたら、今度は逆にお兄さんが罪悪感を感じてしまいますわよ」
「罪悪感?なんでお兄ちゃんが」
 ルシエラは普段は男装が似合いそうなほっそりした身体をえんじ色のビキニに包んで、颯爽とローランドたち泳げない組に向かって歩いていた。胸はそれなりだったが全体的な均整は取れていて、腰元のフリルと一緒に長身がほのかな女の色香に満たされていた。堂々とした歩き方を見送りながら、キリエはルシエラに言われたことを思い返していた。ちとせはキリエの髪を撫でながら言葉を続けた。
「話してしまったせいでと、エクセル先生ならそう思われるのではありません?過去をキリエさんに隠していたのは、キリエさんを傷つけないためだったんですもの。キリエさんが大切だから、過去を隠し、その上でトラウマを克服しようとされていらしたのですよ。そして今は、キリエさんに恥じない人間になるために頑張ろうとしているのではありませんの?でしたらキリエさんも、これまでの事を悔やむのでしたら、お兄さんの支えとなれるよう頑張らなくては。ね?」
「ちとせちゃんの言うとおりだよ。船上観光のとき、先生が言ってたろ?キリエちゃんが救いだったって。これからもきっと先生にとってはそれは変わらないんじゃないかな。だから先生の支えになれるのはキリエちゃんだけだとオレは思うね」
 追いかけてきたアルヴァートが口を挟む。キリエはしばらく考え込んでいたが、やがてきっと顔を上げて拳を振り上げた。
「あーもー悩むのなんてやめやめ。答えの出ることじゃないもんね。それより泳ご泳ご」
 そして海に向かって走り始めた。だが直前にすでに練習を始めているローランドをちらっと見たことにちとせもアリューシャも気付いていた。ローランドの側にはすでにマニフィカが待機していた。かいがいしくライフジャケットを着せたりしている様はなかなかお似合いに見えた。その光景にキリエがちょっと眉根を寄せたが、ぷいっと視線をそらせた。
 ローランドたち泳げない組の側には鈴も待機していた。過去に怪しげなギプスを装着させられてプールに放り込まれた経験のあるローランドが、ぎくっとしたように硬直した。その様子を見て鈴が高らかに笑った。
「心配せんでもアレは使わんさ。半分冗談で作ったようなもんだしな」
 冗談で死にかけたのかとローランドががくっと肩を落とした。鈴はにやにやしていた。
「それに指導を受ける生徒分を作るのも面倒だったんでな。ただ、効果があることは確かだぞ?ローランドが希望するなら使っても構わんが」
 すかさずローランドが勢い良く首を振った。マニフィカが頭を抱えた。鈴はそれも冗談だったのか、ローランドの動揺を無視して準備運動を終えた生徒たちに向かって声を張り上げた。
「いいか、本来人間の筋肉は水より重く、また脂肪は水より軽い。つまり体脂肪率1桁のような特異な人間や泳ぐに向かない種族でない限り、人は水に浮くように出来ているのだ。なにしろ脂肪に加えて人間には肺と言う大きな空気袋があるのだからな。とりあえず泳ぎの型は二の次にして、体を水に浮かせるところからやってみろ!体に無駄な力が入らなければ必ず浮くはずだ。世界の法則がそうなっているのだから、俺の言うことに間違いはない!この天災魔導学者武神鈴を信じて信じて信じまくるが良い!」
 微妙に字に間違いがあるような気がしたが、自信たっぷりな鈴の言葉には妙な説得力があった。
「たとえおぼれても即救助して、間違いなく蘇生させてやるから安心して逝ってこい!」
 やはり微妙に言葉が間違っている気がしたが、すっかり乗せられた生徒たちがざばざばと海に入っていった。鈴は横に立っているロボットを見下ろしながら呟いた。
「ふむ。あの調子ならこれの出番はないか?まあ、どんなアクシデントがあるかわからないからな。起動だけはしておくか」
 そのロボットは鈴が蘇生用に作ったものだったが、見た目は三角の目をしたいかにも悪役といった面構えのタコだった。
「武神先生、そのロボットはなんですか」
 1人ぐずぐずしていたローランドの問いかけに、鈴がしらっと答えた。
「AED機能搭載の蘇生用ロボットだ」
「タコ型である必要は……」
「触手が水着の中に入り込んでAEDを発動するのだ。人工呼吸はタコ口でマウス・トゥ・マウスを……」
「わー、わかりましたっ」
 そんな蘇生をさせられたら別のトラウマが出来てしまいそうだ。ローランドは慌てて鈴の言葉をさえぎった。だが大声の鈴の言葉はしっかり生徒たちに聞こえていた。そして全員に「おぼれまい」と言う決意をさせていた。
「さて、指導を始めるとするか」
 鈴はざぶざぶと海に入っていくと、存外真面目に力を抜くための正しいポーズなどを指導し始めた。助手はジニアス・ギルツだった。ジニアスはローランドほどではないにせよどこか水を怖がっているような生徒に明るく声をかけていた。
「顔をつけるのが怖かったら、仰向けになって浮いて見るといいよ。武神先生の言うように、人間の体は浮くように出来ているからね、大丈夫だよ!力を抜いてリラックスして……そうそう。ぷかぷか揺られていると気持ちいいだろ?ここならまだ足がつくし、どうしても怖くなったら立ち上がって」
 マニフィカがこっそり周辺の塩分濃度を上げていたので、水に浮くのは比較的簡単だった。元々は泳げたと言うローランドも、しばらくごくりと息を飲んでいたが、思い切って海に入ってきた。浮くのに慣れてきていた生徒たちは、順々に水に顔をつけて浮くと言う段階に突入していた。ジニアスが一緒に顔をつけて海中のきれいな光景を指差して見せていた。
「みんな頑張っているなぁ。僕も頑張らないと負けてしまうな」
「うむ、その意気だ」
「顔はつけられますか?」
 鈴とマニフィカの声援を受けて、ローランドがゆっくりと海面に顔をつけた。一度目はすぐさま上げてしまったが、それで自信がついたのか次はのびーと浮かんでみた。ライフジャケットと塩分濃度のおかげで単純に浮くだけは簡単にクリアできた。しかしそこでつまずいてしまった。海で浮かぶというのが、事故を想起させたからだ。目の前で波間に消えていった愛する両親。無念や喪失感で一杯だったそのときの状況が脳裏にリアルに再現されて、ローランドは思わずむせながら立ち上がってしまった。げほげほと咳き込んでいるローランドを心配して、マニフィカが近づいていった。
「大丈夫ですか」
「けほけほ……ああ、ごめん、気を使わせて。大丈夫だから。それにしてもやけにしょっぱいな。海ってこんなだったかな」
「あ、それは……。その、塩分濃度が濃いと体が浮きやすくなるので、わたくしが術を使って変えてしまっているからですわ。みんながなれてきたら徐々に元に戻していこうかとは思っているのですが、浮くと言う感覚に馴染んだら次のステップに進むのも簡単ですので」
「ああ、そういうことなんだ。じゃあ今のうちに頑張るか。よし、もう一度」
「先生、無理はしないでくださいよ。どうしても息ができなかったら潜息珠をお貸ししますから」
 ジニアスがそう声をかけると、ローランドはかすかに笑って再び海面に体を投げ出した。
 他の生徒たちの指導をしていた鈴は、その様子を黙ってみていた。
『事故のことを思い出したか。これを乗り越えん限り泳げるようにはならないだろうが、あとは本人の心の問題だからな。これ以上、俺から奴にしてやれることはないな。まあ、頑張れ』
 浮いたり立ち上がったりをローランドが繰り返している間に他の生徒たちはどんどん水に慣れていって、泳ぎの型を教わり始めていた。少しずつ深い場所に誘導しながら、ジニアスは海流を調べていた。午後の大会でリレーに参加するつもりだったのだが、その下準備のためだ。潮の流れに逆らって泳ぐのは無駄に体力を消耗するばかりか、事故の原因にもなりかねない。自分がおぼれるとは思わないが、誰かがおぼれてしまう可能性は考慮していた。鈴の蘇生ロボットを頼るのは、面白そうではあったが生徒たちの反応にやはりやめておいた方がいいと思っていた。
 泳げない組が順調に練習を進めている頃、泳げる組の近くでテオド−ルが猫間隆紋に相談を持ちかけていた。テオドールは鈴にもらった材料で作ったお手製のスイミングスーツを着用していた。透明ビニールの向こうからつぶらな瞳がじっと隆紋を見詰めている。テオドールの目線にあわせてしゃがみこんでいた隆紋は、テオドールの相談をしみじみと反芻していた。
「テオドール殿が泳げないのは、元がぬいぐるみではいたしかたあるまい。それでも泳げるようになりたいと?ふうむ、午後の大会になんとしても参加したい、と。それは見上げた根性だ。もののけにしておくのはもったいない!ようし、それについては私に考えがある。なんとかしてやろう。で、とりあえず水泳教室のことだが……この教室は、速く泳ぐことではなく、最低限泳げるようになることが目的だからな。その目的に合わぬ者は己自身を見直す場所とすればよいだけの話。だからテオドール殿、キリエ殿に教わるのがベストであろう。彼女は泳げないと言う気持ちがわからないほど泳ぎが達者であるからな。だが、どうも心にもやもやしたものを抱えておるようだ。テオドール殿は泳ぐことは出来ずとも心を癒し慰めるのは得意であろう。互いの得手不得手を上手く組み合わせれば、教室の目的も達せられよう」
「本当にね〜なんで泳げるようにならなきゃならないのか悩んじゃうんだけど。それ、キリエちゃんにグチっちゃおうかなぁ。キリエちゃんにも悩みがあるなら、話し合えて心を軽くして上げられたらいいよね〜。んじゃあ行ってきま〜す」
 砂浜を歩くにはおもしがいささか邪魔だったようだが、なんとか海にたどり着き浮かび上がる。キリエたちはかなり沖のほうに出て練習をしていた。隆紋が見守っていると、テオドールはぷかぷかと浮いて海上を漂っていた。
「……」
「……」
 ざざーんざざーんと波が浜辺に打ち寄せている。その強さは、それなりの体格をした人間でも押してしまうほどだった。いかにおもりをつけていると言っても、まだまだ小さく軽いテオドールを翻弄するには充分だった。必死に足を動かしてキリエたちのいる沖に出ようとしたのだが、あえなく浜辺に打ち上げられてしまった。
「おもりがたりなかったかなぁ」
「しかしそれ以上重くしたら、今度は沈んで浮かび上がれなくなるぞ」
「それも困るなぁ」
 砂に埋まりながらあまり困ってない風にテオドールが言った。隆紋は目的遂行は難しいと判断して、テオドールを抱え上げると泳げない組の方に向かった。話を聞いて鈴がテオドールを受け取る。そして無雑作にジニアスがいる方向にテオドールを思いっきり投げつけた。
「あ〜れ〜」
「え?うわっ」
「おお、飛んだ飛んだ」
 指導を受けている生徒の手を引いて泳いでいたジニアスが、いきなり空中を飛んできたテオドールを見て慌ててキャッチした。
「あのね、ボクも泳げるようになりたんだけど」
「あ、ああ、そう。じゃあ手をつないでいてあげるよ」
 人間ならば足の届く深さでも、テオドールでは足が届かない。うかつに手を離したらどこかに流されてしまいそうな気がして、さすがのジニアスもしっかり手をつないでテオドールを海に浮かべた。スイミングスーツの防水は完璧なようで、とりあえず膨張してしまう気配はない。軽いので片手でも大丈夫と判断して、ジニアスはテオドールの右手を左手で握り締めながら泳ぐと言う感覚を教えようと海に潜っていった。初めて見る海中の風景を、テオドールは物珍しそうに眺めていた。
 そんな出来事があったことなどまったく気づかなかったキリエは、アリューシャたちの水泳指導を一通り終えると、気晴らしに遠泳を始めた。その後ろを人間形になったちとせが追いかけた。アメリアもついてきていた。キリエはやはり悩みを吹っ切れていないのだろう。後続のことを考えずに泳ぎ続けて、沖合いにある小さな島まで泳いでしまった。水から上がってため息をついていると、ようやくたどり着いたちとせとアメリアが息を切らせながら歩み寄ってきた。
「さすがは期待の水泳選手ですわね。私たちが必死に泳いでも全然追いつけないんですもの。そんなにむきになって泳いで……。やはりまだ悩みを吹っ切れていないようですわね」
「はあはあ、キリエってば速いぃ」
「あ、ごめん。着いて来てたのね。気がつかなかった」
 キリエが軽く肩を竦める。アメリアはぺたりと座り込み、息を整えていた。ちとせはリスの姿に戻ってやはり座り込んでいるキリエの肩によじ登った。
 そのまましばらく3人は黙って座り込んでいた。キリエはぼんやりと遠くの波打ち際でばしゃばしゃやっているローランドを見ていた。ローランドは時折マニフィカとなにやら和やかそうに話をしていた。
 どうやらまだずっとは浮いていられないようだった。泳ぎ方を教えたくてもそれ以前の段階で止まってしまっているため、アルトゥールが必死に激励しているようだった。実際には海に入っているだけでもたいした進歩ではあるのだが、それに伴っているであろう苦痛を思うと、キリエは暗い気持ちになるのを抑えられなくなっていた。アメリアがジルフェリーザを呼び出してその感情をなだめる。暖かな空気に包まれて、キリエが寂しげに微笑んだ。
「ごめん……。やっぱり心配かけちゃってるね」
「謝らなくてもいいよぉ。ただね、せっかくエクセル先生が元気になったのに、いつまでもキリエが気にしていたら、逆に先生を心配させることになっちゃうよぉ。それはキリエも嫌でしょぉ?」
「うん、わかっているんだけど。頭ではわかっているんだけど。なんかちょっとやっぱりへこんじゃうのよね」
 ちとせが髪の水分をしぼりながら優しく言った。
「支えになれば良いと申し上げましたでしょう。自分にとって大切な人がそばで笑顔でいてくれることが救いになるのですから。エクセル先生にとってはキリエさんが笑顔でいてくれることが救いになるのだと思いますわ」
「あたしでいいのかなぁ……。ずっと家族だったって、それは信じられるけど。この15年間、あたしが救いだったって言うのも嘘じゃないと思うけど。所詮は妹だもん。お兄ちゃんにとっては家族として守るべき存在なんだよね。いつかはお兄ちゃんも恋をして、あたしより大切な人が出来ると思わない?」
 その言葉に無自覚の恋心を感じ取って、ちとせが何気なしに言った。
「キリエさんは兄妹として認識してらっしゃいますけど、血が繋がってないのですもの。それがはっきりした今、将来的にこれまでと違う可能性が発生するかもしれませんわね」
「違う可能性?」
 ちとせの言いたいことがわからなくてキリエがきょとんとする。そうでなくてもブラコンで有名なキリエだ。ローランドの周りにいる女性にやきもちを焼くくらいに。それが本当の兄妹ではないとわかって、一人前の女性としてローランドを恋愛対象としてみる可能性は充分にある。そう言うと、キリエが真っ赤になった。
「ないない!そんなこと、絶対にないよ!そりゃお兄ちゃんのことは大好きよ。お兄ちゃん子だって自覚はあるけど、そんな、恋だなんてありえないよ。第一お兄ちゃんがあたしを妹以上に見るはずないじゃない」
 肩のちとせをがっしり掴んで力説する。アメリアはちとせの意見に納得のいくものを感じたので、隣でうんうんとうなずいていた。それでますます赤くなったキリエがちとせを掴んだまま固まっていると、背後からふぉふぉふぉと言う笑い声が響いてきた。振り向くと立っていたのはエルンスト・ハウアーだった。どうやってこんな沖合いの小島にやってきたのかわからないが、服装はいつものしゃれたスーツだった。エルンストは髭を撫でながらキリエにお説教を始めた。
「またなにやら随分と悩んでおるようじゃがの。君ではろくな考えも浮かぶまい。ワシは前にも言うたはずじゃぞ。ぐだぐだ悩むよりは、直球の方が君らしくて良いとな」
「はい……」
「役所や学校の規律とは違うんじゃから、形式や難しい言葉は要らないんじゃぞ。意味不明でもなんでもいいから、1人で悶々としてないで頭に浮かんだ想いを洗いざらいローランド君にぶちまけてしまいたまえ。そして吐き出すだけ吐き出したら、あとはぐちぐち言わない。君はそういうタイプだと思っておったんじゃが、ワシの買い被りかな?」
 それからエルンストはいまだに波打ち際でばしゃばしゃやっているローランドの方に視線を向けて言った。
「ほれ、ローランド君を見てみい。まだ泳ぐにはいたってないようじゃが、表情は明るいじゃろう。まるでつき物が落ちたような顔じゃないかね。ならばあとは君次第。簡単なことではないかな?」
 確かにローランドは、なかなか泳ぎまで達せられないでいても、決して落ち込んだ様子は見られなかった。むしろどことなく楽しそうだ。みんなの言うように、キリエが落ち込んでいたらローランドは傷ついてしまうだろう。話をするのは少し怖かったが、なんとなく勇気が湧いてきた気がしてキリエの表情に生気が戻ってきた。
 が、そこに追い討ちがかかった。
「それとも、そんなにローランド君に辛い思いをさせたとか思っとるなら、いっそ古来より定番の、男を奮い立たせる女になって励ましてみるかね」
「はい?」
 反射的にぎゅっと握り締められて、つかまれているちとせが痛そうに顔をしかめる。しかしエルンストの言葉はなかなか興味深いものだった。キリエが困惑した顔をしていると、エルンストがまた楽しそうに笑った。
「男を奮い立たせるのは良いおなごと決まっているもんじゃ。妹として甘えるのではなく、一人前の女性として接して見るのも悪くはないと思うんじゃが。なにしろどうせ血は繋がってないんじゃからな。支障はなかろう?ふわっはっはっは」
「ハウアー先生までそんなこと言うー!違うもん、そんな感情なんて持ってないもん。絶対絶対、違うーっ」
 ぽいっとちとせを放り出してキリエが海に向かってダッシュした。そのままざぶりと飛び込んで泳ぎ始めたが、動揺がフォームに現れていて、なかなか進まないでいた。キリエの恋心というには淡すぎる感情を微笑ましく思って、ちとせとアメリアはじたばたしているキリエを笑顔で見守っていたが、やがてキリエの様子がおかしいことに気がついた。
「キリエさんに限ってまさかとは思いますけれど……」
「私もそう思いたいけどぉ。あれってやっぱり……」
 ちとせとアメリアが顔を見合わせていると、エルンストがのんきにとどめを刺した。
「ふむ、よほど動揺したとみえるな。あきらかにおぼれているぞ」
 さーっとちとせたちの顔から血の気が引く。浜辺でも異変に気付いてテネシーが監視台から立ち上がっていた。その動きでローランドたちもキリエの異変に気がついた。どうやらフォームの乱れから足の調子をおかしくしてしまったらしい。なんとか立ち泳ぎをしているが、足の痛みでキリエの顔は苦しげだった。
「キリエ!」
「エクセル先生!?」
 大事な妹の危機に恐怖が消し飛んでしまったらしい。それまでは少ししか浮いていられなかったローランドが、見事なクロールでキリエ救出に向かったのだ。泳ぎを教えようとしていたアルトゥールがあっけに取られたようにその泳ぎを見つめてしまった。
 幸い完全におぼれてしまう前にローランドがたどり着いて、恐怖におびえているキリエを浜まで連れて行った。途中からアリューシャとアルヴァートが付き添った。
 浜辺ではアリスとアスリェイが待っていた。ただおぼれかけたとはいえ、水もほとんど飲んでおらず、恐怖とつってしまった足の痛みで 足元がおぼつかないだけだったので、鈴の蘇生ロボットの出番はなく、ローランドに支えながらアスリェイたちと一緒に休憩所へと向かった。
「こむらがえりかな?まだ痛むかい」
「もう、大丈夫です。ちょっとびっくりしたけど、大したことはなかったから」
「キリエがおぼれるなんて珍しいな。何かあったのかい」
 ローランドに問われて、それまで兄にしがみついていたキリエがずざっと離れた。顔が赤い。ローランドが不思議そうにしていると、キリエはごまかすように握りこぶしで叫んだ。
「あたしは遠泳で疲れただけ。それよりお兄ちゃん、すごいじゃない!泳げたよ!」
 キリエを助けるときは無我夢中だったので意識してなかったが、改めて言われてローランドもびっくりした顔になった。
「そういえば……キリエが危ないと思ったら、水の怖さが飛んで行ってしまったんだ。そうか、泳げたんだなぁ」
 キリエは指摘された感情を打ち消すようにわざと明るく振舞った。
「やったー!お兄ちゃんが泳げるようになった!嬉しいな。ちょっとほっとした」
「ん?なんでだい?」
 これは自然に言葉が出てきた。
「嫌なこと思い出させて、悪かったなって思っていたから。お兄ちゃんが前向きになったのはわかっていたけど、なかなか泳げないでいたでしょ。見てたよ。それがあたしのせいで無理させているみたいで辛かったから……泳げて本当にほっとしたよ」
 安堵の表情を浮かべる妹に、ローランドの顔もほころんだ。
「今度はちゃんと家族を守れたんだな。僕も嬉しいよ」
 家族という言葉にキリエの心がずきっと痛んだが、意地でその痛みを無視してしまった。アスリェイがローランドに向かって話しかけた。
「水も飲んでいないし大丈夫だと思うけれど、午後の大会に備えてキリエちゃんは少し休んでいたほうが良いね。ここはおじさんたちに任せて、ローランド先生は練習に戻りなよぉ。せっかく泳げたんだし、その感覚を忘れないうちにまた泳いでおいた方が良いよぉ」
「そうそう。彼女の面倒はしっかり見ててあげるから。行ってらっしゃい」
 足のマッサージをしていたアリスも言葉を添える。なによりキリエが「イグリード先生の言うとおり!あたしはここで大人しくしているから、また泳いでいる姿を見せて」と言ってきたので、ローランドは休憩所から出て行った。その姿が遠く離れたのを確認して、はあとキリエがため息をついた。アスリェイがぽんと頭を叩いた。
「遠泳していたのは見ていたけれどねぇ。あのくらいの距離、キリエちゃんなら何てことなかったんじゃないのかなぁ?それが戻ってくるときは妙に慌てて。なにがあったんだい」
「う……」
 まさか兄と慕っていた人に恋していると言われて動揺したとは言いづらく、キリエは目を泳がせてしまった。そして言葉を探したあげく、こんな風に伝えた。
「遠泳したのは、思いっきり泳いでもやもやを吹き飛ばしたかったからなの。お兄ちゃんに辛い思いをさせてしまったことが悲しくて、でもどう償ったらいいのかわからなくて。だって、お兄ちゃん、あたしを責めないんだもん。それどころか心配させちゃって。それが悔しくてもどかしくて。ああん、もう、上手く言えないんだけどっ」
 それでもキリエの思いは通じたらしい。アスリェイはスポーツドリンクを手渡すと、キリエの頭をワシワシと撫でた。
「あれはショック療法みたいなもんだと思うよぉ。それにね、あの時はおじさんが振った話がきっかけだったんだから、キリエちゃんが1人で責任を背負い込むことはないんだよ。おじさんも共犯ってこと。確かに荒療治だったけれど、ローランド先生の治療にはトラウマの痛みを乗り越える必要があったんだからあんまり気にしなさんな」
 ワシワシ撫でてくる手は相変わらず乱暴だったが、優しさをしっかり伝えてくれるものだった。キリエが目を閉じていると、アスリェイが言葉を続けた。
「まあ、キリエちゃんにはそう言っても納得しづらいかなぁ。いろいろ知りすぎちゃったから、敏感な思春期真っ盛りの乙女にはちときつかったかもねぇ。例えるなら目の前に大量の課題を置かれたようなもんかな?こういう時、解決する方法ってなんだと思う」
 アスリェイの質問にキリエは困った顔になった。アスリェイはまたワシワシ頭を撫でながら答えを言った。
「それはねぇ、とにかく目の前の物から片付けるってことだよぉ。これが一番!そして1つずつ片付けていけば、気がついたときには終わっているもんさ。だからね、キリエちゃん。今はやれることにぶつかっていくのがいいんじゃないかな。おじさんはそういうのも青春だと思うんだけどね……って、これはちょっとくさいかな」
 照れるアスリェイに、キリエとアリスがぷっと吹き出した。アスリェイはかりかり頭をかきながら、今度こそしっかり泳ぎの練習をしているローランドに目をやった。
「で、キリエちゃん、出るんでしょ。大会に。だから今はまずそれに頑張りなよぉ。おじさんでよかったらいくらでも話を聞いて上げるからさぁ。ま、役に立つかはわからないけどねぇ」
「そんなことないですよぉ。言ってること、良くわかるもの。ありがとう、先生」
「ならいいけどねぇ。じゃああとのことはお任せしましたよ、アリス先生。キリエちゃん、しっかり休んでおきな」
「はあい」
「任せてちょうだい」
 さすがに照れくさくなったのか、アスリェイは片手を上げて挨拶すると、振り向かないで休憩所を出て行った。それからしばらくマッサージを続けていたアリスは、筋肉のこわばりが完全に取れたのを確認して、ようやく手を離した。
「こういうのは癖になっちゃうからね。落ち着くまでもう少し大人しくしてらっしゃい」
「そうですね。ありがとうございます」
 午後の大会ではリレーに参加するつもりでいたキリエは、素直にアリスの指示に従った。屋根付きの休憩所は吹き抜ける風が爽やかだ。もらったスポーツドリンクを飲みながらキリエはローランドの練習風景を眺めていた。慣れてきたのかライフジャケットも脱いでしまっている。目覚しい進展ぶりにキリエがまぶしそうにしていると、アリスが傍らに座って話しかけてきた。胸の谷間からペットのリスが顔をのぞかせている。愛らしさにキリエが顔をほころばせると、視線に気づいたアリスがリスの頭を撫でた。
「この子はリズっていうの。私にとっては唯一の安らぎなのよ……私にはもう家族がいないから」
「え?」
「両親はだいぶん前にね。やっぱり辛かったわ。でもローランド先生のように、支えになってくれる妹がいたの。今の私がいるのも、妹が支えてくれたからなのよ。その妹も、ある事件のせいで亡くなってしまったのだけど……」
 そして上着をそっとずらして、肩の傷をキリエに見せた。
「この傷は、その事件のときについたものなの。整形すれば傷跡は消せるけれど、私は残しておきたいって思っているわ。だってこれはあの子が生きていた証だもの。過去と向き合うのが辛くないわけじゃないけど、逃げ出すのはもっと嫌。正面から向き合って生きて行きたいの。あの子のことを忘れないためにも。亡くなってしまった今でも、妹は私の支えなのよ」
 アリスの過去はキリエには想像できなかったが、思わず目を背けたくなるようなひどい傷跡が残る事件があり、人が亡くなっているということは、決して小さなことではないだろう。アリスはキリエの手をとって自分の傷跡に触らせた。キリエは痛ましそうな顔でそっと指先を傷跡に走らせた。羽が触れるような優しい感触に妹の笑顔を思い出しながら、アリスが言葉をつむいだ。
「私にとって妹が大きな存在であったように、今のローランド先生にとってあなたは大きな存在なの。失うまいとして、長年のトラウマを克服してしまうくらいにね。そのあなたが落ち込んでいたら、ローランド先生も辛い気持ちになってしまうわ。わだかまりを消化しきれないのは仕方ないけれど、自分ひとりで抱え込んでも解決することは出来ないわ。人に話すことによって気持ちの整理をすることは大事よ。ローランド先生には話しにくいかもしれないけれど、アスリェイ先生も自分でよかったら聞くって言っていたでしょ。私も同じ気持ちよ。ローランド先生の気持ちは私には良くわかるもの。同じ痛みを知るものとしてね。妹が支えだってことも一緒だし。だから遠慮しないでなんでも言ってちょうだい。女の気持ちはやっぱり女の方がわかると思うしね」
 キリエがどきりとした。おぼれかけた本当の理由。アリスの意見を聞いてみたい気持ちに駆られてしまった。
「あの、ね……イグリード先生には、お兄ちゃんの過去を知ってしまったのがわだかまりになっているって言ったんだけど。おぼれかけたのはそれが原因じゃないの。その……あたしがお兄ちゃんに恋しているんじゃないかって言われて動揺しちゃって。そんなことあるのかなぁ」
 アリスはにっこり笑って明るく答えた。
「一般的な恋とは違うけれど、確かに好意は持っているでしょう?それがこの先、恋に変わらないとは限らないわ。ま、もっともそうなったらそうなったで、辛い思いをすることになるでしょうけれど」
「どうしてですか?」
「だってローランド先生はキリエのことを家族だと思っているもの。一番大切で大事な存在なのは確かだけど、恋とは違うでしょ。片思いは辛いわよ。でもね、悪いことばかりじゃないと思うわ。だって人を好きになるって、自分を磨いてくれる気持ちだもの。あなたはまだ若い。どんどん恋をなさい。そして自分を磨いていきなさい。ローランド先生への気持ちがどう変わるかはわからないけれど、いつか自信を持って彼の前に立てる女になりなさい。それこそ青春の特権よ」
「はい」
 アリスの言葉はすんなりキリエの心の中に入り込んで、キリエは素直にうなずいていた。
 あとは大きなハプニングもなく午前は過ぎてゆき、時間を見計らっていたテネシーが集合をかけた。全員が海から上がったのを確認して監視台から降りる。そのままルシエラの元に向かい、ミズキも交えて午後の大会の打ち合わせを始めた。他の生徒たちは思い思いに海の家で昼食を取り始めた。キリエは約束どおりアルヴァートにやきそばをご馳走してもらって、アリューシャたちとたわいない話をしながら食べていた。ちとせやアメリアも同席していた。
「へえ、知り合ったきっかけって楽師としてなんだ」
「うん。リリアちゃんのお母さんの実家でパーティがあってね。一緒にやろうってことになったのが馴れ初めなんだ」
「懐かしいですわね。あの時はアルバさんの音色に胸がドキドキしましたわ」
「それはこっちの台詞だよ」
 のろけあう2人をキリエが冷やかす。照れてアルヴァートが真っ赤になり、アリューシャはくすくすと笑っていた。
「でも出会えて嬉しかったですわ」
「オレもだよ。恋するってこんなに素敵なことなんだって、アリューシャに出会って初めて知ったよ」
 恋という単語にキリエがぴくりと反応する。ちとせとアメリアがぎくりとした顔になった。キリエは気まずそうに苦笑いした後、アルヴァートたちに問いかけた。
「恋するってそんなに素敵なこと?あ、さっきね、イブ先生にどんどん恋をしろって励まされたんだけど。なんかぴんとこなくって」
 キリエのローランドに対する気持ちに恋心めいたものがあることはアルヴァートもうすうす感じ取っていた。ただそれは明らかになったばかりの事実から来る代償行為である可能性も否定できなかった。だからはっきり明言するのは避けて問いに答えた。
「焦らなくてもいいんじゃない?なにをするにしても、決めるのは自分なんだし。だから自分の心と向き合って、自分に正直になるしかないよ。それが恋かどうかなんて、そうしてみなきゃわからないって。なんて偉そうに言っているけど……」
 そこから先はアリューシャに聞こえないようぼそぼそと呟くように言う。
「オレだって自分の心すらはっきりとはわかってないんだけどね。たまに、オレはたんに独占欲が強いだけなんじゃないかって思うから」
「アルバさん?どうされたのですか?」
 聞き取れなかったアリューシャが身を乗り出してくる。無防備な水着姿にアルヴァートが再び赤くなった。しかし幸福そうではあった。その様子に、キリエがうらやましそうな顔になった。
「アルヴァートってば、自分のことわかってないなぁ。それとも恋をするってそういうものなのかな」
「キリエさん?」
 今度はキリエに向かって首をかしげるアリューシャに、キリエがいたずらめいた口調で答えた。
「アルヴァートはアリューシャに恋をして、幸せそうだなって。そっか、恋ってやっぱりいいもんなんだね」
「いいばかりではありませんけれどね」
 少し悲しそうにアリューシャが言った。
「キリエさん、エクセル先生に辛い思いをさせてしまったって思ってらっしゃいますでしょう?大事な人に苦しい思いをさせたことを嘆く気持ちは、わたしにもよくわかりますわ。身を持って経験してますから……これは恋をしてなかったら感じることのなかった気持ちでしょう。でもね、恋をしたことを後悔はしてませんのよ。だって大事なのは、悔いる気持ちで立ち止まってしまわないで一緒に乗り越えられるように歩みだしてあげることですもの。そうでしょう?」
「そうだね……さっきうっかりしておぼれそうになっちゃたんだ。それを見たお兄ちゃん、水への恐怖をはねのけて泳いで助けに来てくれたの。嬉しかったな。そういうものなのかもしれないね」
 その様子を見ていたアメリアが大きくうなずいた。
「ほんと、びっくりしちゃったぁ。エクセル先生にとって、キリエは本当に大切な人なんだねぇ」
「……妹としてね」
 その前の話題を思い出し、釘をさすようにしかめ面でぴしりとキリエが言う。アメリアはちとせと顔を見合わせた後、あははと笑った。
 少し離れた場所でアメリアの屈託のない笑顔を目を細めながら見つめていたアルトゥールは、やや疲れた様子のローランドにさりげなく話しかけた。
「アメリアって、いつも明るいでしょう」
「え?ああ、そうだね」
「でも悲しみを知らないわけじゃないんですよ。故郷の世界で幼い頃に両親が目の前で殺されて、お兄さんと2人きりになってしまって孤児院をかねた神殿で暮らしていたんだけど、そこも悪い奴らに襲われてしまって家族同然だった人たちを傷つけられてしまったんですよね。それで、それからもいろいろ辛いことや苦しいことがあったんだけど、最終的に光の巫女として目覚めて、仇を許したんです。お兄さんが支えになっていたのはちょっと先生たちと似ているかな?」
「そんなことがあったんだ。明るくて素直で、とてもそんな風には見えないのに。彼女も大変だったんだね。キリエと大して歳が違わないのに、すごいな」
「自分からはなにも言いませんけれどね。けれど、大きな悲しみを乗り越えて、今の元気なアメリアがいる。先生にもそうなって欲しいです。頑張ってください」
「そうだね。ようやく泳げるようにもなったことだし、午後の大会も頑張るか」
 それを聞いてふとアルトゥールがローランドを見上げた。
「そういえば何に出るつもりなんですか?」
「戦い向きじゃないからね。騎馬戦や水球は無理だろう。やっぱりリレーかな。ま、足は引っ張ってしまうかもだけど。せいぜい努力するよ」
「そうですか」
 ひそかに同じ種目に出てフォローしてやろうと決心していたアルトゥールだった。

                    ○

「どうやらリレーの人数が一番多いですね。でもまあ、紅白2チームで間に合いますか」
 大会参加受付をしていたミズキが名簿を見て言った。一緒にチェックをしていたルシエラが手早く組み分けを始めた。テネシーは風紀委員たちを集めて大会の注意事項を伝えていた。
「テネシーさん、これを」
 かたわらではマニフィカがせっせとライフジャケットを用意していた。
「泳げる人にはいらないのでは?」
「リレーの人数が多いらしいですのでぇ。泳げる人には逆にハンデになって良いのではないでしょうか。格差が減りますから盛り上がりますよぉ」
「まあ、リレーだけは特殊なルールがないそうですから、確かにいいかもしれませんね。では配布はお任せいたします」
「わかりましたぁ」
 アスリェイは4人乗りのゴムボートを宿から調達してきていた。アリスが手伝って、救護の準備をする。鈴が蘇生ロボットを連れてきて高笑いしていた。
「テオが水球に参加希望……?」
 ミズキが困惑した声を出した。テオドールはこくりとうなずいた。
「騎馬戦はボクのサイズじゃアンバランスでみんなに迷惑かけちゃうし、リレーはまだ1人じゃ泳げないからねえ。消去法で水球かなって。邪魔にならないプレイや相手チームの攻撃のブロックとかならなんとかなりそうでしょ?」
「ふむ。やはり水球を選んだか」
「あれ、猫間先生、どうしたんですか?」
 いつの間にか隆紋がテオドールの背後に立っていた。その手にはサラ○ラップが握られていた。
「いや、なに。水球用のボールが見当たらなくてだな」
「ふうん?そうなんですか……って、あっ、きゃ〜わ〜もごもご」
 警戒心のないテオドールを掴むと、隆紋が手にしたものでぎゅうぎゅうとぐるぐる巻きにしていった。
「少し大きいやも知れぬが、こうして固く絞って固めれば……なんとか……」
「もごもごもご〜」
 あっという間にテオドールは一個のボールに仕立て上げられてしまった。ミズキが頭痛をこらえるかのように眼鏡を指で押し上げた。
「ボールは用意してあったはずですが」
「泳げないが大会には参加したいと言う心意気に感動してな、こうしてみたんだが。ついでだからレフェリーは私がつとめよう」
 対する隆紋はあっけらかんと言い放った。己の状態に頭の中で疑問符がラインダンスを踊っているテオドールは、わけのわからないまま隆紋に抱え上げられてしまった。
「まあ、いいでしょう。あれも参加には違いありませんから。ではアクティア先生、そろそろ始めましょうか」
 ミズキに促されてルシエラが参加者と見物人の前に進み出た。良く響きわたる澄んだ声で大会の開始を告げる。わーという歓声と拍手が起きた。続いてミズキが前に出てルールの説明を始めた。
「この大会は紅白戦といたします。競技の順番はまず騎馬戦。続いて水球。最後にリレーといたします。騎馬戦では馬役の人には馬の被り物をかぶっていただきます」
 アンナ・ラクシミリアと組む予定だった生徒がげっと言った。ミズキがさらっと「シャモン家の伝統ですので」と抗議を封じてしまった。
「騎馬戦の審判はわたしがつとめます。普通の騎馬戦ですので、必殺技や魔法の使用は禁止といたします。純粋にはちまきを奪い合ってくださいませ。取られたら競技エリアから退場のこと。はちまき一本を一点として、時間内に多く点数を取った方が勝ちといたします。なおいかなる理由であろうと相手の水着を剥ぎ取った競技者は失格とし、罰を受けていただきます。−3点のペナルティに加え、油風呂の刑を受けていただきます」
 油風呂とはこれまたシャモン家に伝わる秘湯の1つだった。お湯の表面に油を広げ、その中心に火のついたろうそくを小船に乗せて浮かべておくと言うものだ。周囲には松明を用意しておく。必然的にお湯や油の温度は上がり、うかつにろうそくを倒したりしたら引火してしまう。入浴するものはろうそくの火が燃え尽きるまで出ることが許されない拷問だった。昼休みの間に準備を進めていたのだろう。ホウユウが砂浜に作った簡易の油風呂の周りの松明に火をつけるところだった。それをみて騎馬戦参加者が全員息を飲んだ。
「そうそう、それから競技エリアに障害物を放っておりますので注意してください」
「あれか」
 グラントがホウユウと一緒に捕獲しておいた大タコのことを思い出した。一部は海の家でたこ焼きの材料になったが、まだまだたくさん残っていたはずだ。ミズキが説明を続けた。
「水球ですが、基本的なルールは普通の水球と同じです。審判は猫間先生が担当されます。必殺技および魔法の使用ですが……当初は可とするつもりでしたが、都合により禁止とさせていただきます」
 死ぬことはないと思われるが、魂のある存在をボールとして使用するのであれば、さすがにあまり無茶は出来なかった。
「最後のリレーですが、順番はこちらで組み合わせを決めておきましたので確認して置いてください」
 参加者たちに組み分けや順番などを記入した紙を配る。続いてマニフィカがライフジャケットを配り始めた。
「万が一と言うことがありますからねぇ。参加者は全員着用してください」
「ま、ボートで待機してはいるけどな」
 アスリェイのフォローを鈴が落とした。
「心肺停止など恐れるな。この蘇生ロボットがあれば何の憂いもないぞ」
 巨大だがリアルなタコの触手がうぞうぞと蠢き、口が突き出される。いかにも悪役面は不気味以外の何者でもなかった。参加者たちは自主的にライフジャケットの具合を確かめてしまった。
「いよいよ出番だな」
 ボクサートランクス型の水着をはいていたグラントがリリアの肩を叩いた。リリア少し心配そうにグラントを見上げた。
「あまり調子が出ていらっしゃらなかったようですが、大丈夫ですか」
 午前の教室のときのことを言っているのだろう。グラントが海鱗鎧に着替えながら安心させるように笑った。
「雪山でスキーとか言うよりは、暑い分ましさ。確かに水とは相性が悪いが、そのためにこいつを着るんだし。おまえには指一本触れさせないから安心しろ」
「はい」
 力強い言葉にリリアも微笑みを浮かべた。司会役のルシエラがぴーっと笛を吹いた。
「よし行くか。俺たちの相手をする連中は不運だとしか言えんが、いっちょ一暴れさせてもらうぜ」
「点数の多いほうが勝ちでしたわよね。速攻でまずは弱い連中からしとめてゆきましょう。容赦はいたしませんが」
「おう」
 グラントがミズキから渡された馬の被り物をかぶりリリアを肩車する。それを見てリリアの出場種目に興味津々だったファンクラブの連中が一斉に騒ぎ始めて風紀委員たちの叱責を受けていた。
「あらあ、相手チームにリリアさんたちがいらっしゃるのですか。さて、どうしましょう。まあ、あたったらレッドクロスを装着いたしましょうか。それまでは他の方々のはちまきを狙いますわよ」
 水に濡れてしまうと髪を整えるのが大変になってしまうアンナが馬役の生徒に告げた。グラントが水が苦手だと言うのは午前の教室で無茶を制止していたのでわかっていたが、着ているスケイルメイルはおそらく水に耐性のあるものだろう。リリアと組まれて技や魔法を使われては、自分も切れない自信がアンナにはなかった。
 赤組の大将がアンナ、白組の大将がリリアになってミズキの合図とともに馬が海に入っていく。アンナの足を隠していたピンクの巻きスカートがふわりと揺れた。
 障害をわかっていたグラントはともかく、足元をうろつくタコがいささか邪魔だったが、アンナの励ましを受けて白組はなかなかの奮闘振りを見せていた。リリアも負けじと自軍に発破をかけていた。そのため優劣は最初のうちは五分五分に見えた。リリアたちが特に技を使ってこないので、アンナも最初は気軽に動きの鈍い敵のはちまきを奪っていっていた。だが次第に数が減り互いに腕に覚えのある組だけが残ってくると、さすがにひしひしと闘志を感じ始めた。赤組の魔法の得意な選手がリリアを肩車して1人で馬をつとめているグラントに水術で攻撃を仕掛けた。水の塊がグラントに襲い掛かる。グラントはにやっと笑ってこちらは火弾を放ってそれにぶつけた。水蒸気爆発が起きてあたり一面もうもうとした霧に包まれる。グラントは雄たけびを上げながらその中を突進してきた。狙うはもちろん攻撃を仕掛けてきた相手だ。売られた喧嘩を買わない法はない。突進しながらリリアに叫んだ。
「あいつは水の魔法使いだ。雷でも食らわしてやれ!」
「はい!」
 さすがにうっかり殺してしまうわけには行かないので、技は使わずにただ己の武器に雷の属性を付加させてぎりぎりのところでかすめるように攻撃を仕掛け、相手が使ってきた水流を通して感電させはちまきを奪った。ただ感電したのは狙った相手だけではなかった。海水を通して周囲にいたものたちまでびりびりさせた。ついでに失神したタコもぷかーと浮かび上がってくる。統制の乱れた味方が次々にはちまきを奪われるのを見て、アンナがぷつっと切れた。
「感電させて動きを封じるなんて卑怯ですわ!」
 すちゃっとレッドクロスを装着すると、茶色の髪がピンク色に変わり潮風になびいた。そして自分の馬に命じてグラントたちのほうに向かわせた。残りの味方がそれに続く。白組の面々もリリアを先頭に突進してきた。
「白組優勢、優勢です!これは大将戦にもつれ込むか!」
 司会のルシエラの実況中継にも熱が入る。リリアの戦いぶりを見てミズキやホウユウが満足そうにうなずいていた。
「このまま引き下がりはしませんわよ」
「のぞむところですわ」
 周りで紅白残りの組が戦っている中、アンナとリリアががしっと組み合った。アンナの馬が普通の騎馬と同じように複数でアンナを支えているのに対し、リリアの方はグラントの1人騎馬だったが、アンナとリリアがはちまきをめぐって押し合っていてもグラントの体勢は揺るがなかった。アンナの馬が浮かんでいるタコを掴んでグラントに向かって投げつけても、グラントはひょいと首を曲げて簡単にかわした。逆にぼっしゃんと海面に叩きつけられたショックで気がついたそのタコを無雑作に拾い上げて顔を相手に向けた。
 ぶっしゅー!気がついて怒りに燃えていたそのタコは、見事にアンナの馬の顔面に墨を吐いた。ただでさえ被り物のせいで視界が悪かったところに墨を吐かれて、その馬がぐらりと体勢を崩した。
「え?きゃっ」
 バランスが崩れたところを狙ってすばやくリリアがアンナのはちまきを奪い取る。アンナはばっしゃーんとそのまま海に落ちてしまった。
「ああ、髪が濡れてしまいましたわ」
 浮かび上がったアンナががっかりしたように呟いた。レッドクロスを外した髪が元の茶色に戻ってぺたりとアンナの頬に張り付く。ぴぴーと笛の音が響いて戦いの終了を告げた。お遊びの戦いでもあることだし、負けたことは深く気にしないですいーと浜辺に向かってアンナは泳ぎ始めた。勝ったリリアたちはわいわいと海の中ではしゃいだ声をあげていた。
「まずは白組が1勝しました。続いての競技は水球です。選手は位置につきなさい」
 ルシエラの指示に従って水球に出場する選手が集まってくる。本来、水球はプールで行う競技だが、今回は海で行うため風紀委員が監視をかねて競技範囲を示したロープを持って立っていた。レフェリーとゴールジャッジは隆紋以外は選手として大会に参加しない水泳部員が担当することになった。8分計のタイムキーパーはミズキの担当だった。海面に浮かんだ白いゴールポストは波にゆらゆら動きいかにも得点しづらそうだった。それに闘志を燃やしていたのはホウユウだった。メンバーは希望者が少なかったため互いに最小の7人構成だったが、その分のびのびと動けそうで試合が楽しみだった。技を禁止されたのは痛かったが、その代わりパーソナルファールもなしとなったため思う存分に暴れられそうだった。ホウユウは赤組のキャプテンに指名されていた。騎馬戦で負けてしまっていたので、何とかして取り返したい気持ちもあった。
「それにリリアにも負けてはいられないからな」
「素敵でしたね〜。ポロりがなかったのはおしかったけれど」
 仲間の選手はリリアのファンだったらしい。うっかり口を滑らせて、ホウユウに頭をがしっとつかまれた。
「人の娘で変な妄想しているのはこの頭か?」
「あいたたた、す、すみません、すみません」
 かぶっている青の帽子が取れそうになって、その生徒は悲鳴を上げながら必死に謝った。
 ホウユウが仲間をいたぶっていると、隆紋が選手たちに所定の位置に着くよう声をかけてきた。それでようやく解放された生徒は、口は災いの元と言う言葉をしっかり胸に刻み込んで先に泳いで陣地に向かっているホウユウを追いかけた。
 レフェリーたちはすでに待機していて、茶色くて微妙に大きくて歪んでいるボールもセットされていた。
『ボク、浮いているの?どうなっちゃうの?猫先生〜』
 中央に浮かべられたそのボール、もといボールにされてしまったテオドールが混乱している間に競技開始の笛が鳴った。すかさずテオドールを奪い去ったのはもちろんホウユウだった。片手でがしっとつかみざばざば泳いでゴールに向かう。阻止しようと敵側の選手が群がってくる。ホウユウが放ったシュートは波によってゴールに入る寸前に押し戻されてしまった。
「ちっ!」
「ラッキー♪まわせまわせ!」
 敵の手に渡ってしまったボールを追いかけてざばざばホウユウが泳ぐ。シュートしようとした人間に体当たりをかませ、見事奪い返した。
「ふふん、甘いな」
 すばやく向きを変え華麗なパスさばきで敵のディフェンスをかわしていく。海面についてしまうシュートでは先ほどの二の舞になると踏んで、受け取ったボール、もといテオドールを思いっきりゴールポストぎりぎりの高さ目がけて投げつけた。
 ピー!見事にそれは決まり、ホイッスルが鳴り響いた。
『うわぁん、皆でボクの奪い合いをしているよ〜!?これってお姫様状態っていうのかなぁ。なんかくらくらする〜』
 痛みは感じなくともぽいぽい投げ合われてテオドールが目を白黒させている。まさかこのいびつなボールがテオドールだと思っていなかったホウユウたちは、先取点に歓喜の声を上げていた。若干の違和感は感じていたが。
「それにしても……水球のボールってあんなだったか?」
「しょせん遊びだからねぇ。どこかから適当に調達してきたんじゃないのか」
 相手の意見に今ひとつしっくりしないでいたが、フリースローで試合が再開されたため会話はそこで中断された。
 必殺技を使えないため競技は点を取りつ取られつ進んでいった。そして2Pが終了しコートチェンジになった際、何気なしに隆紋が持っているボールに目をやったホウユウは、サ○ンラップの半透明な向こう側から見つめてくるつぶらな瞳と視線が合ってしまい、ぎょっとして危うく沈みかけた。
『なんだ、あれは』
 思わず心眼で気配を探ってしまったホウユウは、そのボールがテオドールであることに気付いて呆れてしまった。
「だから技や魔法を禁じたのか」
「え?なんだって」
 並んで泳いでいた味方が問いかけてくる。ホウユウは笑いをこらえながら首を振った。
「いや。多少リードしているとはいえ、油断は禁物だ。全力で行こう」
 誰の仕業かはわからなかったが、ボールの正体が何であれ、勝負事に手抜きをしないのは礼儀だと考え、こっそり心の中でテオドールに侘びを言ってから仲間を激励した。
 その甲斐があってか、水球は赤組の勝利に終わった。
「うむ、良く貢献してくれた。あっぱれだぞ」
「ああーっ」
 試合が終わり隆紋が拘束を解いてやると、ボールの正体に気づいた面々からどよめきがわく。テオドールはふらふら歩いて見守っていたテネシーの元に行くとしょんぼりした声で懇願した。
「ひどい目にあっちゃったよう。もうむさくるしい男部屋になんか行きたくない〜女の子部屋で寝てもいい?」
 哀れむ心は持ち合わせていなかったテネシーがきっぱり断ろうとしたが、リリアがくすくす笑いながらテオドールを抱え上げた。
「もとより性別を持ち合わせていないテオですもの。よろしいのでは?一番ひどい目に合わせたのは父のようですし、私からもお願いいたします」
「しかたありませんわね」
 確かに女の子の間にまぎれても違和感がない。ホウユウが一番テオドールをいたぶって(?)いたのも事実だ。リリアの言葉にテネシーはしぶしぶ承諾した。
「良かったですわね。今晩から私たちと一緒ですわよ」
「わ〜い」
 まだ頭がふらふらしていたテオドールの声には、喜びはあったがさすがに元気はなかった。
 2競技が終わって勝敗は一対一の引き分け。紅白戦の行方を決めるのは最後のリレーとなった。
「え?キリエ、赤組なのぉ。エクセル先生は白組なのにぃ」
 やはり白組のアメリアが驚いた声を上げる。キリエはVサインをしてみせた。
「せっかくお兄ちゃんが泳げるようになったんだもん。ここはやっぱり勝負でしょ」
 ローランドに付き添っていたアルトゥールが、複雑そうにしているアメリアの肩を叩いた。
「やりたいって言うんだからそうさせてあげれば?」
「う〜ん」
 ローランドと距離をとりたい気持ちが見え見えで、アメリアはついうなってしまったが、ローランドにもさばさばとした声で「受けてたつ」と言われてしまい、仕方なく離れていった。同じ白組のジニアスが気楽に声をかけてきた。
「潮流は調べておいたから俺についてくれば大丈夫だよ。先生も結構泳げるようになったみたいだし」
「う、ん。わかったぁ」
 キリエの真意はさておき、水泳選手として戦いたい気持ちも嘘ではなかったようなので、アメリアはとりあえず自分も頑張ろうと決心した。自分に気合を入れているアメリアを見て、アルトゥールがちょっと微笑んだ。ライフジャケットがいまひとつ色気を下げていたが、それはそれで可愛いなどとローランドにのろけたりしてしまった。
 赤組でキリエと一緒なのはちとせだった。こちらもキリエの心情には気がついていたが、レース用に人間形になってキリエを励ました。
「とりあえず今は何も考えずにゴールを目指しましょう」
「任せて。休憩はしっかり取ったから。必ず勝とうね」
「ええ」
 せっかく旅行用に新調した白ワンピースの水着がライフジャケットで隠されてしまうのがやや不満だったが、キリエの明るい声にちとせは軽く口の端を上げてキリエの言葉に応じた。ふふふと含み笑いをしたのはアクア・エクステリアだった。
「大丈夫ですよぉ。必勝の策ならばこの胸にありますわ」
 やけに自信満々なアクアの言葉に、ちとせとキリエが顔を見合わせた。アクアは長い髪をきっちりとまとめながらちらりとジニアスを見た。
「潮流がどうのとおっしゃっていたようですがぁ。真夏の海、光り輝く波間とくれば、海の申し子である私の出番ですわ。私を敵に回したこと、心底後悔させて差し上げましてよ」
 ぞくっとしたものを感じてジニアスが胸を押さえる。邪悪な笑みにキリエが思わず何をするつもりなのか聞いてしまった。アクアはにこにこと作戦を説明し始めた。聞いているうちに、さすがのキリエも兄が心配になってきてしまったが、いまさら組み分けは変更できない。ちとせは乗り気になっているようだった。
「良いですわね。それでいきましょう」
「でしょう?持てる力のあらん限りを勝利のリソースとするのが私流ですわ。ライフセイバーは大勢いることですし、ライフジャケットも着用しているのですから、万が一のことなど考える必要はありませんよぉ。キリエさん、勝負に情けは無用です」
「う、うん。そうだね」
 勢いに押されてキリエも反射的にうなずいていた。
 リレーなのでさほど遠くない位置に用意されたポールを廻って浜に戻り、次の選手と交代することになっていた。海上ではゴムボートに乗ったアスリェイやアリスがすでに待機していた。ポールの側にいるのはマニフィカだ。近くをイルカのフィルが泳いでいる。鈴は浜辺でタコを傍らに置き選手たちを見守っていた。
「みんな〜準備はいいかしら?では最後の競技を始めるわよ」
 明るいルシエラの声に一番手のアクアとジニアスが前に進み出た。
「よろしく、くすくすっ」
「こちらこそ」
 アクアの思惑を知らないジニアスは明るく返事をしたが、背中の悪寒は消えないままだった。
 ピィーと高らかに笛が鳴り響き両者一斉にスタート。ジニアスは予定通り調べておいた潮流に乗って泳ぎ始めたが、調子が出始めたところでいきなりその流れが変わってしまった。と言うか、突如発生した渦に巻き込まれてしまったのだ。
『何でこんなところに渦が!?』
 とっさに潜息珠をくわえて深く潜ったが、渦はかなり大きく、相当下まで潜らないと渦から逃れることは出来なかった。前方を見るとアクアがすいすいと泳いでいた。どうやらその周辺には強力な流れがあるようだ。それは明らかに人為的な流れだった。水をかく腕や指先で装飾品がきらりと光る。悪寒の正体に気がついて、ジニアスが額に手を当てた。自分はともあれ、まだ泳ぎに不慣れな選手はこんな仕掛けに引っかかったらたまったものではないだろう。
『ま、なんとかなるか』
 しかし悩んでいても仕方がない。すでにだいぶん引き離されてしまっているのだ。渦に巻き込まれないよう潜ったままジニアスは泳ぎを再開させた。
 かなりの差をつけて2番手のちとせと交代したアクアは、浜辺で待機する振りをしながらこっそり海水を操っていた。アルトゥールはジニアスの戻りを待っているローランドに潜息珠を手渡していた。
「なんだか変な渦が出来ていますよ。巻き込まれたら大変ですから、これを使って底の方を泳いでください。そのほうが安全です」
「わかった」
 渦のせいでアスリェイたちはコース上に近づけないでいるようだった。ありがたく珠を受け取ってジニアスと入れ違いにローランドが泳ぎ始めた。言われたとおり沈んだらしい。見えなくなった姿を追いかけながら、アメリアが心配そうにアルトゥールにささやいた。
「先生、大丈夫かなぁ」
「あの珠があればおぼれることはないから。まあ、元々運動向きの人じゃないから、この差を縮めるのは難しいかもだけど、無事に戻ってきてくれたらそれでいいさ。アンカーのアメリアには無理させちゃうけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫。あの渦は水の精霊にお願いして消してもらうからぁ」
 すでにちとせは戻ってきていて次の生徒とバトンタッチしていた。キリエがきゃいきゃい言って健闘を称えあっているのが聞こえた。
「はあはあ、だいぶ差をつけられちゃったな。ごめん」
「良いですよ、気にしないでください。じゃあ行ってくるよ」
「アルトゥール、気をつけてねぇ」
 精霊を呼び出したアメリアは、この渦がアクアの仕掛けた罠であることに気付いていた。水を操るのはアメリアも得意だったが、腕輪や指輪で力を増幅させたアクアの魔法に対抗するのはさすがに至難の業だった。渦は何とか止められたが、海流まではどうにも出来ない。リレーは赤組の圧倒的有利で進んでいた。はらはらしながらアルトゥールの帰りを待っていると、ローランドが肩に手を置いた。アメリアがはっとしてはにかむような笑みを浮かべた。アルトゥールの努力でいくらか差は縮まったようだが、赤組はすでにアンカーのキリエに順番が廻るところだった。アメリアがそちらに視線をめぐらせると、キリエはアメリアには笑って見せたが、アメリアの肩に手を置いたままのローランドにはつんとそっぽを向いてしまった。
「キリエ、何か怒っていた……?」
 ローランドが不思議そうに聞いてくる。アメリアは肩の手に気がついてこわばった笑みを浮かべた。
 やがて無事泳ぎきったアルトゥールが戻ってくる。負けはすでに決まったようなものだが、赤組アンカーのアメリアが懸命に泳ぎ始めた。水に入ったことでアメリアの水を操る力が強まる。アクアも負けじと力を振るっていた。強力な海流の後押しもあって、キリエは順調に泳いでいた。アメリアも頑張ったのだが、最初に開いた差は最後まで取り戻せなかった。
「あ〜やっぱりキリエは速いなぁ」
「う、ま、まあね」
 アクアの作戦に乗ったことがばれていないと思っていたキリエが、アメリアの台詞に後ろめたそうな顔になる。アメリアもキリエにやきもちを焼かせてしまったお詫びに、こそっと耳元でささやいた。
「魔法を使ったのはお互いさまなのぉ。だから気にしないで」
「あ、ばれてた?」
「うん。ふふふ」
 アメリアがいたずらっぽく笑うと、キリエもほっとしたように顔をほころばせた。作戦の成功にアクアが満足そうにほくそえんでいた。
 救護係が全員戻ってきてしめの言葉をルシエラが言い、着替えてそれぞれ宿に向かって歩き始める。夏の長い一日もそろそろ終わりを迎えようとしていた。キリエは女友達に囲まれながら「勝った勝った、お兄ちゃんに勝った」とはしゃいでいたが、あえてローランドには近寄ろうとしなかった。ローランドはキリエの明るい口調にごまかされてその不自然さには気付かなかった。トラウマを克服できた幸福にひたっていたせいもあるだろう。気付いていたのは一部の人間だけだった。新たな悩みを抱えてしまったキリエと鈍感なローランドの兄妹の行く末は、今は誰にもわからなかった。
 宿に着くと初日同様テネシーはさっさと床につき、他のメンバーは夕食を食堂でとっていた。その間にローランドが3日目の予定を伝えていた。
「明日はオリエンテーリングだ。起床時間は今日と同じ。食事が済んだら海に出て着替えて待機のこと。あ、その前に弁当を受け取るのを忘れないように。オリエンテーリングが終わったら、夜はそのまま浜辺でバーベキューとキャンプファイヤーだ。花火も用意するから楽しみにしていてくれ」
 アクアが楽しそうに鼻歌を歌っていた。
「いよいよですわね〜みんなの反応が楽しみですわ〜るん」
 オリエンテーリングのためにあれこれ仕掛けをすでに施していたアクアは、翌日が待ちきれないようだった。アメリアがそんなアクアを苦笑しながら見つめていたが、ちとせにくいくいと服を引っ張られて顔をそちらに向けた。
「なぁに、ちとせ」
「ね、キリエさん……」
 キリエは浮かない顔でローランドを見ていた。ローランドの隣りにはアリスが立っていた。他にもアスリェイやエルンストといった男性教師陣もいたのだが、彼らの存在は目に入ってないようだった。
「やっぱり、そうなのかなぁ」
「どうなんでしょうねぇ」
「キリエがどうかしたの?」
 アリューシャと話していたアルヴァートが身を乗り出してきた。アメリアが困り顔で答えた。
「うん……やっぱりキリエ、エクセル先生に恋しているのかなって」
「恋かどうかはこれから答えが出ることじゃないかな」
 アルヴァートはさりげなくけん制した。そのひそひそ声を聞きながら、もやもやした気持ちを抱えたのはそばで食事をしていたマニフィカだった。

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